O野のオッチャンとオバチャン |

野田駅前に今も僅かに残る古い商家。ただ、この家がそうだったかどうかはもう全く想い出せない。
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https://www.google.co.jp/より
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大阪の下町を舞台にした森下裕美の「トモちゃんはすごいブス」は、身も蓋もないタイトルとは裏腹にとても繊細で泣けるマンガだ。
・・・・・・で、そのトモちゃんのキャラクターの立ち方が凄い。顔がブサイクなのはともかく、体型が見事に4等身なんである。つまり顔がデカく、背が低く、肥ってる。なんぼマンガだ、カリカチュアだとは申せナカナカ強力だと思う。
初めて読んだとき、おれは何となく親戚のO野のオバチャンを想い出したのだった。
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物心ついてから年に数回訪ねるその家が一体全体自分とどんな関係なのか、幼かったおれにはサッパリ分からなかった。ようやっと理解したのは随分後になってのことである。
要は父方の祖母の兄がオッチャンであり、その妻がオバチャンだったのだ。おれからすれば大伯父、大伯母ってコトになる。たしかにオッチャンはおれの父親や祖母と何となく顔立ちが似てたような気がする。
華奢で何となくボーッとしてノンビリした雰囲気のオッチャンと、前述の通りひじょうに小柄でズングリムックリの4等身で勝気にチャキチャキ・ポンポン話すオバチャンは啓介・唄子の「おもろい夫婦」とかを地で行くような組み合わせだった。年齢は良く分からなかったけどオッチャンが60半ば過ぎ、オバチャンはそれよりちょっと下くらいではなかったかと思う。
大阪環状線の野田駅の改札出てすぐ東側、広い道路を挟んで高架になった線路の向かい側にその家はあった。間口二軒ほどの小さな店舗兼住宅で戦前からペンキ屋を営んでおり、表側は店になっている。今でこそあの辺の街は随分賑やかになったけれど、当時の駅前は何があるワケでもなく、戦災に焼け残ったのか古くて同じような小さな商家が密集する、くすんだシブい佇まいで、軒の上に大きく掲げられた「O野塗料店」の看板が無いと他とあまり区別が付かなかった。
いつも訪ねると裏の細い路地の方に回り、裏玄関から入っていく。どの家も路地にいくつかの鉢植えを並べており、玉子の殻や鮑・栄螺といった厚手の貝殻が土に挿してある。
上がっても特に何も実際することはない。どだい一階の住居部分は殆ど店舗にスペース取られて猛烈に狭いから動きようもないのである。小さな土間の玄関、2畳ほどの台所、あとは6畳が一間、トイレ、風呂は無かったような気がする。今は風呂の無い家なんてナカナカ想像が付きにくいが、当時は小さな家で風呂のある家の方がむしろ滅多になく、みんな近所の銭湯に通ってた時代だ。
梯子のように急な階段を上がった2階には何部屋かあるようだったけど、結局一度も上がったことはなかった。
行くと、母親とその4等身のオバチャンが何だかんだと女のお喋りで話し込む。血の繋がりが無いゆえにヘンなしがらみが無かったこともあってか、二人はとてもウマが合うようだった。オッチャンは近所へのペンキの配達が忙しいようで、自転車の後ろにリアカー付けたのでちょっと戻って来ては荷物積んですぐに出掛けて行るのを1日中繰り返してる。おれはちょこんと卓袱台の隅っこに座って、無聊をかこちながら不思議な拡大鏡みたいなんの付けられた白黒テレビを見るくらいしかすることがなかった。テレビの上には綺麗に巻き直した菓子折りの紐が沢山詰まったコーヒーの空き瓶が置いてあったりする。母親曰く、オバチャンはとてもシッカリ者の倹約家で、商売の方も帳簿を付けるのは全部彼女がやってるのである。
父の実家が戦後零落して一文無しになった時に物凄くあれこれと世話をしてくれ、陰気で倒れそうなあばら家だったとは申せ平野の背戸口町の家を手配してもらったってコトだったが、そんな事実にしたって随分後になって聞かされて分かっただけで、当時のおれからすればそこは、何で出掛けて行くのかも良く分からないまま母親に手を引かれ、環状線の柿色の電車に揺られてたまに向かう謎のスポットだったのである。
オッチャンとオバチャンには子供がなかった。そんなんもあっておれの父親も幼い頃は随分可愛がってもらったという。弟の誰かを養子に、なんて話もかつては出たことがあるらしい。結局それは実現しなかったが、ともあれおれも行くと自分の孫のように可愛がってもらってた。
いつも密かに愉しみにしてたのは数軒離れたうどん屋から取ってくれる出前だった。偏食の激しいおれのことを気遣ってなのか、或いはそれがその店の一番のウリだったからなのか、届くのは必ず玉子とじうどんである。塗りの剥げかけた蓋が被せられてあって、取るとものすごく良い出汁の香りが立ち上る。玉子とじもどんなテクニックなのかフワフワではなく、上等の玉吸いのようにヒラヒラしたのが一杯載ってる。その食感がとても良い。
店に買いに来る客は滅多にいない。「火気厳禁」の赤い琺瑯プレートが柱に掛かる薄暗い店内は何だか物置みたいで雑然としてた。これくらい書くと大体あの家の1階の記述は終わりだ。後はもう居間にある卓袱台が冬になると炬燵に変わるくらいで、本当に何の変化もない家だった。
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しかし、異変は既に始まってたのだった。なるほど初めて会った頃からちょっとボーッとしたオッチャンではあった。それが子供心にもちょっとヘンに思えるようになって来たのである。
配達から戻って一服に卓袱台に座ったオッチャンがおれに話し掛ける。
------***ちゃん、いくつんなったんかいな?
------6歳。
------大きぃなったねぇ〜!幼稚園は行ってるんか?
------うん。
そんな風にしばらく相槌打ってるとオッチャン
------***ちゃん、いくつんなったんかいな?
ここでオバチャンが割って入る
------アンタ〜、さっきも訊いてはったやないの!シッカリしいや!***ちゃんは6つ!
------あ、ああ、ああ、そうやったかいな・・・・・・ほな、また配達行って来るわ。
------ホンマこの人、最近物忘れがひどなってもう!
・・・・・・そう、それは今で言う認知症の始まりだったのだ。
それからは段々と、しかし坂道を転がり落ちるように状況は悪くなって行った。行けば年齢は5回は尋ねられる。名前を何度も訊かれることもある。顔付きにしても全体的に弛緩してきて何だかアホ役の藤山寛美みたいになって来た。その内さらにマズいことには、配達に行ったまま戻らず夜中に随分離れたところで警察に保護される、なんてコトさえ始まった。哀しいことにボケてもプライドはシッカリ残るようで、どうやら生粋の大阪人として隅から隅まで知悉してた道が分からなくなってるコトをどうしても認めたくなくて、誰にも道を訊かず闇雲に自転車で走り回っていたらしい。しばらく前、横浜で軽トラのジジィが一晩中走り回った挙句追突して、はずみで小学生を死なせる事件があったけど、多分同じようなケースだと思う。
そんなことが加速度的に増え、もう商売どころではなくなった。相前後して元祖・認知症小説と言える有吉佐和子の「恍惚の人」がベストセラーになってた頃だ。母親は「O野のオッチャン、あら絶対コーコツにならはったんやわ!」なんて父親に言ってるのを聞いたことがある。
父親は昔世話になった恩返しって気持もあったのか、オッチャンのボケがどうにもならなくなってから随分小マメに動いてたようである。良い病院を探し、入院の世話もした。お医者の見立てはやはり老人ボケであったが、それにしてもいささか進行が早過ぎるコトを訝しんでいた。
後になって色んなヒアリング等で判明したらしいが、そこまで急速に人格が荒廃した原因は、もちろん遺伝的なモノや加齢はあるだろうが、恐ろしいことに家業による脳のダメージがあったのだ。
今はホームセンターで小売の小さな缶が売られる時代だけど、昔はペンキは一斗缶に入っており、小口の販売は店で空き瓶に詰め替えて小分けにしてた。その作業の際に突っ込んだホースを口で咥えてペンキをちょっと吸い上げて素早く小瓶に挿し込むのである。そうすると後は大気圧の力で落ちて行く。水性塗料なんて気の利いたモノはまだなかった時代である。ペンキとは色の着いたシンナーに他ならない。もちろんただのシンナーだって薄め液なんだから取り扱ってる。早い話、無自覚にシンナー遊びを永年に亘って行ってたようなモンだ。元々ちょっとボーッとした感じだったのもそのせいだろう。
オッチャンが亡くなったのは多分おれが小学校の3年か4年の頃だったと思う。オバチャンは程なくして、野田の家を畳んで自分の郷里に近い老人ホームに入ったと聞かされた。それから何十年も会ってない。もちろんとうに鬼籍に入られてるに違いない。その後たまに環状線に乗って車窓から見ると、空家となった家はブリキの戸板みたいなので塞がれて随分長い間長く残っていた気がする。
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・・・・・・何でこんなことを改めて書こうと思ったのだろう?シンナーではなく酒で濁った頭で考え込む。
結局それは多分、自分なりの謝辞と鎮魂の意によるものなのだ。あんなに色々可愛がってもらったのに、おれは結局何も感謝を示すことが出来ていない。親なりに子供まで連れてくことは無かろうと判断したのか、葬式にもおれは参列しなかったし、オバチャンが野田を去るときにしたって父親はあれこれ段取りして世話を焼いたようだけど、おれは結局その場に行く機会が無かった。まぁ、そんな場にそれでなくとも普段から落ち着きがないと叱られてばかりのガキがウロチョロしてても邪魔なだけだろうが。
ともあれ、そんな気持ちが一種のわだかまりとなってずーっと心のどこかにあったのだと今になって気付いた。
大阪の下町の片隅で、市井に埋もれながら二人寄り添って地道に慎ましやかに家業を守り、変化はないけど穏やかで平凡な日々を過ごしていた無名の老夫婦がいて、おれはその人たちにとても可愛がってもらった・・・・・・たったそれだけのことが何だかひどく懐かしい。もう殆ど半世紀近くも前の話だ。 |
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2016.12.30 |
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