Tさんのこと |

モンドリアンの有名な絵、これを見るとおれはTさんを想い出す。
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このサイトのタイトルの由来ともなっている網野善彦の・・・・・・というより日本の歴史学の金字塔とも言える名著「無縁・公界・楽」の出だしは「エンガチョ」に関する話から始まる。言うまでもなく子供の頃の汚穢と禁忌を表す言葉であって、この考え方は全国的に一般的に見られる。ただ、「エンガチョ」って呼び方そのものは関東系の呼び方であり、今はどうだか知らないけれど、おれが子供の頃の大阪では「びびんちょ」って呼んでいた。
みんなで遊んでて誰か何か汚いものに触れるなり何なりすると、別の誰かが「びーびんちょかんちょっ!かーぎしぃーめたぁーっ!!」と怒鳴る。「鍵閉める」とは俗に「豆握り」「女握り」と言われる卑猥な拳の握り方と似た格好に手を閉じることだ。件のフォームとちょっと違うのは親指を人差し指と中指の間ではなく、中指と薬指の間に挟むのである。「・・・・・・である」などと偉そうに書いたけど、それが近畿全域で通用したものかどうかは知らない。おれの住んでた辺りでは少なくともそうだった、ってだけだ。
こうしていったん「びびんちょ」にされると、それを払い落とすには手を洗うとか風呂入るとか合理的なことをやったって駄目である。そもそも「汚い」は実は何でも良かったのだから。しばらくしてうっかり鍵を閉め忘れたヤツに対してデン(タッチ)するまでその汚穢は無くならない。デンすることで汚穢はされた方に移る。汚穢はつまり一種の「憑き物」のような、目に見えない観念的で抽象的なものなのだった。
ともあれ、この「びびんちょ」に認定されることは、たとえ一時的にせよ仲間外れにされるってこと、つまりは子供社会の中でマージナルなところに追いやられるってことであって、大変な不名誉であり、かつ恐怖でもあった。
まぁ、実にクダらないっちゃクダらない、ガキの他愛のない遊びではあったが、そこには差別やいじめの本質的な姿があった。
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・・・・・・で、Tさんだ。
Tさんとは小学校3年のクラス替えでいっしょになった女の子だ。このコは、いわば「終身びびんちょ」みたいにみんなから思われていた。子供社会におけるハリジャンみたいな存在だ。さすがに小学生も3年生くらいになると、遊びで「びーびんちょかんちょ!」なんてことはやらなくなるし、そもそもそんな「びびんちょ」なんて最早誰も信じてはいない。だけど、Tさん本人ならびに彼女の持ち物等に触れることは誰もが嫌がった。もちろん友達付き合いをすることはおろか会話することさえ想像も出来ないことだった。そんなんだからクラスの中で同じ班になったり、運動会や林間学校のフォークダンスで手をつなぐ、なんちゅうのももちろん悪童共はとても嫌がった。ま、これをお読みのみなさんにも或いは似たような経験はあるかもしれない。
Tさんには不思議な噂があった。彼女の父親が肥えたんご(大阪弁で肥溜めのこと)にハマって溺れてる子供を引っ張り上げたら何と我が娘だった、っちゅうまことに珍妙極まりないエピソードである。真偽のほどは分からない。そもそも誰も彼女と話しせんのだから。しかし、さもありなんと思わせる雰囲気が彼女にあったのも事実で、何とも不潔な感じのする子ではあった。ブサイクだし、女の子のクセに洟垂らしてることが多いし、何かちょっとボーっとして足りない感じで成績も悪く、国語の時間に音読させられると漢字飛ばして平仮名だけ読むし、行動だっていつもどこかヘンだ。で、知ったかな悪童は実にまことしやかに言う・・・・・・「肥えたんごで溺れて息止まってあんなアホになって、顔もあんなんになってしもたんや!」。おれもちょと信じたりしてた。
今なら「アホ抜かせ!」と断言できる。そんな肥溜めに落ちたくらいで御面相まで変わるなら、ハードなスカトロプレイこなすAV女優なんてみんなとんでもないことになってるはずやないか、倉本安奈とかさ(笑)。
でも、そんな噂が出るのも全然故なくはなかった。彼女の父親は市の環境課に勤めておりバキュームカーで屎尿の汲み取りに回っていたのである。当時はまだ田圃や畑が沢山残っており、当然のことながら肥溜めもあちこちに点在していた。バキュームカーは各戸からブツを回収するだけでなく、そこに今度は注いで回るのである。おそらく噂はそこからおもしろおかしく捏造されたのだろう。そしてその噂こそが彼女の「びびんちょ」の大きな根拠ともなっていたのである。
このお父さん、下水道の整備が急速に進んでからは公園の草刈りなんかをやってて、おれも「あれがTのトーチャンや」などと悪友から教わって知った。遠目にも目立つかなりの巨躯で坊主頭の今で言うならキム兄こと木村祐一みたいな顔で、けっこうおっかない感じの人だった。
それはさておき、みんな黙して語らないだけで、実は肥溜めに落っこちたことのあるヤツは結構いたのである。Tさんの専売特許ではない。肥溜めって、畳半畳ほどの四角い口がいくつも並んだ、コンクリートで囲われた近代的な(?)タイプはそれなりに地面からの高さもあって目立つのだけれど、昔ながらの地面に穴があいてるだけみたいなのは大抵畑と雑木林の間あたりにひっそりとある。夏場など雑草が被さるように生い茂り、おまけに晴天続きだったりするとその表面は乾いてカチカチに固まって分かりにくくなる。だから踏み抜いた話は結構聞いた。肥溜めにハマることが不可触賤民扱いの終身びびんちょの根拠ならば、それはTさん一人に帰せられるものではなかろう。案外それこそ、都市伝説並みに胡乱なTさんの噂をまことしやかにしたり顔で触れ回ってるガキ本人こそが落ちた当人かも知れなかった。
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彼女に対するみんなの忌避が父親のかかる職業への差別感情に少しも根差してなかった、と言えばぶっちゃけウソになる、とは思う。どれだけ道徳の時間とかに職業に貴賤はないなどと教えられようと、それがほとんど建前の綺麗事にすぎないことをガキ共は敏感に感じ取っていた。しかし、そんなややこしい話持ち出さずとも、根本的に彼女自身がかなりヘンな、ズレた子なのであった。
ある日の音楽の時間のことだ。小学校のときは音楽室ではなく、教室で授業があったが、もうとっくに始まってるっちゅうのに彼女の机の上には教科書が出ておらず、彼女は机の中をゴソゴソやってる。
------Tさん!・・・・・・とセンセ。
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------Tさん!どうしたの?教科書忘れた?
------・・・・・・・
まったく呼びかけも無視したまま、彼女は一心不乱に机の中を探し続ける。彼女の机の中がグチャグチャの人外魔境状態になっていることはみんな知っていた。ついでに言うなら机の下が塗りたくられた鼻クソでガビガビになってることもみんな知っていた(笑)。決していわれなきびびんちょではなかったワケやね。それはさておき、いくら人外魔境状態だからって大学ノートと同じ大きさの音楽の教科書を小さな机の抽斗から探すのにそんなに時間が掛かるのもおかしな話で、彼女にクラスの全員からの注目が集まる。
・・・・・・1分だったか2分だったか、それなりに長い時間が過ぎ、目的のものを見つけた彼女はいきなり大きな音を立てて洟をかんだのだった。
探していたのは教科書ではなくティッシュだったのである。教科書は忘れて来てたようだった。まぁ、洟垂らしたままでなくなった分、彼女なりにはちょっと進歩であったのかも知れない。
教室は大爆笑だったが、本人は涼しい顔である。無論それは気にしてないからではなく、何で自分が笑われてるのかまったく分かってないからだった。いや、そもそも笑いの対象が自分であることも分かってなかったのかも知れない。
教室で失禁するくらいではそれが特別のエピソードにならないくらいのスゴい子ではあったが、どうやらヘンなのは彼女の家そのものだった。他人の家の食事をどうこう言うのは宜しくないってことを百も承知で敢えて書かせてもらうけど、持ってくるお弁当が比類なき凄まじさだったのである。3年生になると時間割が延びる。以前も書いたと思うが、集団給食が始まったのは3年生の半ばくらいだったので、それまでの数ヶ月間、おれたちは弁当持参だった。
まず何より弁当箱が凄い。大きくて四角い薄金色のアルマイトのレトロな弁当箱。明らかにサイズも見た目も大人用なのである。それが新聞紙に包まっている。昭和40年代とはいえ終わり近く、どんなに貧しい家の子でもさすがそんなのはなかった。
そいでもって中身がこれまた凄い。なんと言えばよいのか、アヴァンギャルドなのである。隙間なくギチギチに詰め込まれた白飯が長辺の約3/4まで詰め込まれており、残りの部分にポカンと半分に切っただけと思われる真っ赤な蒲鉾と真っ黄色な玉子焼。それらが切れ目も何にもなく塊のまま押し込まれている。そしてこれまたフィルム剥がして半分に切っただけと思われる真っ黒い羊羹がメシの中央に埋もれてる。それだけ。ゴマも梅干も海苔も、ちょっと佃煮付けるとかの小技も一切なし。白と赤と黄色と黒がシンメトリカルっちゅうか、直線状に配置されてるだけだ。漢のメシでもこんな弁当作らないだろう。
さらに恐ろしいことに、大体いつでも構成はそれなのである。たまに赤板が白板や竹輪に替わったり、玉子焼きがこれまたすし詰めの赤いウィンナーやフランクに替わったり、はたまた輪切りのミカンがメシに埋まってるなんてこともあったが、白飯ギチギチの直線基調は概ね変わらず、弁当としては恐ろしく異様で殺風景なヴィジュアルであった。後年に至って初めてモンドリアンの有名な「コンポジション」って作品を見たとき、おれは「あっ!Tさんの弁当みたいだ!」と思ったものだ(笑)。
それをおそらくは拵えていたであろうお母さん、ってーのも授業参観等で何度か見かけたが、これまた強烈に怪しい人だった。パッと見た目的には一言で言えば「戦前の百姓のお婆さん」とでも言えば良いのか、くすんだ色のモンペみたいなの履いて、ボサボサ頭。年齢はそれほど行ってない筈なのにひどく年寄りじみてヨタヨタしてて、化粧っ気のない顔にどこ見てるか分からない宙に浮いた視線でいつも奇妙な薄笑いを浮かべている。有り体に言うのは憚られるが、ちょっと壊れた系の乞食や浮浪者のように思えた・・・・・・ってーかあるいは本当に少し障碍あったのかもしれない。
彼女と一緒のクラスだったのは4年生までの2年間だったが、めでたく小学校卒業の運びとなったときにまたもやTさんは楽しいことをやってくれた。
体育館におれたちは勢揃いし、厳粛な調子でプログラムが始まる。みんな緊張の面持ちで静まり返った中、校歌斉唱や校長先生の祝辞と代表の答辞、卒業証書授与等の式次第が滞りなく進行して行く・・・・・・と、突然そこで感極まって大声でワンワン泣き出した女の子が一人。言うまでもなくTさんである。
・・・・・・え!?美しい話ぢゃないか、って!?いや、たしかに卒業式の本番でならとてもいい話だろう。もっかい文章を良く読んで欲しい。おれは卒業式とは一言も書いていない。厳粛な調子で行われていたのは実際の日に先立つことおよそ1週間、その予行演習だったのである。リハーサルっちゅうやっちゃね。会場は一瞬のドン引きの後、もう全員大爆笑。予行演習はそれで緊張の糸が切れて一気にグダグダになったのだった。
ところが、リハではあれほど泣いたくせに肝心の卒業式本番の当日、彼女はケロッというよりはいつものようにボーッとしていた。一体何だったんだろ?ひょっとしたら泣いたのは卒業で万感の思いが胸に去来したためではなかったのかもしれない。
中学も一緒の中学に進んだ。その3年間ではついぞ同じクラスになることはなかったものの、あの比類なきシュールな弁当の芸風は相変わらずだったようで、「Tさん弁当」と名付けられて学年中に鳴り響いていた。板チョコがメシの上に載っかってたといった話も、飯の中にめり込んだ練り羊羹の塊を実見した立場からすればあながちデマではないような気がする。
唯一の救いといえば、彼女はみんなからまったく相手にされないだけで、暴力を振るわれたり、靴隠されたり、教科書ドブに捨てられたりなんて直接的な攻撃はおれの知る限り一切なかったことだろう・・・・・・ってーか、みんな直接彼女に触れるようなことするのがたまらなく嫌だっただけだからかも知れない。
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面白おかしく書いたけど、Tさんちが別に極貧に喘いでる、とかそんなんではなかったと思う。南海高野線沿いに細長く広がる昔からの地付の村に彼女の家はあって、その苗字もその村での古くからの一統に多いものだった。まぁ、豪壮ではないにせよそこそこの旧家、ってヤツだ。
畢竟、彼女は親の無知と無教養、そして何よりそれらがもたらす世間知とか常識への無関心・・・・・・言い換えるならば、自分が「普通」からどれだけ外れているかって不安や猜疑の欠如の犠牲者だったのではないか?って気が今はしてる。マスメディアが発達し、方言さえもが消滅しそうな勢いでいろんな風俗、風習、文化が均質化してる今の状況を前にして、そんなん信じられん、っちゅう方がいらっしゃるかもしれないが、それは貴方がなんのかんので世間知や常識に恵まれた環境にいるから信じられないだけである。空恐ろしくなるくらい世間の標準からズレながら、それに対しておめでたいまでに無自覚な家っちゅうのは、実は未だにけっこうあったりする。何も鳥も通わぬ山の中に住んだりするばかりが世間との隔絶とは限らない。そうしてそこで今の常識からするとこれまた信じがたいような、あまりに滑稽かつ陰惨な事件が起きたりする。Tさんちはそれと似たようなケースだったんかな?と。
その後の彼女の消息については良く知らない。ちょうどおれが就職した後くらいだったか、実家に帰ると地獄耳のオカンから、Tさんが保険の外交で颯爽と闊歩してるなんて話を聞かされたことがあるが、真偽のほどは不明だ。同い年だから、存命ならば今はもう50にも手が届こうかって歳になっている。子供どころかひょっとしたら孫がいたってもうおかしくはない年齢である。
ともあれ今でもあのアヴァンギャルドな弁当が綿々と継承されてたらちょと怖いかも。 |
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2009.01,17 |
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