「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
追憶の阿倍野橋・天王寺


「憂歌団」の75年のデビューアルバムの裏ジャケ。天王寺駅から西の新今宮方向を望む。
関西本線がもう電化されてるので、発売時期頃に撮られたものだろう。


 先日、所用で久しぶりに阿部野橋っちゅうか天王寺っちゅうか、まぁあそこの交差点に立ち、余りの変貌ぶりにおれは目を瞠ったのだった。変わらないのは相変わらずンガゴォ〜ッ!と重々しいモーターを響かせて走る阪堺電車くらいなモンで、後はスッカリ様変わりしてしまっている。

 陰気な駅ビルだった天王寺ステーションビルは綺麗に建て替わって「MIO」とかいう名前のファッションビルになっている。チョークで地面に「もう一週間めしを食っていません。誰か100円恵んでください」って書き殴って、レゲェが迫真の演技力で倒れ伏してた歩道橋は屋根付の何だか近未来的なデザインのモノに代わっている。飛田新地への入口だった商店街辺りは、元の姿が想い出せないくらいに一帯がゴッソリ建て替えられて「あべのキューズタウン」っちゅう巨大モールになってる。そしてなにより驚いたのは、なんかも一つ垢抜けない印象の強かった近鉄デパートは今や日本一の超高層ビル「あべのハルカス」として着々とグランドオープンの日を待ってるといった状況なのである。

 もう20年くらい前におれは「百貨店という高み」ってなタイトルで駄文をしたためたのだけど、その中でイメージした記憶の中のデパートの大食堂とは、この近鉄デパートだったのである。そしてこんな風に文末に書いたのだった。

 「百貨店が高級小売店のステータスを取り戻すには、100階でも200階でも、とにかく高く建て直して、富士山のてっぺんから見るような眺望の大食堂と屋上遊園地をこしらえるのが、手っとり早かろう。」

 ハハ、その場所に今や日本一の高層ビルだってさ。もぉ笑っちゃうしかないよね。想像もできませなんだわ、ホンマ。ともあれ今回は、そんな阿部野橋・天王寺界隈の記憶を想い出すままに綴ってみることにする。

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 近鉄デパートに出掛けてたのは、父方の叔母がそこで働いており、たまに顔見に立ち寄ることにしてたのである。行くときは必ず母親と二人で、父親も同行していたことはなかったから多分平日だったんだと思う。売り場は紳士服売り場だったような記憶がある。当時のデパートの紳士服売り場は吊るしがあんまりなく、反物みたいに巻かれた生地が多かったように思うが、ちょっとあやふやだ。ともあれ、最も子どもの興味を引かないカテゴリーではあった。
 そうして大食堂に向かう。それはあまり豊かでない我が家のささやかな贅沢だった。おれは偏食が激しかったのでいつもザルソバで、窓際の席から飽きることなく眼下に見える天王寺駅の列車を眺めていたのだった。そうそう、ザルソバにはうずら卵がくっ付いて来ることもおれはこの大食堂で覚えた。

 もう廃線になって随分経つが、当時は南海電車の天王寺線という短い支線が天下茶屋と天王寺を結んでおり、その線路がデパートから見て最も手前側にある。その向こうが関西本線で、さらに大阪環状線とホームが並ぶ。ここまでは件の交差点の下を潜るために半地下になっていて実はあまりよく見えない。そして地上ホームは阪和線とそのまま紀勢本線に向かう長距離列車のホームになっていた。
 まだ関西本線の貨物には汽車がフツーに走ってた時代であり、モクモクと黒煙が上がるのが望まれることもあった。環状線はもうオレンジ色の電車に置き換わってた気がする。関西本線は朱色とクリーム色のディーゼルカーだった。阪和線は、オレンジだったり紺とクリームのツートンだったり、長大なディーゼル特急や急行だったり、たまに茶色やブルーの古い客車の先頭にいかめしい茶色の電気機関車がくっ付いてたりして、見飽きることがなかった。
 とりわけおれが好きだったのは、南海電車のところにいるあまり他に類例のない形をした緑色の古風な電気機関車である。凸型っちゅう形で、便利になった現在ではたちどころにネットでそれがED5151って形式だったことも調べが付くが、当時はそんなこと知る由もないまま何だか奇妙な形だなぁ〜、と思いながら飽かず眺めていた。不思議なことに大抵いつも重連で、大層な割には繋がってる貨車の数が少なかった。

 今になって思えば、ひょっとしたらこれらは道路沿いでバスを待つときに見た景色かも知れない。前述のとおり駅のホームは深い切り通しの下にあって、なんぼデパートの高層階からとはいえ、角度的に見ることは不可能だったようにも思えるからだ。それでも、おれのあの当時の記憶は大食堂と密接に紐付いてる。

 これだけ天王寺駅のことはいろいろ覚えてる一方で、駅としての近鉄阿部野橋の記憶は殆どない。多分、乗ったこともなかったと思う。幼稚園がそこから二駅の北田辺の近くにあって、駅前この商店街では母親に連れられてよく買い物をしたし、夕方ともなると黄色い室内灯の点った小豆色の古い電車が、モーターの唸り音も勇ましく踏切を通り過ぎてたのは覚えてるのだけど、その列車がたまにザルソバを食ってるあのデパートに下に向かって走ってるとは知らないままだった。

 思えば、阿部野橋・天王寺は我が家の数少ない休日のイベントの全ての起点でもあった。夏、浜寺のプールに行くときはチンチン電車に乗り、玉造の母方の曾祖母の家や弁天町の交通科学博物館、あるいは野田の駅前の父親の伯父さんに当たる人の家に行くときは環状線に乗る。奈良の寺に行くときは関西本線に乗る。近隣の幼稚園合同のイベントで長居のスタジアムに行くのに初めて阪和線に乗った時なんざ、ものすごく興奮したものだ。朱色の何だかニコニコしたような顔付きの古い電車に乗り、今思えばあれは杉本町だったっと思うけど、それまで遠目にしか見たことのなかった茶色の大きな電気機関車が間近に見えたのだ。
 紀州や名古屋、あるいは吉野なんて想像もなにも、地名さえ知らなかったが、その駅を起点にどこまでも遠くに行くことができる、というのは子供心にも分かった。いかにもはるばる田舎から出てきたような、大きな風呂敷包みを背負った年寄りの姿も良く見かけた。歩道橋の上にはいつもヤドカリ売りの露天商が座っていた。

 おれの阿部野橋・天王寺の情景の記憶は小学生に上がる少し前を境に途切れる。南海沿線に引っ越して、難波方面に出掛けるコトが増えたためだ。まぁその後、小学生も4年くらいになって無賃乗車を覚えたおれは、たまに天王寺に出掛けてって、幼稚園児の頃と変わらず、飽きず電車を眺めてたのだけど・・・・・・。

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 高校生になって再び阿部野橋・天王寺は自分の記憶の中の風景として戻って来る。高校が近鉄南大阪線沿線にあって、週に何度か、学校を午前中だけでサボって抜け出して、あの辺をウロウロしてたのだ。たしか、高2の終わりくらいからは、週に二度ほど四天王寺の近くにある小さな塾にも通わされた。

 ・・・・・・当時の記憶の大半は楽器屋だ。ナンギな音楽を覚え、僅かな時間を割いてギターの練習に勤しんでたおれがあの界隈に出ると必ず立ち寄っては長い時間を過ごしたのは、アポロビルにあった三木楽器だった。今はもう撤退して、テナントは居酒屋ばかりが入ってるようだけど、当時はイケてない雑居ビルばかりの阿部野橋・天王寺にあって唯一と言って良いくらいの若者向けビルだったように思う。
 ほの暗い店内にはギターだけでなく鍵盤やタイコ関係まで、かなり厚い品ぞろえで並んでいた。ギターに関して言うとちょうど国産エレキのゴールデンエラ、ドンズバレプリカの全盛期で、各社は本家と寸分違わぬコピー品を数多く出してたし、また、アレンビック等に影響を受けたスルーネックを中心にいろんなオリジナルモデルにもすごく力が入ってた時代である。グレコで言えば「GO」や「Boogie」シリーズ、アリアでは「PE」「RS」なんて今でも忘れられない。
 また、YMOが大ブレイクしたテクノ全盛期でもあり、国産シンセサイザーが充実し始めてた頃でもあった。ローランド「SH−101」、ヤマハ「CS−10」、コルグの傑作中の傑作「MS−20」等の入門機がどれもこれも判で捺したように定価98,000円の値付けで売られ始めた頃だ。どれも今の水準からしたら機能的には貧弱なモノフォニックのアナログ機だったけど、音の太さは昨今のデジタルより優れてたように思う。
 店に行くと、おれくらいの歳の、同じように学校を抜け出して来たようなのが、「ライディーン」やら「東風」やらピロピロ弾いてるのをよく見掛けた。
 裏口を出て、商店街を飛田新地に向けて下って行くと右側にマイナー専門とも言えるライブハウスの「マントヒヒ」があったが、金もなく、さすがに塾までサボるだけの度胸のなかったおれは、いつも前を通り過ぎるだけだった。思えば残念なことをした。

 天王寺公園の入口北側、茶臼山の麓、っちゅうかラブホテル街の入口辺りにあった楽器屋も忘れがたい。名前は忘れた。無口なおっちゃんが一人でやってて、かなりマニアックっちゅうか古めかしいっちゅうか、狭い店内にはクラシックギターやフォークギター、マンドリン、バイオリンなんかも多く、エレキったってフルアコやセミアコが沢山天井から吊られてた。
 置いてあるどれもこれもが中古だかデッドストックだか良く分からないのがこの店の最大の特徴で、今となっては最も取り戻したいエフェクターである「ファニーキャット」も、そこで買ったのだった。西日の当たる店頭で、千円均一で籠の中にラップでグルグル巻きにされて売られたのだ。バンド時代はそれしか使わなかったセルロイドの尖ったオニギリピックもそこで100枚くらいまとめて買った。ライブではバンバン使い捨てにしてたのだけど、ちょっと勿体ないことをした気がする。何枚か未使用で取っておけばよかったかも知れない。

 そうして塾のある日は始まるギリギリまで粘って、四天王寺に向かうダラダラ坂を上って行く。塾がビルの何階でどんな間取りでどんなセンセがいてどんな授業をやってたかは綺麗サッパリ忘れたくせに、凄い美人の大学生の事務アルバイトのオネーサンがいたことと、隣に吉野家があっていつも閑古鳥が鳴いてたのだけは異様にハッキリ覚えてる。

 大学生になって京都に移ったこともあって、滅多に阿部野橋・天王寺界隈に行くことは無くなった。就職してからも一度、悪友と一緒にかの有名な「あべのスキャンダル」(近鉄デパートの南側にあった元祖ノーパン喫茶)に行って、それからあの近辺の飲み屋で死ぬほど飲んで、気が付いたらなぜか今里の駅前のスーパー銭湯の仮眠室で寝ていた、っちゅうのがあるくらいだ。どのようにしてそこに辿り着いたのか未だに想い出せない。大体、今里に行くには鶴橋まで環状線に乗って、そこから奈良に向かう別の路線の近鉄に乗り換えねばならないのである。
 つまり、自分の中で幼少の頃のような町の存在感が喪われてた、ってコトだろう。

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 歩道橋の上、雑踏の中に一人取り残され立ちすくんだように、おれは銀色にピカピカ光り輝く「ハルカス」をずいぶん長い間見上げていた。道行く人には随分不審に映ったに違いない。

 今やもうあの往時の、吹き溜まりの場末感溢れる、キタやミナミに較べたら圧倒的に野暮ったくて、そしていささか寂れた雰囲気の阿部野橋・天王寺の雰囲気はほとんど残っていない。もちろん、詰まらない懐古趣味でそのことを非難する気もない。オッサンになったおれは一抹の寂しさを抱きながら、自身もまた歳月を重ねてくしかないのである。


通天閣より高いのは反則やで!(笑)

2014.01.22

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