「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
T君の記憶


多分、現在駐車場になってる辺りだったと思うんだが・・・・・・

Google Street Viewよりキャプチャ

 今は東部市場前って新駅が出来たけど、かつて関西線は天王寺の駅を出ると次は平野だった。出来たのはワリと最近・・・・・・っちゅうても調べてみたらもぉ30年くらいになるんやね。まったくもって光陰矢の如し、歳は取りたくねぇモンだぁな~(笑)。

 それはともかく、現在駅のある辺りのガード下、多分西口近くにT君の家はあったと思う。表通りの国道からちょっと路地を入ったところだった。遊びに行くと雑然と色んなものが置かれた一階の脇から階段を上がってたんで、何か自営で商売をされてる家だったんだろう。
 そぉいや手前の通りを北に上がって関西線のガードを潜った辺りに小さな墓地があったのを覚えてる。それで現在の地図と突合してみたところ、この記憶でおそらくは間違いはないコトが判明した。何でそんな狭い墓地のコトを覚えてるのかっちゅうと、家に来た坊さんが、ウソかマコトかこの墓の前で突如深い霧に覆われて前に進めなくなり、一心にお経を上げたら霧が晴れた・・・・・・みたいな怪奇譚をしてたのである。眼を閉じてても通り過ぎれるくらいにそこって狭いのだが。

 話がまた逸れた。今では一階が店舗っちゅうと飲食店のイメージが強くなったけど、軽工業が盛んだった当時の大阪ではあちこちで見掛けたから、あれが標準スタイルだったんだろう。田島の祖父母の家もそんなんだった。基本は引き戸の並ぶ三~四間ほどの間口で、うち一間ほどが玄関兼事務所兼応接みたいなスペースで、二間幅でズーッと奥まで商売のスペースが続いてるようなスタイルである。ただ、T君の家は敷地が真四角でなかったのか、ややナナメった不思議な形をしてたように思う。家の前は狭い空地で周囲を同じような建物に囲まれた中、ちょっとした広さがあり、何だか坪庭みたいになってたのを想い出す。

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 T君は幼稚園の同級生だった。小学校に上がる前のガキの交友関係なんて、母親の交友関係・・・・・・今で言う「ママ友」の関係に他ならないってコトはこれまで何度も書いた通りだ。平たく言えばガキ同士で主体的に築かれたんではなかったってコトだ。T君本人がどんな顔だったかはサッパリ想い出せないものの、彼のお母さんが度の強い眼鏡を掛けた恰幅の良い方だった、ってことだけはうっすらと覚えてる。
 おれん家からそんな彼の家まで、幼稚園児が一人で向かうにはかなり離れてたし、途中で広い国道を渡らなくてはならなかったんで、過保護な親がおれを一人で遊びに行かせるなんてことは絶対になかったと思う。だから、彼の家に遊びに行くときは必ず母親もいたはずなんだが、何故かその記憶はない。多分、子供同士の遊びで時間を忘れるほど夢中になってたからだろう。

 彼には年上の兄弟が2~3人いて、そんなんで家には玩具やゲームの類が沢山あったのだ。中でも特筆すべきは、エポックの野球盤と、どこ製かは知らないけど電池で動くバッティングマシーン(・・・・・・っちゅうても、プラスチックの球をプラスチックのバットで打つもの)がどちらもあったことだ。あれこれ多様化した現代とは異なり、プロスポーツっちゅうたらそれくらいしかなかった当時の社会全体の野球熱には凄まじいモノがあって、これらは爆発的に売れまくってたのだったが、家にその両方があるっちゅうのは結構スゴいことだった。もちろん、本物のグローブやバットなんかもあった。
 二人で野球盤に興じてると、そのうち小学校からお兄さんたちが帰って来て、件の坪庭みたいになった家の前にバッティングマシーンを持ち出して実際にバットを振らせてもらう。もちろん玩具だからポコーンとヘロヘロ球が飛んでくるだけだし、お兄さんたちは一生懸命教えてくれるんだが、まともにバットを握ったことさえないおれにはとてもむつかしく、ナカナカ当てることが出来なかった。一方、普段からアニキたちに揉まれてるT君は、何だかんだでシッカリ当ててる。
 大概遊び疲れると、子供向けの本を読んだりして過ごす。当時は子供向け雑誌や飛び出す絵本なんかが全盛期の頃で、兄弟の分を含め何だかんだ大量に転がってたように思う。但し、おれがお気に入りだったのは、当時既にモータリゼーションの進展によって各地で数を減らしつつあったチンチン電車を特集した写真集みたいな大判のだった。ありゃぁ何の本だったんだろう?

 ・・・・・・ともあれ、すべてが羨ましかった。何かもう、全て。

 決して高級ではないけれど、子供たちの共通言語ツールとしても重要な当たり前の玩具が当たり前に家にあること、兄弟がいてワイワイやってること、野球や怪獣といった子供の興味の対象が家の中でフツーに話題になってること・・・・・・その時点でそのように明確に整理され言語化されてたワケではないけど、それらが全部、自分の生活には欠落してることが何となく看取されたからだ。まぁ、兄弟については母親の身体が弱くて、おれを産んだ後、もう出産できなくなっちゃったみたいだから、その責を帰すのは酷というモンだろうが。

 多分、彼の家に遊びに行った経験が最も早い時期の、おれの自分の家のおかしさに気付く端緒の一つだったように思う。

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 幼稚園でのT君は、いつも熱出して休んでばっかしのおれとは違ってとても健康優良児なだけでなく、手先なんかもとても器用だし、上の兄弟が沢山いるせいか、協調性とか社会性も鍛えられてる子供だった。3番目については当時のおれ自身には分かる術もなかったが、母親がいつもおれのことを「ホンマあんたは要領悪いな~!T君みたいに要領良ぉやらんとアカンやないの!」と叱るので、多分そぉゆうコトだったんだろう。ほやかてそんなん、経験と学習がなければ育てようも伸ばしようもないではないか・・・・・・と今なら言い返せるが(笑)。

 ちょっと悲しい記憶が一つある。あれは一体何て名前のモノだったんだろう?木で出来た枡のような箱の中に様々な形のこれまた木で出来たブロックが収まった一種の教育玩具があった。パズルではないからキッチリ収めるだけならそんなにむつかしくはない。ともあれ一人一箱つづつそれを持たされて、一種のカラクリみたいなことを考えさせられるのである。
 今となっては他愛ないコトばっかだったと思うのだが、長いピースを梃子みたいに飛び出させてそれを押したら上のピースがひっくり返って下に落ちて・・・・・・とか、閉じた世界のピタゴラスイッチみたいなのをお遊戯の時間に作るのだ。彼はとにかくそれが上手だった。おれもまぁまぁやるんだけど、出来映えを見るといつもT君の方が一枚上手を行ってることが自分でも分かるのだ。

 何だか世の中って不公平だなぁ~、っちゅうのが、さっきも書いた通り決してコトバになってたワケではないけど、その時のおれの率直な思いだった。心情の大トロ・中トロ・吐露ですな。彼は自分がどんなけ努力したって持つことのできない色んなモノを持ってるやんか・・・・・・ゲームだとか、兄弟だとか、健康だとか。何か一つくらいはおれの方にあったってエエのになぁ、みたいな。
 世の中には持つ者と持たざる者がどうしたっているのだ、って厳しい現実を年端も行かぬのにそこで思い知らされたワケだ。ただ、それで妬ましいとか疎ましい、憎たらしいといった方にはあんまし行かなかったのは、いささかの救いだったかも知れない。とは申せその背景にあるのが、社会性の無さゆえの自閉性と闘争心の欠如であるってことが今では分かるので、あまり褒められたハナシでもないだろうが。

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 結局、T君との付き合いはおれが富田林に引っ越すことで終わった。ただ、母親同士、あるいは共通の知人とかか、その後もたまに情報は入って来てたみたいで、高校に上がる時、彼がどこかレベルの低い工業高校に進んだと聞かされてとても驚いた記憶がある。まぁよくある「不良養成所」みたいな高校だ。あんなに何でも万能選手でデキる子が、そんな学力の低いトコに行ったってのがニワカに信じられなかったのだ。
 しかしそれと同時に、ぶっちゃけ10年来の溜飲が少しばかり下がったような気がしたのも事実だ・・・・・・って、これはひょっとしたら以前も書いたかもしれない。我ながら実にイヤな性格だと思う。言い訳はしない。

 ただ、もう一つ付け加えておこう。ハハ、おれにはたったこれだけかい!?ほんな受かったガッコがちょっと良かったから、っちゅうてそれがナンボのモンやねん!?ってなある種の寂寞感もまた同時にあった、ってコトだ。そのためにおれはどれだけのモノを失わされ、我慢させられ、犠牲にされて来たんや!?と。

 ・・・・・・Googleのストリートビューをグリグリ動かして、彼の家とおぼしき場所は見付かったけど、確証はない。それにその場所は今はおかき工場の広い駐車場に変わってる辺りで、もぉ何一つ痕跡は残ってない。

 もぉ、半世紀も前、くすんだ家並みの上をクリームと朱色の妙に明るいカラーのディーゼルカーの列がたまに通り過ぎて行く、大阪の下町の片隅での話だ。

2020.05.25

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