「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
カーニバルプラザの記憶


今は豊津公園に移設されたという看板。

http://esaka.osaka.jp/より

 先日、ヨメの実家から季節外れのカニを貰った。

 聞くところによると、なんぼ松葉ガニとは申せ冷凍品だと年を越してしまうと商品価値がなくなるらしく、処分を急いだ懇意にしてる魚屋からかなりお安く何杯か入手したらしい。それを律儀に御裾分け、っちゅうヤツでわざわざ東京まで送って来てくれたのだ。
 クール宅急便の発泡スチールの箱に収まったのを取り出して早速捌くことにする。コッペ(香箱蟹)ほど小さくはないとはいえ、やや小ぶりなのは仕方なかろう。それに貰い物に文句言っちゃいかんよね。ともあれ生ガニではなく茹でて赤くなったのだからそのまま食える。
 おれはけっこう蟹の解体が得意で、フンドシ外して、甲羅剥がして、味噌集めて・・・・・・最終的には脚も先の細いトコまで全部、チマチマと包丁で丹念に半分に割っては皿に盛って行く。単調だけど何となく熱中する作業だ。蟹を食べると人は黙る、って有名な説があるけど、どうやら調理中も蟹は人を黙らせてしまうもののようだ。

 そうして黙々と包丁を使ってるうちに、昔、結構良く出掛けてた蟹の店の事を想い出したのだった。

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 「カーニバルプラザ」ってダジャレのような名前のその店は、大阪の江坂の西の外れにあった。紡績工場の跡地を再開発したとかで、広大な敷地にテニスコートやらバッティングセンターやらゴルフの打ちっ放しやら飲食店やらがゆったりと配されている。その一角に、一際目立つ大きな店が建っていた。煉瓦造りだったのは工場の建物をそのまま転用したのかも知れない。
 今回改めてネットで調べてみたところ、何だかんだでもう閉店は2007年ともう10年近くになるらしい。気付かなかったおれがアホだった。開店はバブル前夜の83年、おれが通ってたのは80年代の終わりから90年代初頭くらいまでのまさにバブル期だったんで、店が一番賑やかにやってた頃とちょうど重なる。もう四半世紀以上も前の話だ。

 決して高級とかスノッブな店ではなかった・・・・・・どころか蟹を中心にしたファミレスみたいなモンだったものの、今から思えばなるほど実際バブリーな店だった。入口の屋根には吹田⇒万博⇒太陽の塔の連想からか、岡本太郎作の大きなモニュメントが飾られ、入るととにかくだだっ広いフロアに吹き抜けの高い天井・・・・・・ああ、そうだった!店内は二つにゾーンが分かれてたっけ。一つは比較的物分かりの良い値段でバーベキューだかジンギスカンだかを食わすコーナー、そしてもう一つは海老蟹中心のシーフードレストランになってた。そして明らかに後者の方が高級路線になっていて、内装も凝ってたような記憶がある。
 夜になると古き良きニューオリンズをイメージしてたのか、バンジョーやらトランペットのデキシーランドジャズバンドが賑々しくテーブルの間を練り歩き、今ではワリと一般的になったお誕生日サービスなんかも既にフツーにやってた。パチパチした花火の挿されたケーキが届けられ、バンドがハッピーバースデーをブンガブンガ演奏し、祝福される姿をポラロイドで撮ってくれる、っちゅうアレ・・・・・・ぶっちゃけかなり恥ずかしい(笑)。その時撮ってもらった写真は今でもウォールユニットのガラス戸の中にあるハズだ。

 シーフードとはいうものの、メニューの殆どが甲殻類だったように思う。加えて何せアメリカンイメージを打ち出した店であるから、海老も蟹も見慣れたズワイやタラバだけでなく、大きなハサミの部分だけを大皿に並べたナントカクラブ(取って海に放つと何年かでまた生えて来るらしい)、菱形のゴツいカントカクラブ・・・・・・みたいなのが多かったように思うが、細かいことはスッカリ忘れてしまった。ただ、どれもこれも大きなステンレスの平皿にドーンと盛られ、かなり大雑把で豪快だったのは確かだ。
 ボリュームも豪快な分、お値段もナカナカに強気な設定で、どうだろ?シーフードの方でたらふく呑んで喰ったら一人7〜8千円くらいは軽くブッ飛んでたのではなかったか?当時、学生時代より遥かに収入が減り、日々生活に困窮してたハズなのに、ここだけでなくいろんな店にどうして行けてたのか今更ながら良く分からない・・・・・・たしかに当時は口座の残高がよくマイナスになってたんだけどね(笑)。

 平日の夜でもバーベキューの方には順番待ちの行列ができ、お高いシーフードの方にしたっていつもほぼ満席だったから人気はとても高かったんだろう。正に日本中がバブルの熱気に浮かされていた時代ならではな気がする。皿の上で山盛りになった真っ赤な甲羅・・・・・・何だかバブルの象徴的なアイコンに思えて来たぞ。
 そうそう、江坂と言えば駅のすぐ近く、オフィスビルが林立する間に田圃が一枚だけ残ってて、「坪5千万円の米」なんて言われてたな。思えば江坂の町自体が大阪の旧市街に対する新都心みたいな扱われ方をしてたのもバブリーだ。雑居ビルの上の方の何てことない割烹屋が夜は1万円からとか、今から思えば嗤ってしまうようなムダにスカした状況があちこちで出現してた。今はどうなったんだろう?

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 今、改めて冷静に振り返るならば、カーニバルプラザってやはりそんなに大した店ではなかった。要はプラザ合意以降に急加速しつつあった円高の流れの中で海外から冷凍物を安く大量に仕入れ、それをそのまま解凍してポンポン切って皿に並べて供するだけだから、実はひじょうに効率的、もといボロ儲けな商売だったと思う。そいでもってコッテコテのアザといまでの演出で盛り上げる・・・・・・と。やっぱし「ハデでアメニティ付きのファミレス」に過ぎなかった。
 味にしたってそりゃぁ不味くはなかったけど、だからって決して冷凍物のクオリティを超えるものではなかった。昨今の北海道パックツアーなんかの宣伝文句で良く見かける「タラバ・ズワイ食べ放題!」みたいなんのレベルと大差なかろう。

 それでもそこにはなんぼ偏屈なおれでも認めなくてはいけないほどの文句なしの楽しさがあった。それは間違いない。スペシャリティ感とか非日常感と言ってもいいだろう。
 生ビールをジョッキであおりながらワシワシと甲殻類を貪り食い、殻を小さなバケツに放り込み、カニ臭くなった手をスライスレモンでこする。白熱灯の暖かい光、引きも切らぬ客、笑顔、さんざめく声、サスペンダーで吊ったダブダブのストライプのズボンにカンカン帽のコスチュームのバンドが陽気な旋律と共に客席を練り歩き、オードブル皿のように巨大なステンレス皿を持った給仕が忙しなく行き交う・・・・・・昨今のコスパがどぉこぉとか、妙に生真面目に素材主義を訴求するファミレスよりは断然単純明快で楽しかったと思う。
 酔っ払っててまとまりなくて申し訳ないが、また唐突に想い出した。このカーニバルプラザ、一時は東大阪か八尾のあたり、外環沿いに支店があったんぢゃなかったっけ?それだけでなく柳の下の二匹目の泥鰌を狙ってか、海老蟹中心のファミレスって、他にもこの時期あちこちに出来てたようにも思う。みんな一体全体どこに消えてしまったのか、今はもう確かめる術もないけど。

 最後に行ったのはいつだったっけ?結婚して子供ができ、でも給料はさほど上がらなかったおかげでたちまちおれは絵にも話にもならないくらいの貧窮状態に追い込まれた。だからそれより前だと思うがハッキリとは思いだせない。大体それまでは夜になるとほぼ1日おきで、宝塚だ箕面だキタ(梅田)だミナミ(難波)だ、いやいや今日は趣向を変えて鶴橋だ天王寺だ天六だ十三だ尼崎だ・・・・・・とあちこちに出掛けて飲み食いしてたし、この店も色々行く店の一つにすぎなかったのだ。どだい江坂だけでも行きつけの店は何軒もあった。

 おれみたいなしがないサラリーマンでもバブルの端っこくらいには居れた時代だったのである。

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 丁寧に捌いた蟹から取れた身の量は、その苦労にはまったく釣り合わないくらい少ない。小鉢に山盛りくらいってなトコだろうか。まぁ蟹なんてそんなモンだ。

 一升瓶から注いだコップ酒を片手にそんなカニ身をつまむ。流石に美味い。酒が進み、酔いが回る。世の中もおれもすっかり地味になったモンだよなぁ〜、と我ながら痴呆的なまでにベタな感慨に耽りながら、TVを眺める。当然ながら眼はマトモに内容を追ってなんかいない。

 四半世紀はアッちゅう間に過ぎた気もするけど、やはりそれなりに長い時間だ。様々な努力と犠牲が払われたにもかかわらず景気は未だにパッとしないままだ。

2016.06.02

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