「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
京都中央卸売市場の記憶・・・・・・築地市場移転に


80年代末の市場の様子(国土地理院の空中写真をキャプチャ)

https://mapps.gsi.go.jp/より

 一体その人物とどんなキッカケで知り合ったのか、それが想い出そうにもどうしても想い出せない。

 気が付いたらいつの間にか友達になってた。京都で自堕落極まりない学生生活を送ってた当時は、ホンマ四六時中酒ばっか呑んでたので、酩酊した最中に誰かと出会って酔いが醒めてからも、昔からの知己のように何となくツルんで、さらに翌日も呑んで・・・・・・みたいなコトもしょっちゅうだったから、どこかの部屋でたまたま一緒になったとか、まぁそんなトコではないかと思う。

 彼は歳はたしかおれより一つ上で、一応どっかの大学生ではあったのだけど、ほぼ学校はドロップアウトして、パンクバンドでたしかボーカルかベースやってて、もちろんそんなんでは食えるワケないから当時は京都に溢れ返ってたパンクス相手に皮ジャンに得意のイラスト描いたりして糊口を凌いでるような人だった。もちろん皮ジャンだってそんな面白いように売れまくるものではなく、殆ど小遣い稼ぎみたいなもののようだったみたいだが・・・・・・。ビートクレイジーの関係者だとかナントカ聞いた気もするが、そもそも当時京都でパンクスやっててビークレに関わってないヤツを探す方が難しい話で、まぁ要するに有象無象のパンクスの一人だった、ってコトだろう。
 そのルックスは痩せぎすで、真剣に固めて立てると20cmくらいの見事な金髪のモヒカンで、皮ジャンに破れたデニム・・・・・・絵に描いたようなパンクスである。それまでおれはハードコア/Oiの連中とはあんまし気が合わなかったのだけど、ナゼかこの彼とは初対面からウマが合った。

 ・・・・・・で、そんな彼に紹介されたのが京都中央卸売市場の夜勤のバイトだった。何せいでたちがそんなんだからフツーのトコではあんまし雇ってもらえなかったようだ。パンクはパンクなりに苦労するんですな(笑)。
 ぶっちゃけ、バイトの条件としては全然良くはなかった。たしか夜の10時から朝の5時までで交通費も何もなしのポッキリ5,000円だったから、深夜の割り増し分とかいろいろ考えると、いくら当時の時給相場でも条件としては劣悪だったんだけど、何となく卸売市場っちゅうマニアックで未知の空間を体験してみるのも悪くないかな?ってな好奇心が勝って行くことに決めたのだった。

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 山陰本線は西に向かって京都駅を出発すると、すぐに大きく北に曲がって梅小路機関区の扇形庫をかすめるようにして北上して行く。そんな大カーブが終わったあたりに最初の駅である丹波口がある。京都中央卸売市場はその駅の左右に広大な面積を占有して広がっていた。市場の北側の目の前は京都随一の広い幹線道路である五条通が東西に走っている。
 立地からして昔は市場の中にまで線路が引き込まれてたんだろうが、当時既に線路も貨車も見掛けなかった。GoogleMapで調べてみると、市場は築地みたいに移転することもなく相変わらず今でもそこにある。
 駅の東側が青果で西側が水産物のエリアとなっており、おれは魚屋をやってみたかったんだけど、青果の方のナントカって会社に入社することになった。彼の話によると、水産の方は専門性が極めて高くって、とてもポッと出の素人が入り込める世界ではないらしく、そもそも単純作業のアルバイトをそんなに必要としてないらしい・・・・・・残念!

 ジットリと蒸し暑い夜だったから、夏だったと思う。ニンジャで行ったからもうそろそろ学生時代も終わりが近付いてた時期だと思うが、これもハッキリとは想い出せない。
 初めて訪ねた青果会社の事務所は、一面が高い天井に覆われたダダッ広い市場の空間の中にポツポツと点在する、むしろ「詰所」と呼んだ方が似合うような、いささかショボくれて疲れたオーラがタバコのヤニと混然一体となってそこかしこに蓄積したような殺風景な小屋だった。
 中に入るとグレーの昔ながらの事務机が何台か、古い病院の待合室みたいな黒いビニールの長椅子が5〜6本、隅っこの台にはTV、その隣には給茶機、壁には黒板やらホワイトボードやらカレンダーやらが雑然と懸かっている。
 ロクすっぽ身許を訊かれることもなく手続きは終了。ついでに次はいつ来れるか尋ねられたので、いくつかシフトを入れたような気がする。もぉすんげぇアバウト。誰でもOK!ウェルカム!なのだ。そうして行ったその晩からいきなり仕事は始まった。仕事ったってひどくカンタンで、トラックで運ばれてきた野菜をドンドン降ろしては床にひたすら並べて行くのである。トラックの到着時間はホワイトボードで確認する。

 何人くらいアルバイトがいたかは想い出せない。多分7〜8人はいつでもいたと思う。トラックはそんなに頻繁に到着するわけではなく、1時間に1車入るかどうかで、大抵は詰所でゴロゴロしながらタバコ吸ってTVを観てた。降ろすのはトマト、胡瓜、茄子、玉ネギ、ジャガイモが多かった。
 野菜にはグレードがあって、優・秀・良・悪って大抵は分かれており、これにさらにLL・L・M・S・SS等のサイズが掛け合わさる。もちろん混載されて来るから、段ボールの横に青いインクのスタンプで捺されたそれらの識別記号を見間違えないようにして、指示された場所に積み上げて行くのである。積み方は段ボールの形状によって「5本回し」とか「7本回し」なんてある。おれは酒屋のバイトでちょっとばかしカジッてたので、いきなりできるのを少し驚かれた。

 茄子なんてパスパスのスポンジみたいなモンだから楽勝だったけど、10トントラックで泉州方面からやって来るネット入りの玉ネギなんかはしんどかった。一袋がたしか25kgほどで重いし、ネット入りだから形がグニャグニャして持ちにくいし、トラックから投げ下ろされるのを両手で受けてると、だんだん腕がネットで擦り剥けて来るし、大量にあるから時間掛かるし・・・・・・で、玉ネギだけはこりゃタマランなぁ〜!って思ったことはハッキリ覚えてる。
 重いってコトでは長崎からやって来るジャガイモも大概重いんだけど、これは10kgの入れ目で段ボールに入ってるから玉ネギよりは全然ラクだった。ああ、慣れて別の場所にある果実の方に応援で出掛けてって、西瓜を降ろしたのもメッチャしんどかったっけ。でも、これは乱暴に扱うと当然割れてしまうモノなので、静かにゆっくりやれる分まだマシだったかも知れない。

 明け方近く、セリが近付いてくると、冷蔵倉庫に納品されてるカイワレを取りに行ったり、小口の近郷野菜ってのを降ろすことになる。冷蔵倉庫は数百m離れたところにあったので、卸売市場の象徴的乗り物と言える黄色いモートラに乗って行く。築地から豊洲への移転で2,000台以上が隊列組んでたアレだ。ニュースでは「ターレ」って呼んでたが、おれのやってたトコでは専ら「モートラ」って呼ばれてた。まぁ建設業者の必需品のスケッパーを「ケレン」って呼んでたのと同じ伝で、地方によって違うんだろう。
 このモートラ、小回りが利くので運転がとても楽しい。ドラム缶みたいなモーターの上にほぼ同じ直径の輪っかのハンドルが付いてて、たしか前に押すとアクセル、手前に押すとブレーキだったような気がする。ただ、サスペンションの無いリジッドで、とにかく回した分だけ曲がる原始的な仕組みだから、コーナーでの踏ん張りは皆無の危険な乗り物でもあった。すぐに内輪側が浮くのだ。
 しばらく通うちに運転にも馴れて来て、チョーシ乗って曲がる時に内側を浮かせて遊んでたら、社員に見付かってこの時ばかりはキツく叱られたことがある。実際事故も多いらしく、転倒したモートラの下敷きになって死んだ人も過去にはいるらしい。
 冷蔵倉庫には輸入品のキウイやライチなんかが積み上げられてることが多かった。入って来た段階では青くてエグくて食えたモンぢゃないので、こうして追熟させるんだと教わった。ついでに、ちょっとくらいやったら持って帰ってもエエよ、とも。

 近郷野菜では葉物野菜に加えて、葉付きの枝豆が印象に残ってる。まぁ丹波口っちゅうくらいだから丹波の黒豆だったのかも知れない。いつも軽トラに満載で、仕事の終わる直前にやって来るのだけど、困ったことにコイツにはやたらと藪蚊が大量に潜んでるのである。いつも降ろし終わる頃には顔やら腕があっちこっち刺されて膨れるのがイヤだった。

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 働くアルバイトでおれのような学生はむしろ極めて少数派で、何だか胡乱で氏素性の怪しそうなおっさんが大半だった。いつ行ってもいた初老のオヤヂがある日突然来なくなったなんてコトも短い期間に何度かあったりした。おっさん同士で「アイツも借金取りに追われてたんかなぁ〜!」なんて小声で言ってるのが聞こえたから、そんな風にスネに傷持つ人が多かったんだろう。もちろん前科者や極道をケツ割って逃げてきてるようなケースもあったのではないかと今では思う。
 そんなんだからお互いのプライベートには立ち入らないって不文律があったみたいで、おれも身の上について一切訊かれたことがなかったし、おれもおっさん達の私生活に深入りすることは無かった。大体親子以上に歳の離れた見ず知らずのバラバラな人の集まりで、そうそうカンタンに仲良くなれるワケがない。

 いささか躊躇われてしまうけど、ハッキシ言ってそこは「掃きダメ」とか「吹き溜まり」と言われるような職場だったワケだ。夜中にも拘らず事務机に座って忙しそうに電話取ったり電卓叩いたり伝票切ったりしてる数名の社員と、長椅子でゴロゴロと次の便の到着を待つ我々荷下ろしバイトの間には、眼には見えないだけで明確で深い懸隔があり、おれたちは要するに人格や背景や歴史を剥ぎ取られた労働力だけの匿名の存在に過ぎなかった。生きて動いて野菜を降ろしてるっちゅうだけで、ジョン・ドゥみたいなモンである。

 むしろトラックの運転手が、若いおれに興味を持っていろいろ尋ねて来ることが多かった。彼等は荷物を降ろし終えるとしばらく事務所で休憩して行くのだ。大抵は自分の仕事の過酷さをボヤき、おれが大学生であると知ると、「子供にはトラックの運ちゃんなんてさせたくないから、おれが頑張って稼いで大学に行かせるんだ!」とか、「夜勤明けで大学に行くのか?」って訊いて来て、「チャンと寝んとアカンで。おれも今日は8時間寝た・・・・・・2時間×4回やけどな(笑)」、な〜んてコワい話をサラッと話す人がいたりしてそれぞれの人間模様が面白かった。

 そんなんだから休憩も誰かと一緒にメシ食いに行くなんてついぞなかった。件のパンクの彼が一緒なら行ってたろうが、そもそもヤツ、殆どシフトに入ってないんでやんの(笑)。もっと働けよ。卸売市場だから構内のどっかには市場食堂ってのがあるハズだけど、特に教えられることもなく、たとえ教わったところでものすごく遠く離れたところだと私用でモートラは使えないから行けないし、おれは五条通をちょっと東に行ったところにあった「横綱ラーメン」にいつも通ってた・・・・・・っちゅうか、当時は夜中でもやってる店が近所にはそこくらいしかなかった。馬鹿デカい提灯のぶら下がるあの「横綱」だ。

 夜が明けて仕事は終わり、殆どクルマの走ってない五条通から東大路〜白川通と走って下宿に戻る。汗でキモチ悪いが、こんな朝早くからやってる銭湯は無い。そのままビール飲んで絨毯の上で横になってそのうち寝てしまう。

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 結局どれくらいの期間働いたんだろう?寒くなる頃にはもう行かなくなったんで、多分3ヶ月かそこら、純粋に働いた日数にすると1ヶ月は通ってないと思う。
 ナンボ労働密度が低いとは申せ、やはりあまりにも分の悪い仕事だったし、何よりもあの荒涼とした雰囲気がおれにはどうしても馴染めなかった。

 築地から豊洲に卸売市場が移転するって、まるで国の一大事であるかのようにすったもんだの大騒ぎになってたけど、器が変わることなんておれにはどぉでも良いことのように思える。大体、築地に限界が来てるのは周知の事実だったんだし、他にさしたる候補地もなかったんだし。そもそも築地だって元は日本橋から移転してきたんだし。小池のババァもグズグズとポピュリズム丸出しの引き延ばしなんてせずにとっとと動かせば良かったんだ。
 それよりも「東京の台所」とか呼ばれ、数多くの人の日々の食生活を支え、一大観光スポットでさえある場所が、おれが昔京都で体験したように底辺の人たちによって今でも支えられてるのなら、それはなんだかとても哀しく、切ないことのように思う。むしろそこをおれは知りたい。

 そうそう、この卸売市場でのバイトを紹介してくれたパンクな彼がその後どうなったのかについては、これがサッパリ不明だ。バイト辞めてからもたまに部屋に遊びに行ったりしてたんだけど、その年の冬くらいだったか年明けだったか、「やりたいコトができたんだ!」とか言い出して、飄然と京都の町を去ってしまったのである。

2018.10.11

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