「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
惜別、弁天町交通科学博物館


こんなんやったっけ、ねぇ?

 大阪環状線の弁天町駅高架下にある交通科学博物館が今年の4月閉館になるそうである。

 気になって調べてみると開館は昭和37年、大阪環状線の開通記念事業として建設されたらしい・・・・・・ってことはガキのおれが連れられてったのはまだ出来て10年も経ってない頃だったことになるワケだが、何となく当時から少し古びたようなくすんだ雰囲気が漂ってたと思うのは、博物館という収蔵物によって成り立つ存在自体が必然的に備えるヴィンテージ感によるものなのかも知れない。

 弁天町っちゃぁかつて、その末期も含めて東の「ザウス」と引き合いに出されるバブルのアメニティ施設「パラディッソ」があった。おれも2〜3度行ったことがあるが、日本最大の温水プールを中心に、名前は忘れたけど空気の力で空中遊泳できるでっかい部屋、スパや若干のショップ・レストラン等を備えた実にバブリーで巨大な建物だった。もちろん、他に取り立てて何があるワケでもないただの地味な乗換駅っちゅう立地条件でそんなん長続きするワケもなく、その名の通りバブル崩壊と共に呆気なく天国に行ってしまって、今はコナミスポーツクラブが引き取ってだだっ広いジムに模様替えしてしまっている。それで採算が取れてるかどうかは知らない。

 ちなみに今回の閉館は単なる廃止ではない。だからそんなに悪い話ではない。所謂「発展的解消」っちゅうヤツで、京都の梅小路蒸気機関車館を大幅に拡張してそこに統合されるのである。ま、何年か前まで万世橋にあった古い博物館も今は大宮に移転・新装開店することで随分と巨大でモダンな存在になったのだけど、概ね似たような考え方のようである。札幌や名古屋、博多で見られるシンネリと時間をかけた繁華街の駅へのリロケーションなんかもそうだけど、民営化後のJRは本当に商売上手になったモンだ。
 それはさておき殆どの展示・収蔵物はそちらに行くのだろうし、博物館としてこれまで積み上げてきたコレクションは些かも毀損することはないのだと思う。それは分かる。しかし、おれにとっての交通科学博物館はやはり弁天町にあってこそなのであり、梅小路のあそこはSLに特化した場所、っちゅう感覚が未だにあって、どうにもピンと来ない。

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 往年の弁天町の駅は随分ガランとして薄暗く、殺風景だったような記憶があるが、それが開業間もなくて細かいディティールが仕上がってないことによるものだなんて、当時のおれには想像も付かないことだった。階段を下り、改札を通って天王寺方向に出て左に紛ったところに博物館への入口はあったと思う。巨大なギザギザの意匠になった入口だった。

 実のところ館内の展示物をさほどハッキリと覚えてるワケではない。先頭車輛の運転席部分だけを輪切りにしたものがいくつか薄暗い中に置かれ、色んな動力やら信号等の仕組みを教える模型がランプを明滅させながらユックリと回ったり、巨大なHOゲージのレイアウトがあって、何時間おきかに新幹線も蒸気機関車も一緒になった運転が見られる・・・・・・大体そんな構成だったように思う。ロープウェイやケーブルカー、また宇高だか青函連絡船の鉄道車輛まで呑み込むフェリーなんかの模型もあったような気がするが、ちょっと判然としない。

 正直、間近で見上げる車輛は巨大で全体像が良く分からなかったし、胴切りにされて寸詰まりになってるのは何となく子供心にも無残な感じがした。ステップ上がって運転室に入り、運転士気分になれはするものの動かない・・・・・・まぁ当然のことで、こんな状態で動いたらそれはそれで大変なのだが(笑)。
 しかし、電車だろうがなんだろうが畢竟、鉄道車両はやはり、実際の風景の中で動いて走ってナンボなのであって、腑分けされた電車の標本みたいなのは、今から思うに鮭やブリ、タコを教えるのに切り身を見せるようなモンだろうと思う。その後にオープンした梅小路が実際のターンテーブルを中心とする扇形車庫を拠点に動態保存に拘ったのは何となく頷ける気がする。

 一方、巨大なレイアウトは細部のリアリティには問題あるものの、全体としてはナカナカに凝った造りで、24時間を圧縮したように明るくなったり暗くなったりする。それに合わせて並べられた家々にも灯りが点ったりもする。当然、夜になれば当時最新鋭だったブルトレの夜行列車の編成が赤やら青の電気機関車に牽かれてビャーッと走る。
 しかし、今度は小さ過ぎるくらいに小さい。HOゲージは1両がおよそ25cmほどもあって、手に持つと実はかなりデカいのだけど、何せレイアウトがあまりに巨大だし、オマケにちょっと離れて観るものだから、山の上の展望台から遥か下行く列車を見るような感じなってしまう。

 そんな風にして薄暗い館内を抜けると中庭に出る。野外に置かれてるのは、大阪駅寄りに第二展示場が増設される以前だったから、茶色い旧型客車が2輌ほどと、後は何だったっけ?古風な明治のタンクロコにD51か何かポピュラーなのがチョロッと、ってな感じだった気がするがこれまた良く覚えていない。客車はレストランとして使用されており、ここでルーとライスが別々に盛られたカレーを食わせてもらったことについてはおそらく食った回数以上に(笑)、過去に文章にしたので今回は割愛しよう。
 ともあれ、ニス塗りの木造の車内に白布の掛けられたテーブルの並ぶ車内は、子供心にもとても古風で優雅、高級な雰囲気だった記憶がある。一言で言って「大人」な感じがした。長大で豪華な特急に乗って遠くまで行けるなんて夢のまた夢だったが、大きくなったら走る車内でご飯を食べるなんてコトができるようになるのかなぁ〜・・・・・・なんて漠然と思ってた。偏食まみれだったクセに(笑)。

 そうそう、子供が生まれてしばらくした頃、家族で出掛けてったことがある。おれとしては30年ぶりくらいのことだった。屋外のスペースが拡張されて静態保存の展示物が増え、その中にはおれの大好きなキハ81やDF50、DD54なんかがあってそれはそれで楽しめたのだけど、館内の方はあまり昔と変わってない感じだった。残念ながらカレーをその時食った記憶はない。まぁ、それさえももうずいぶん旧聞に属するエピソードになってしまったが。

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 列車を乗せる連絡船なんて、宇高も青函もとっくの昔に無くなった。そしてその出港地だった青森に上野から向かう「あけぼの」の今春の廃止を以て、ブルトレはいよいよ全廃される。石破ナントカってねっちょりした喋り方の政治家がブルトレ残せ残せってホザいてるけど、別に夜に無理して移動せずとも、夕方遅くの新幹線や飛行機で行って、そのままビジネスホテルにでも泊まった方がよほど快適で安上がりなのだから仕方あるまい。

 一般的な特急列車から食堂車が消えて随分経つ。そもそもスピードアップと新幹線以外では長距離特急が無くなったことで、仮にもし残ってたとしても、ゆくりなくディナーなんて洒落こんでたら食い終わる前に終点に着いてしまいかねない。吉野家やマックでもテナントで入れるしかなかろう。そぉいや先日、新大阪から新幹線で戻る時、乗り込んですぐに角ハイボールか何か飲んでウトウトしてしまった。そのうちチンコロカンコロとオルゴールが鳴ったのが聴こえたので「あ〜も〜名古屋かぁ〜」と思ったらあにはからんや、新横浜だった(笑)。
 言うまでもなく蒸気機関車も茶色い旧型客車もなくなって、今は僅かに残されたのが何かの記念運転等に起用される程度だ。どだい鉄道を中心とした地域や暮らしや通信、経済、また風景そのものが過去の遺物となってしまってるのである。北陸新幹線や北海道新幹線がどぉこぉとか、リニアモーターカーがどぉこぉなんて喜んでる場合ぢゃないのである。
 実のところもはや都市近郊の大量輸送と拠点間輸送以外、鉄道の生き残る術・・・・・・ああ、鉄路っちゅうくらいだから活路はないのだ。

 弁天町の交通科学博物館が閉館になる・・・・・・それはこの国の鉄道の世紀が本当にいよいよ終焉を告げるシンボリックな出来事なことのようにおれには思える。


昔はやたら見掛けたDF50。大好きだな〜。

2014.03.05

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