「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
Kさんの記憶


かつて通ってた幼稚園はずいぶん綺麗になって今でも盛業中。

 T君と同じく幼稚園で仲良かったのがKさんってコだった・・・・・・って、自分から仲良くなったワケではない。何度も何度も書いた通り、幼稚園の頃の子供の交友関係なんて親の付き合いの延長線に他ならないのだから。

 ユキコちゃん、って名前だったのは間違いないんだが、それが雪子ちゃんだったのか由紀子ちゃんだったのか、はたまた友希子ちゃんだったのか今となっては知りようもない。おかっぱ頭でいつもちょっと癇の強そうなギロッと上目遣いな表情だったのだけは覚えてる・・・・・・あ、そうそう!奈良美智の描く怒り顔の女の子の絵を見ると、おれは未だにこのKさんを想い出してしまうのだ。おれと同じく一人っ子だったけど、その頃はまだ5歳くらいだったから、ひょっとしたらその後、下に弟や妹が出来たかも知れないな。

 結局、T君と同じく2年足らずのお友達関係だった。その後についておれは全く知らない。

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 彼女の家はおれの暮らす五軒続きの文化住宅の裏手の方にあった。玄関を出て小学校の塀に沿って通りを左に進み、三差路を左に曲がる。途中にはこれも以前書いた「肉屋」と言われる大きな家があって、大きさまで家に合わさんかてエエやろ!?と言いたくなるような大型犬が何匹もワンワン吠えてる。恐々そこを通り過ぎて次かそのまた次の四つ角をまた左に曲がるとすぐに全戸にシャッターの付いたモータープールがあって、その隣に建つアパートの二階の一室がKさんの家だった。譬えはひじょうに悪いけど、山野一の稀代の怪作・「四丁目の夕日」で、借金のカタに自宅を取られた別所三兄妹が暮らすことになるアパート、ちょうどあんな感じだった・・・・・・まぁ、七輪の上に受話器置いてるような吉外ジジィはいなかったけどね(笑)。

 子供心にも狭い家だなぁ〜、って気がしてた。だって六畳一間にあとは台所の二尺ほどの板の間が2間幅弱でくっ付いてるだけなんだから。トイレはどうなってたっけ?覚えてないが、共同だったような気がする。そこにお父さんとお母さん、ユキコちゃんの3人が暮らしてるのである。ウチも決して豊かではなかった・・・・・・どころかぶっちゃけかなりビンボーだったんだけど、家だけは母親が株で儲けて買ったってのもあって、そこまで狭くはなかった。ともあれKさんちも似たり寄ったりの経済状態だったんだと思う。おそらくは今はとにかく倹約して蓄財して、夢のマイホームを!なんて考えてたんだろう。
 一家3人で六畳一間って、今の感覚からすればとんでもなく貧困な一家のように思えるかもしれない。しかし、当時はそれくらいはワリとフツーだった。そのアパートの他の部屋にしたって、家族で暮らしてるようなトコが多かった気がする。風呂はもちろん銭湯だ。ウチも銭湯だったから、たまに風呂屋でパッタリ出くわすこともあったな。

 母親とKさんのお母さんとは、子供のおれの眼から見てもケッコー気が合ってた。今から思えば、たとえ暮らしを切り詰めてでも、子供は私立の幼稚園に通わせよう、な〜んていささかエキセントリックなノリからしてもたしかに似てるような気がする。どちらも小柄で痩せぎすなトコも似てたかもしれない。歳は同じくらいか、Kさんちの方が少し若かったような気がするが、どちらかと言えば物静かで大人しい印象の人だった。
 年端も行かないおれにそんな話を聞かせたってどうなるワケでもないのに、母親はKさんのお母さんがひどく苦労して育ったことやら、子供の頃の股火鉢で着物に火が点いて大やけどしてケロイドが足に残ってること、今はあんな小さなアパートだけど色んな家計の工夫して感心な人だから、その内エエ家に引っ越さはるだろう・・・・・・ってなコトを繰り返し何度も何度も語って聞かせるのだった。後年に至って父がいなくなり、服用規則の遵守が重要な精神薬の管理がムチャクチャになったのもあっていよいよどうにもならず、ついには一時期とはいえ精神病院に入らざるをえない破目となったおれの母親だったけど、こうして振り返ってみると、その「狂い」は元々あったのが年月をかけて少しづつ増悪・顕在化してっただけって気がする。

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 それはともかく、そんなんでマイホームはこれからだったんだろうけど、Kさんちには既にマイカーはあった。いや実はお父さんが個人タクシーの運転手をされてたのである・・・・・・って、笑っちゃいけない。当時はタクシーだろうが、バンの営業車だろうが三輪トラックだろうが何だろうが、とにかく「自分ちにクルマがある」ってだけで、それはもぉスゴいステータスの時代だったんだから・・・・・・さすがに霊柩車をマイカー代わりに使うツワモノはいなかったと思うけどね。
 個人タクシーはハイリスクハイリターン。会社に帰属しない分、給与の保障がないっちゅうリスクと引き換えに日々の水揚げからの取り分が格段に大きいらしい。時は高度成長時代の爛熟期、殊に大阪は万博を目前に控えて町全体が空前の好景気に沸き返ってた頃だ。恐らくは働いたら働いた分だけ実入りがあり、昼夜を分かたず働きづめに働かれてたんだと思う。いやまぁおれの父親にしたってそんな感じだった。休みはあっても月に二日、あとは盆暮れのみ、どこも似たようなもんだった。

 家に遊びに行ってると、たまにお父さんが遅い昼食か早い夕食か分からないけど、食事に戻って来ることがあった。夜は掻き入れの時間帯だろうから。それに備えての腹ごしらえだったに違いない。下にはピカピカに磨かれた商売道具のタクシーが停まってる。今では白に青いストライプが個人タクシーの配色だけど、当時はビアンキのチェレステカラーとか鋳物の大きな機械に使われるような薄青緑で、上に乗っかった黄色いランプがワンポイントのアクセントになってた。後年に至って、ロードバイクに興味が出て来て不世出のクライマーだったマルコ・パンターニの自転車を写真で見る度に、おれはこの昔の個人タクシーを想い出したもんだ(笑)。
 とにかく大きくてゴツくて、これまた子供心に「やっぱしお金払って運転してもらうクルマだけに立派なんだなぁ〜」みたいに思ってた。残念ながら車種が何だったかまでは覚えてないが、乗り物好きなおれは目を輝かせて眺めてた。

 ・・・・・・というのも、Kさんの家に行って遊んでもおれはあんまし面白くなかったのだ。そりゃそうだ。まだ幼稚園児とは申せ、そこはどしたって男の子と女の子、遊びがまったく違うのである。ファンシーでラブリーな(・・・・・どちらも60年代にはまだなかったコトバだが)着せ替え人形とかママゴトの道具になんてどうにも興味が持てない。かといって元々が奈良美智の絵の女の子みたいな怒り顔のユキコちゃんが余計不機嫌になるのも怖い。
 最大公約数的に残ったのは、お絵描きやら塗り絵の類である。おれは知らず知らずのうちに「妥協」、あるいはもちょっと高尚に言やぁ「アウフヘーベン」ってコトを学習してたのだった(笑)。それに好都合なことには、Kさんの家にはそれらが他のモノより沢山あった。恐らくは家が狭いんで、たとえ仕舞っても場所を取ってしまう玩具より、嵩張らない紙類が結果的に多くなってたんだろう。これなら後は色鉛筆やらクレヨンあればどうにかなるもんな。

 そんなんで母親同士がたわいもない話で盛り上がる横で、おれたちは寝転がって黙々とひたすらお絵描きやら塗り絵をしてた・・・・・・いや、するしかなかった。おれはまぁ絵が得意な方なんで、それはそれで苦ではなかったけど、普段幼稚園でもあまり工作が上手な方でない彼女はきっと詰まらなかったに違いない。
 あるいはどちらかにお医者さんごっこの知識でもあれば、もう少し楽しい幼児ライフを過ごせたかもしれないけど(笑)、如何せん六畳一間のアパートで、オマケに真横に親がいては、それも到底無理なコトだったな。

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 お決まりのGoogleMapでその辺りを見てみる。Kさんの住んでたアパートはとうに無くなって別の建物になってるが、隣のモータープールは建物が壊され、平駐車場になって今も残ってる。冒頭に書いた通り、その後Kさん一家がどうなったかは分からない。けど、幸せに暮らしておられるといいな、な〜んてガラにもなくボンヤリと思ってしまったのだった。

 あの頃の大阪------即ち高度成長期真っただ中の日本の都市部と言えるだろうが-----を想い出すと、誰もがそれなりに貧しさを引きずりつつも慎ましく頑張って働けば、いろんな豊かさがそれでも何とかいつかは手に入った、少なくとも手に入るハズだと心の底から信じることが出来た時代だったような気がしてならない・・・・・・もちろん「良くも悪くも」って但し書きは付くけれど。

2020.08.12

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