大雪の日 |

多分撮ったのは母親。褪色が激しいが敢えて補正は行わず。
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日本海側の海沿いを中心に年明け以降記録的な大雪になってて、渋滞したところにさらに雪が降り積もって身動きが全く取れなくなって、クルマが千台単位で閉じ込められたり、ビニールハウスやカーポートが倒壊したり、断水したり、生鮮物資が届かなくなって市民生活全体に影響が出たり・・・・・・と、いろいろ大変なことになってる。
北海道にしばらく暮らしたことで、おれも雪の大変さについてはつくづく思い知らされた。夜の間に大雪が降ると駐車場からクルマ出すだけで一苦労だ。雪降ろして道路との段差にスロープ作って・・・・・・ってそれだけで30分くらい掛かるし、クルマの停めてあった部分は元々クルマの下になって雪が余り積もってないことに加え、エンジンやマフラーからの熱で溶けやすい一方で、周囲は積もった雪にさらに屋根から落とした雪が乗っかるモンだから地面に凸凹が出来て、だんだん「ワッフルの型」みたいになって来る。こうなるともぉ厄介で、下手にハンドル切ったらすぐに対角線スタックになったりする。そんなんだから雪を均してやんなくちゃいけないんだけど、これがまためんどくさい。道の両側には高い雪の壁が出来て狭くなるし、やっぱし滑るし、吹雪けば前は見えないしで堪らない。
もちろん部屋の窓は凍って朝とか開かない。迂闊に何日も外出すると水道管が凍る。破裂させれば弁償だ。
・・・・・・それでも雪は楽しい。いや、かつては楽しかったと言うべきか。
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生まれ育った大阪の町は雪が滅多に降らない。「昔は良く降ったんだけどねぇ〜」なんて言う人がいるけれど、温暖化だなんだと言いながら実のところ降雪量ってそんなに変化してないらしい。ありゃぁ要するに単に幼少期にたまたま大雪の年があって、その記憶が強烈に刷り込まれることによってそう思い込んぢゃってるだけなんだそうな・・・・・・ってそれはともかく、まぁ積もってもせいぜい数センチ程度、たいてい昼までには溶けてしまう。日を跨いで雪が残るほど積もったことなんて数えるほどしかない。
雪の積もった朝は、雪が吸音材となって音を吸収するためか、独特の静けさに満ちている。それが冷え込みとも相俟って何とも張りつめたような感じが町全体に漂う。そんな非日常的でパラレルワールドのようになった中で、悪童たちは雪合戦やら雪ダルマやらとはしゃぎ回ったものだ。
そんなんだから、一面の銀世界、っちゅうのにはたいへんな憧れがあった。これはおれだけではなく、みんなそうだったと思う。
しかし今みたいに道路事情も良くなく、帰省先が雪国でない子供にとっては雪の世界はまるで遠い国のことのようだ。そんなガキ共にとって最も身近に体験できる雪の世界とは悲しいかな、せいぜい冬の金剛山くらいしかなかった。
金剛山!北朝鮮のハナシぢゃないよ(笑)。大阪と奈良の県境にある大阪府最高峰の山だ。標高が1,100mと結構高いため、冬場は結構雪が積もる。年によっては樹氷のできる時もある。
冬に初めて登ったのはいつだろう?小学校の耐寒遠足で行ったような気もするし、父親に連れられて行ったような気もするし、記憶が今いち定かではない。どのコースを辿ったかも忘れた。当時小学生の間で爆発的に普及してたペラペラのウィンドブレーカーをセーターの上から着込み、正ちゃん帽を被り、4本爪の簡易なアイゼンを装着して登ったことは覚えてる。今みたいにホッカイロや高機能な自己発熱下着があるワケでもなし、とにかくひたすら寒かった。
ともあれそうして辿り着いた頂上は、行った人ならお分かりとは思うが、「一面の銀世界」というにはちょっとばかしムリがあったのが正直なところだ。そらたしかに雪は積もってるけれど、一体は森になってて眺望は大して利かず、それに人がウジャウジャいるもんだから地面は踏み固められ汚れまくってる。
魔法瓶のお茶だけが唯一の熱源みたいなカンジで冷えた弁当を食べ、山を下る・・・・・・今から思えば実に貧弱な風景ではあったけど、それでもおれたちは雪を見ることが出来て大満足だった。
ちなみに最近知ってちょっとナサケなくなったのだが、金剛山の頂上って奈良に属してるらしい。なんとテッペンで県境を接してないのである。トホホホホ。
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何だかんだで本格的に雪の世界を体験したのは随分遅く、高校1年の冬だった。学校のスキー旅行で新潟の関・燕温泉に行ったのである。まぁ光陰矢の如し、もぉこれとて40年くらい昔の話になるな。
今の恵まれた子供達ならともかく、大阪の一般的な子供だと大体みんなそんなんだったように思う。雪国の出でもないのに子供の頃にレジャーとして家族でスキーに行ったことのある家なんて、平たく言って金持ちなのである。
恐ろしいコトに大阪からは延々と観光バスで行った。往路のまる1日が移動、復路は3日目の夜に出て車中泊、そんなんでフルに2日は滑れまっせ!ってな良く分からない内容だ。今から思えばもっと近くに幾らでもスキー場はあっただろうに、何でまたそんな遠くまで行ったのかは謎のままだ。予算とキャパの都合であまり選べなかったのかも知れない。すんげぇ早朝に出たにも拘わらず、着いたのは陽もとっくに暮れた頃で、とにかくみんなヘロヘロになってた記憶がある。
それは決して大阪の某高校に限った特殊な話ではなく、一般平民がスキーなんぞを安価に楽しむためには当然通らねばならない苦難の道だった。そら今だって金のない学生は殺人的なスケジュールの日帰りバスツアーとか行ってるけど、当時は泊まり掛けでもそんなんだから実にハードだ。
それでも翌朝、眩しく広がるゲレンデに初めて足を踏み出した時は本当に嬉しくなった。文字通り「一面の銀世界」っちゅうやっちゃね。おれだけでなく大半の連中がスキー板を履いたのもまったく初めてで、横になって階段みたいに上がるトコから始めさせられ、せいぜいボーゲンでドフラットな初心者バーンをトロトロと蛇行して下ってくくらいまでしかできなかったけれど、それでも十分に楽しいと思えた。
先生の中に余程強力なスキー推しでもいたのか、そういや修学旅行もスキーだった。行先はこれまたシブくて、白馬は白馬でも谷の反対側にポツンと離れてある「みねかたスキー場」ってリフトが2〜3本しかなくて地元のロコしか行かないようなトコ。関・燕の時と同じように民宿に分かれて4泊5日、ひたすら滑るだけってなおよそ修学旅行とは呼べないような内容である。しかし乗り系の遊びに共通することで、毎日ちょっとづつやるよりはこうしてガーッと集中して練習した方が圧倒的に上達が早い。おかげでおれは滑走日数の割には随分スキーが上手くなれた。
「私をスキーに連れてって」が公開され、日本のスキー人口が爆発的に膨らむ数年前のハナシである。思えば当時は蛍光色等の派手な色遣いで、特に下半身がピタッとしたウェアが流行っており、おれたちのような初心者で金のない連中が着る綿が沢山入ったダボッとしたウェアなんて、ダサさの証のように思われてた。今は見事に価値観は逆転し、あんな戦隊ショーだかウルトラマンみたいなウェアの方が余程恥ずかしい。
ちなみに関スキー場は今も健在だが、燕スキー場は10数年前に廃止、みねかたスキー場も経営悪化で身売りされ地元が経営を引き継いで細々とやって来たものの、いよいよ力尽きて5年ほど前に廃止に追い込まれている。
今はピーク時の4割以下らしいね、日本のスキー・スノボ人口って。
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一番雪に接する機会が増えそうな大学時代、おれは全く雪から離れてた。改めて書くまでもないけれど自転車や単車、ナンギな音楽にハマってて全くそっちに目が行くことが無かったのだ。
会社に入ってからもしばらくは誘われて付き合いで行くくらいで、そんなに狂ったようにハマることは無かった。仲良かった同僚には冬場は一体いつ寝てるんだ!?ってのもいたけれど、おれはっちゅうと、当時付き合い始めたその後のヨメがまったくウィンタースポーツに興味を示さないのもあって自分から出掛けるってコトは全然なかった。大体、ヨメは雪国の生まれなので、スキーなんてモンはやって当たり前の遊びに過ぎず、そんな特別にワザワザ出掛けて行ってまでやろうってモンぢゃないのだ。
結局、毎年寸暇を惜しんでシーズン中に何日も滑りに行くようになるのは、冬場のヨメの実家での無聊に耐えかねてスノボを一式買って面白さに目覚めてからのコトだが、そっから後のことはこれまで散々書いて来たんで、もうここでは触れない。最後に滑ったのは北海道にいた時で、たしか場所はキロロだったと思う。その直後に派手なギックリ腰をやらかして、今やすっかりスノボからも遠ざかってしまった。やりたい気持ちはあるんだけどねぇ〜・・・・・・。
気付けば、雪景色が広がることに驚きと喜びを感じ、雪そのものを愉しむのではなく、滑ることを愉しんでるだけになり、いつしか拠無い事情とは申せそこからさえも離れかけてしまっている自分がいる。
それどころか、ちょっとの雪で遅れまくって寿司詰めになる電車の中でヘトヘトになってる自分がいる。今日は大雪になるから早めに帰宅するように、あるいは明日は大雪になりそうだから無理しないように、な〜んて鹿爪らしく部下に言ってる自分がいる。
・・・・・・何となく少し哀しい。
実家を整理してると古い写真が出て来た。まだ杭全町に住んでた頃、自宅の前で撮られた写真だ。ヨチヨチ歩きのおれが大雪の中で戯れてる様子が写っている。初めて見る雪に最初はビビってるのか、ちょっと不安そうな表情だったりするのもある(笑)。調べてみると昭和40年の3月に大阪で12cmの大雪となったことが気象庁の記録にあるから、恐らくはその時のものだろう。もう半世紀以上も前の話だ。
若草色の太い毛糸で編まれた大きな柄を繋ぎ合わせたチョッキには幽かに記憶がある。寒い時期はいつもこれを上から着せられてた。たしか母親のお手製ではなかったかと思う・・・・・・いや、ひょっとしたら父方の祖母が編んだのかも知れない。同じようなので丸いのが色とりどりにゴワゴワのドンゴロスを思わせる灰茶色の生地に沢山縫いつけられた炬燵カバーは祖母が作ったと言われてたし。まぁもぉすべては過去の話だ。
残念ながら、この時の記憶は全く残っていない。 |
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2018.02.12 |
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