駅という喪われた光景 |

タブレット受けにタブレットが投げ込まれ、新しいのを引っ掛けて取る。
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http://blogs.yahoo.co.jp/twkdal、http://www2.u-netsurf.ne.jp/~tetumiya/より
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只見線を最後に、JRの在来線からついにタブレットが廃止になったらしい。つい最近まであちこちで見かけたように思うが、いつの間にか淘汰は進んでたのだ。
タブレットっちゅうのは単線区間で列車が正面衝突しないよう、交換設備のある駅と駅の間の区間(これを閉塞区間と呼ぶ)を1つの単位として、列車がそこを走ることのできる通行証として持たせる真鍮の丸いプレートのことである。真ん中に丸やら四角やら三角の穴が開いてて、運転士はそれがその区間のものであるかどうかを絶えず列車に積まれた対応表と読み合わせながら走って行くのだ。思えばムチャクチャにプリミティヴな仕組みである。
閉塞区間の端となる駅にはこれを吐き出す機械があった。赤く塗られてベルとたしか受話器の付いた大きくて古風な箱で、ホームに面した駅事務所の壁が一部分飛び出しており、そのスペースにコイツが鎮座してるのである。列車が来る前になるとベルがチン、チンと断続的に鳴り出すのが何だかとても面白く思えて、ガキのおれは飽きずに眺めてたものだ。仕組みは何だか良く分からなかったが、タブレットはその中からうやうやしく駅員さんが取り出して、大きな輪っかに付いた皮のケースに仕舞われるのだった。
停まる列車だと駅員と運転士でそれが交換される。通過する列車だと、ホームの端っこにあるタブレット受渡器というのにセットされる。走ってきた列車は持ってるタブレットを蚊取り線香を伸ばしたような形の受け器に投げ込む。まるでも何も、輪投げである。そいでもって運転席の窓の下に付いたタブレットキャッチャーという棒を伸ばして、渡し器の棒の先にセットされたのを引っ掛けて行く。まぁ、乱暴っちゃ乱暴なやり方だ。ずっと昔は腕を伸ばして取ってたらしい。
・・・・・・鉄道が輸送の主体でなくなり、駅が荒廃したり、或いは線路そのものがなくなるようになって、もうずいぶんになる。やはりピークは昭和59年の全国的な廃線ラッシュだったが、そのはるか以前からローカル線の駅は駅としての使命を終えたところが多くなっていた。
今日は、そんなローカル線の駅を成り立たせていたさまざまなものを思い出してみたい。
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まずは何てたって駅舎だろう。正しくは駅本屋と呼ぶらしいが、これさえも今は潰されてしまったところが多い。ひどいのになると昔の貨物列車の車掌車(正しくは緩急車)の車輪を抜いたのが待合室としてポンと置いてあったりする。そりゃまぁ鉄でできてて頑丈なのかも知れないが要はただのスクラップである。見てて何だかとても寒々しい。
本来的な駅舎とはタール塗りの羽目板と白壁でできたわりとどの駅も似通った形のもので、車寄せの付いた入り口を通ると待合室があり、優雅な曲線を描く木製のベンチが何脚か据えられ、切符の窓口がある。窓口の卓に当たる部分は立派な石造りになってるのが普通だった。手を差し入れたり荷物置いたりで、すり減りやすかったからだろう。そういや、子供のころ行ってた町医者の窓口も同じように石でできていたっけ。小手荷物の預かり窓口なんかもあった。上に掛かる運賃表にはどうしたことか東京とか名古屋とか、ひどく遠方の駅がいくつか載っているのが常だった。まぁ高速バスなんかもなく、飛行機なんて庶民にとっちゃ高嶺の花だったから、遠方に出かけるには汽車しかなかったのである。スポンサー名が金文字で入った柱時計、疎らな間隔での時刻表、次の列車の案内板、琺瑯看板、タクシーやハイヤーの案内、黒板、これまたスポンサー名が金文字で入った鏡、薄緑に塗られた鋳物の灰皿・・・・・・殺風景なようで思い起こせば結構いろんなものが中にはあった。
ちなみに建物の横にも木戸みたいなのがあって小手荷物類はそこから出し入れしてたように思う。当然、荷物は重さを計るから古風な分銅秤がその近くにあり、リヤカーなんかが置かれたりもしていた。コンクリートでできた防火水槽もこの辺りに置かれていた。
窓口の奥は事務所になってて、件のタブレットの機械なんかも見える。概して調度類は古風で、木の机なんかもまだまだ残ってた。さらに奥はどうなってたんだろう?多分、更衣室や宿直室、炊事場、風呂とかがくっ付いてたんだと思うが良く分からない。
トイレ・・・・・・っちゅうよりやはり便所、と呼んだ方がそれらしいが、これは離れになっててホームからも外からも入れるようになってたと思う。特に男女の別もなく、とにかく暗くて臭かったことだけは覚えてる。駅舎と便所の間付近には転轍小屋、なんてのもあった。幅1間ほどで三方を壁に囲まれた片流れの屋根の小さな建物だ。中には大人の背の高さくらいある大きな梃子が何本か並んでて、それを駅員さんが全身の力を込めてガチャンと引っ張るとポイントが切り替わり、遠くの腕木信号機がクタッと下がるのだ。いや、上がったのかな?その辺はもうハッキリとは覚えていない。他にも小さな小屋や詰所の類は構内に意外に沢山あった。
転轍小屋の前のホームの下からは何本もワイヤーが伸びていた。無線もヘチマもない。物理的に遠くまで伸びたワイヤー引っ張って動かしてたのである。そりゃ重かっただろう。
ホームには駅舎から差掛け屋根が伸びており、大きな駅になるほどこれは立派だったが、小さい駅では建物分の長さしかなかったし、張り出しも短かったように思う。おれは見上げる裏側の寄木細工のような柱の組み合わせを見るのが好きだった。事務所からの出口あたりには掃除に使う荒神箒やチリトリ、バケツに雑巾、時にはネコ車なんかも置かれてあった。改札が始まって向こう側のホームに渡るには、駅員さんが鉄の蓋をスライドさせると階段が現れるのでそこを通って行く。昔のホームはやたらと低く、階段ったって3段くらいしかなかった。もっと短いホームだと端っこのスロープを降りて向こうに渡る。
ちょっと列車本数の多い路線になると跨線橋があった。今の橋上駅の大きな階段を想像してはいけない。せいぜい幅が1間半ほどで、中は暗く、窓は高い位置にあって、子供の背丈では列車を見下ろすことはできなかった。たぶん、橋が作られた汽車の時代は煙が入って来るもんだから、窓は明かり取り程度に考えられてたのだろう。暗さといえば跨線橋だけでなく、屋根の下は現代に比べてどこも薄暗かった。今ほど照明も電飾看板もたくさんついてなかったし、汽車の煙で燻されたり、煤が付いたりして黒ずんでたからだと思う。とにかく大きな駅、都会に近い駅ほど薄暗かったような印象がある。
急行が停まるくらいの大きな駅になると線路の数も多くて、貨車や客車、切り離したジーゼルカーなんかが一杯停まっており、さらには遠くの方に車庫やずんぐりしたトンガリ屋根の給水塔、ターンテーブルなんかが望まれることもあった。何かそういうのが見れると得したような気持になったものだが、それらの多くも既に使われなくなっているところが多かったように思う。実際に汽車が煙を上げてそんな場所に停まってるのを見たなんてどうだろう?奈良とか木津、加茂くらいかも知れない。
これくらい大きな駅になると、線路渡ったホームにもちゃんとした待合室があったし、立ち食い饂飩だとか駅弁だとか、売店が設けられてることもあった。さらにもっと大きな駅になると荷物を隣のホームに送るテルハがあったが、これはもう県庁所在地クラスの規模の駅である。荷物と言えば、ホームとホームの間、本線に直角にレールが敷かれてあって、ホームの一部が切欠きになったトコにぴったりはめ込まれた台車を押して線路を渡って行く仕掛けもたまに見かけた。
白くペンキで塗られた駅名表も、その隣の名所案内も木製だった。凝り性の駅員さんのいるトコだとその周りが綺麗に花壇にされてることもあった。ホームで舗装されてるのは駅舎周辺のごく一部分で、大半は砂利敷きになっていたと思う。線路のバラスが古くなったのを使ってたのかも知れないが、何となくこの砂利も錆色になっていた。もちろん白線も、さらにその内側の黄色い線なんかもなくて、実にアッサリしたものだった。
並ぶタール塗りの電柱には小さな傘の電灯がぶら下がり、青い琺瑯にひらがなで駅名が掛かれたプレートが打ち付けられていることもあったような気がする。そして通過列車のある駅なら突端には件のタブレット受渡器が立ってた。非電化で架線なんてないからあくまで空は広かった。
線路は鉄錆で真っ赤に染まり、何がそんなに積もったのか路盤は粘土状にゴテゴテに固まっていることが多かった。それはおれが見た風景がローカルとはいえ、近畿周辺のまだそれなりに列車本数が多い路線だったからかも知れない。
ホームの端の方にはたいてい貨物ホームがあった。1線もしくは2線が行き止まりになっている。そうそう、貨物ホームの方が旅客ホームより背が高かった。荷物が投げ上げ投げ下ろしにならないよう、貨車のドアとツライチになるように高く取ってあったのだと思う。正しくは貨物上屋と呼ぶがらんどうの意外に大きな建物があって、高さは駅舎よりも高いくらいだった。
実際そこにいろんな荷物が置かれてるのを見たのはもうずいぶん昔だ。ある程度意識的に鉄道を見るようになったころには、近畿圏では既に貨物が全廃されてしまってたところが多く、ほとんどが自転車置き場になったり、駅員の駐車場になったりしていた。
少し大きい駅になると、貨物の線路に貨車を真横に移動させる装置が付いてたり、貨車ごと重さを計る秤が付いてたりもしたが、どれもがもう使われなくなって長い時間が過ぎているように思えた。貨車が勝手に転がって行くのを止めるための線路を跨ぐこれまた白いペンキで塗られた木の棒なんかもあったけど、多くは腐ってボロボロになっていたし、枕木は白っ茶けてスカスカになり、バラスの間からはペンペン草が生えていた。まぁ、本線ではないから元々そんなんだったのかも知れない。
貨物線がそのまま伸びて近所の工場の中に引き込まれてるのもけっこう見かけた。どれだけ毎日出入りがあったのかは良く分からないが、貨車が並んでるところもあったので、まだまだ現役の引込線もあったのだろう。子供心にも何だかのんびりしてるなぁ〜、という雰囲気があった。
駅前については大体どこも似たり寄ったりで、集落のど真ん中に駅があるようなケースは珍しく、たいていは集落からちょっと離れた寂しいところにあって、ロータリー替わりなのか正面には大きな木が植わってることが多かった。あとは貨物ホームの近くにモルタル造りの日通の事務所、「麺類・丼一式」なんて書かれた看板の駅前食堂、煙草屋兼駄菓子屋軒雑貨屋みたいなんにはたいてい7UPの看板、駅前旅館、山あいだと材木屋があったりもした。貨物とは反対側辺りにバスかタクシーの車庫と小さな営業所・・・・・・駅の規模によってこれらは異なってたけれど大体そんなトコだろうか。そうそう、クリーム色で赤い屋根の電話ボックスなんかはちょっと大きい駅前には欠かせないものだった。
改札が始まり、しばらくすると彼方から列車が近付いてくる。夏だとそれは陽炎に揺らいでいた。櫛比するカラフルな建売住宅もなく、カラー瓦なんて普及しておらず、民家の屋根は黒瓦か藁葺きだったし、自家用車もそんなに走ってなかったし、沿道に派手な野立て看板も賑やかなファミレス、コンビニなんてモンもなくて、今より遥かに風景はモノトーンに近い、地味でくすんだものだった。だからジーゼルカーの塗り分けは遠くからでも良く目立った。ああ、そぉいやジーゼルカーって汽車ほどではないにせよけっこう黒煙を屋根から吹き上げてたな。
それに今は本当に列車は短くなってしまい、本線クラスでも2両とか3両しか繋がってないけど、当時の列車は無闇に長かった。機関車が牽く客車なら10両前後、ジーゼルでも5〜6両は繋がってた。つまりは今より威風堂々としていたのである。
みんな過去の風景だ。何より消えたのは人の姿だ。駅員も乗客も、みんなみんな消えてしまった。
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・・・・・・と、ここまでへべれけになって調子よく書きトバして、そして読み返して少しばかりゾッとした。以前に書いた「昭和30年代のポートフォリオ」と内容ほとんど一緒やん。ステロタイプ化された記憶。
幼かったおれは本当に全てを実際にこの目で見たのだろうか?手当たり次第に読んでいた鉄道関係の本に収められた数多くの画像、或いはその後、長じてから見た残骸のような光景を元に、おれはいつしか記憶の修正と捏造と美化を行っているのではないのか?そんな不安に襲われたのである。以前に書いたものでも「忘却は記憶は美化する」、って自分自身で書いてるやん。
映画「タイタニック」のラストで、海に沈んだタイタニックの、朽ち果てて今は海底の泥に覆われたダンスホールみたいなとこが、華やかにみんなが踊りに興じる過去にロールバックして行くシーンがあったけど、同じようなことを脳内でやってるのではないかという不安。それは年寄りが良くやらかすことだ。
確かに記憶はある、いや、あるような気がする。しかしそれが真正な事実だったのか?どこのどの駅でいつ見たのか?と問われるとあやふやな部分が多分に出て来る。ところがそれを確かめる術は今では何も残っていない。鉄道がそれでもまだ何とか輸送の主体だったのは70年代初頭までのことだ。今は遥か昔、もう40年も前のことになってしまってるのである。
気付くとPCの前でひどく物憂く、昏い眼をしていた。
・・・・・・タブレット発行器がチンチン鳴り出す。改札が始まる。列車がポチッと遠くに見え、だんだんと近付いてくる。幼かったおれは目を輝かせ、すべての光景を見落とすまいとしている。車両の真ん中あたりにぶら下げられた横長の行先表示板。低いホーム、列車の中もステップで1段か2段上がるようになってたっけ。狭い通路、ちょっと色褪せた紺色のビロードの背もたれのボックスシート、座席番号の札、固いようでブカブカしたヘンな座り心地の座面、窓の下に取り付けられた灰皿、JNRのロゴ、薄緑色に塗られた室内、木の床・・・・・・列車は動き出す。勇ましいエンジンの音の割に加速は電車とは比較にならぬくらいに悪い。草生した長く伸びた側線が途切れ、駅外れの踏切を過ぎたあたりからようやくスピードは乗り始める。動きの渋い窓を一生懸命押し上げる。窓枠はジーゼルの排煙か煙草の脂のせいか、それとも錆のせいか焦げ茶色に染まる。タタンタタンと規則的なレールの継ぎ目を渡る音、加速が終わって惰行状態になるのか急に静かになる車内、運転席の近くだと次の駅が迫るとベルが鳴って、チャイムみたいなのがキンコンキンコン鳴るのが聞こえる。ホームにはタブレットを持った駅員さんの姿が見える・・・・・・。
タブレット廃止・・・・・・ともあれまた一つ、過去の記憶を繋ぐ事物が消えた。 |
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2012.09.30 |
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----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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