週一同和 |

・・・・・・ってーか、やなせたかしにちゃんとギャラ払ってたんだろうな?(笑)
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とても痛い話を聞かされたことがある。もう30年から昔の話だ。
大学の同級生だったヤツにはちょっとばかし歳の離れた兄貴がいた。その兄貴が結婚に際して実家への出入りを禁止されてしまったのだという。昔風に言うと勘当、っちゅうやっちゃね。その理由は端的に言っちゃうと、相手の女性が被差別部落の出身だったからだ。
それだけならまぁティピカルな結婚差別、っちゅうだけでこうして敢えて取り上げるコトもなかったろうが、彼の両親の職業は学校教師だったのである。「サベツはあきません」って教える側だったのだ。友人曰く、両親の苦悩は大層深いものだったらしい。一方にそのような差別はあってはならないという気持ちは確かにあった。それは建前とかでは無くあったのは事実らしい。しかし一方では刷り込まれたさまざまの情報や、田舎町故のいささか閉鎖的で狭い世間にたちまち飛び交うであろうさまざまの憶測・噂話への惧れ・・・・・・シビアなアンビバレンツの中に叩き込まれたのだった。
幸い、少し前に孫が生まれたことをキッカケに勘当は解け、いささかギクシャクしながらも家族ぐるみでの交流は始まったとのことだった。
10何年前、長く気儘なチョンガの身を謳歌してた友人本人もいよいよ結婚することになり、おれは結婚式に招かれていった。親族席には御両親と一緒にお兄さんの一家もちゃんといて何やら笑いながら親御さんと話している。子供も3人くらいいたような記憶がある。何だかおれは素直に良かったなぁ〜、と思ったのだった。
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そう、結婚といえば、部下に肉屋の倅がいてその結婚式に招かれてった時のことだ。彼ソックリの顔立ちを太らせてごま塩頭を乗っけたような、実直な職人然としたお父さんに型通りのお祝いの挨拶をしたところ、いささか唐突に奇妙な自己紹介をされて面食らったことがある。
実は私の家は会津の出で、御一新で会津が冷遇されて以来すっかり零落しまして、そいでもって私は東京に肉屋に丁稚奉公に出たんですが、元々はそれなりの藩士の家でして・・・・・・云々かんぬん。スンマセン!後は相槌を打ちながらほとんど聞いてませんでしたっ!(笑)おれは家柄だとか家系だとかの話を聞かされると、もぉめんどくさくて脳全体が聞くのを止めてしまうのである。シャッター現象、ってヤツだ。
・・・・・・要はお父さん、肉屋家業をやってますけど決して私んちの出自は被差別部落ではない、ってことを暗に言いたかったのだろう、ってコトにしばらくしてから鈍いおれは気付いた。上司なんて存在はそぉいったコトを気に掛けるモンだ、と思わせる雰囲気を漂わせてたとしたら、全く以ておれの不徳の致す限りだが、生憎おれは全く何も考えてない、っちゅうねん。
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マクラばかりでいつまで経っても本題が始まらないのもアホみたいなんで、そろそろ今日のネタである同和の話だ。
小学校の何年生くらいからだったろうか、たしか4年生頃からだった気がするのだけど、良く覚えてない。ともあれ突如として道徳の時間に「にんげん」なるタイトルの副教材みたいな本が配布され、それが道徳の本に代わる新しいテキストになった。一読しただけでは何のことやらサッパリ分からない。大阪のあちこちの地名が出て来て、昔の暮らしは大変だった、みたいな話がグジュグジュと次々に出て来るような内容だった。
言うまでもなく同和教育の一環としてそのような時間が持たれたのであった。
同和教育と言ってもピンと来ない御仁も多いだろう。これは被差別部落問題に根差した人権活動に基づく、みんな仲良くサベツをなくしましょう、ってな教育のことだ。そもそも被差別部落そのものにしたって知らない方が多いと思われるが、江戸時代の身分制度であった士農工商の下に置かれた穢多・非人階層の住まわせられた集落および住民が明治以降も差別の対象となった・・・・・・ってな話である。賤民のゲットーといえば分かりやすいかも知れない。実際にその生活がは苛烈を極めたものだったのは紛れもない事実である。一般的な職業、就けまへん。なもんで年中貧乏暮し。部落外との結婚、でけまへん。仮に出自を隠して部落を出てってもバレたら大変・・・・・・そんなんもこの「にんげん」をテキストに教えられたと思う。
しかし、この同和教育にどこか絶えず取って付けたような違和感が漂っていたのも紛れもなく事実である。欺瞞とか偽善の香りがプンプンしてるのがガキにも分かった。
なるほど差別は良くない、それは分かる。差別されるのはいじめられるのと一緒でとてもツラい。やられる側はたまったもんではない・・・・・・でもなぁ〜、みたいな感覚。だって、同じクラスには誰もがびびんちょ認定して近寄ろうとしないTさんがいるし、学校中のサンドバッグ状態になってるA君は1学年下にいる。担任はうら若き女性なのにその御面相ゆえに「カバ」などと綽名を付けられてガキ共から囃し立てられてる始末である。ぢゃ、彼ら彼女らの置かれてる現状は一体全体何やねん!?と。
実は70年代っちゅうのは同和の名の下の被差別部落解放闘争が最後のピークを迎えた頃であり、その行き過ぎによる弊害もまた猖獗を極めていた時期でもあった。
ヘタなことを言うと「糾弾」っちゅう名の吊るし上げを食らう、誰それのおとーさんは市役所に勤めてて何かマズいこと言って糾弾に掛けられて、廃人みたくなっちゃった・・・・・・などとおどろおどろしい噂話がどこからともなく聞こえて来ることも多く、同和っちゅうのは何だか触れてはいけないコワいもんなんだ。とにかく、サベツはダメです!みんな仲良くしよう!ってウソ笑いでニコニコしてなくちゃいけないんだ、って気持ちを子供たちはみんな抱いていた。
今から冷静に考えれば「にんげん」の時間にしたってソラ恐ろしい話である。義務教育たる小学校の教育課程の1時間のコマが、いくら大阪府下のみとだったとはいえ解放同盟という一政治団体によって獲得されたようなもんだったのだから。大体あのテキストのコストはどこから出てどこに流れて行ってたんだろう?
ともあれそんな何とも奇妙な感覚の時間が週に一回やって来る。まぁ、他の悪童共と一緒でろくすっぽ聞いてはいなかったとはいえ、少しばかりそれは憂鬱な時間でもあった。たぶん、小学校卒業まで数年間続いたと思う。
これらの体験は一種のシコリのようになって長いこと胸につっかえたままだった。それが少しは晴れた気になったのは80年代終わり近くに出版され、物議を醸しつつも大きな一石を投じた「同和はこわい考」(藤田敬一)なんかを友人の勧めで読んだり、中上健次の一連の路地を舞台とする小説やルポを読んだくらいからだろうか。
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正直、世の中の人権活動とやらに対して今のおれはかなり冷ややかに見てる。それは自分が差別主義者、ってワケではない。それはハッキリ申し上げておく。ここまで取り上げたようなヘビーなものだけではなく、学歴だとか職業だとか趣味だとか、色んな差別・蔑視の回路は社会に張り巡らされてるのだけど、おれ自身は一向に無頓着である。気に食わんヤツは気に食わんし、好きなヤツは好き、それだけのことだ。くだらないレッテル貼りなんて畢竟、自分がマジョリティの側の安逸を貪ろうとする意思の最も低劣な形での発露ではないかとさえ思ってる。
それでも人権活動はどうも好きになれない。何故か?
たしか呉智英が言ってた記憶があるが、「人権と膏薬は何にでも付く」と言うべき、被差別部落問題の次は在日外国人だ、その次は障碍者だ、老人だ、女性だ・・・・・・っちゅう無節操なまでの拡散が堪らなくイヤなのだ。どう考えてもそこに利権の甘い汁があって、飯のタネにしてる人が沢山いるとしか思えない。
引用ついでに花村萬月の小説にあったセリフも持ち出してみよう。「人が二人寄ればそこには階級が生まれる」っちゅうのだ・・・・・・それは人間の原罪、あるいは業のようなものだ。そこをまずは素直に認めないまま、いくら差別だの人権だの言ったってうすら寒いだけだろうとおれは思う。
さらにチョーシ乗っても一つ引用でこの思い出話を締めくくろう。有名だから知っておられる方も多いだろうと思うが、ブルーハーツ”Train−Train”の歌詞だ。
------弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く。
その音が響き渡れば、ブルースは加速して行く
差別は、ある。それが弱者の生み出す回路である以上、あり続ける。 |
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2014.12.13 |
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----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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