「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
折り紙のこと


折り紙の金字塔と言われる「悪魔」、指先まで鋏を一切使ってないそうです。

 前回のおおむね続き、っちゅうかカラーブックスつながりな話だ。

 ホンッと昔のことを思い出すと、何一つ娯楽のない家で育ったもんだなぁ〜、とつくづく思う。多分一生思うだろうから、さしたる苦労も知らずノー天気なおれとしてはささやかなトラウマと言えるだろう。

 娯楽とは辞書によると要は「時間つぶしの愉しみ」のことなんだけど、まったくそのようなものを子供から遠ざけ、小難しい顔して勉強さえさせておればエラい人なるだろう、な〜んてあまりに横着で知性の欠片も無い了見だ。そりゃもちろん、娯楽ばっかでボーッと時間ツブすだけではお話にならない。バランスが肝要であって、それが全く欠落したままでは色々な問題の種を子供に植え付けることになる・・・・・・おれみたいに。

 実は娯楽の多寡そのものはどうでも良かったりする。かつての貧しい寒村において、言うまでもなく娯楽は今の時代と比較すれば乏しかった。しかし、みんな平等に乏しかったのである。だからそれはそれでバランスが取れていた。また、かつての寒村に今のような娯楽は乏しかったかもしれないが、それを埋め合わせてなお余りある、夜這いに代表される性的放埓が村にはあふれていた・・・・・・っちゅうのはこの前ちょっと触れたね。ああ、脱線脱線。
 つまり量の大小や中身なんて相対的なもんなんである。ヤマギシズムの村では幹部がファミレスで食事するのが最高の贅沢でみんなから羨ましがられる、って話を読んだことがあるが、所詮、価値なんてそんなもんだ。「誰それクンも買ってもらってるのにぃ〜!」は子供の駄々の常套句だけど、あれは本質を衝いている。

 みんなには多少なりとも「ある」のに自分にはまったく「ない」っちゅう断絶が、そしてそれが経済的なものならまだしも、「教育方針」なんて美辞麗句の下の親の無知とエゴによる「ない」であるって事実を思い知らされることこそが、子供の人格形成に暗い翳を落とすのだ。
 おれがまさにそうだった。我が家はさほど豊かではなかったとはいえ、その日の食い物に困るような絵にも話もならない貧乏ではなかった。現にそれが情操だか知育だか何だか知らないけれど、「エラくなる」ことの助けになりそうなら、レゴやらHOゲージやら当時は破格の値がしたご大層なモノを買って来るほどの余裕はあったのだから。
 当時、子供たちに大人気だったプロ野球ゲーム盤や人生ゲーム、そのどちらかだけでいいから家にあればどんなにか面白いだろう、近所のおともだちを家に呼んでいっしょに愉しく過ごせるだろう・・・・・・結局、娯楽が何もないっちゅうのは、そのうち嘆きを通り越して、狭量で唐変木な父親への呪詛につながった。まぁ、とんだ知育もあったもんである。

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 ・・・・・・で、折り紙。

 これはどうやら「手先を器用にし、創造力や抽象化力を養う」ってことで家ではOKだった。おれも今、改めて文字に起こしてみて、まっことアホちゃうやろか?と思うが、どぉぢようもなく事実なのだから仕方ない。それならあやとりだってリリアンだってOKではないのか?
 それでも百歩譲って、手先を器用にする効能は認めてもいいかも知れない。紙半分に折るのだって、慣れないうちは綺麗にできない。最初に大きく4ツ折りとかにするんだっていい加減にやっちゃうと後で困るから、器用さだけでなく緻密さもちょっとくらいは養われると控えめに言って構わないだろう。しかし、想像力や抽象化力なんてアータ、お手本見ながらその通りに作るだけではこれっぽっちも育たないのは自明のことだ。
 元はと言えば要は、偶然買ったそれこそカラーブックスの河合豊彰の1冊を読んで、大半はその受け売りでペダンティックに能書きくっつけただけなのである。どだいそもそもなんで折り紙か?と言えば、なんのことはない、金も大してかからず、大掛かりな道具も不要で場所も取らないからだ。吝嗇を理論武装したって底が浅いっちゅうねん。

 そぉいやこの河合豊彰さん、ホントかどうか分からないが、日本の創作折り紙の大家らしい。今も存命かどうか知らない。念のためにネットで調べてみたが、あまり情報が出てこない。ともあれ読み方はフツーに「とよあき」だってコトが判明した。それを暗愚で権威主義な彼は「ほうしょう」と読んでいた記憶がある。音読みで読めば何となく偉そうに見えるからだろう・・・・・・坊さんかよ(笑)。

 そんなこんなで家には折り紙の本が10冊近くあった。

 たしかに一枚の紙からいろいろな事物の似姿が立体的に作られて行くのは、歳食った今、客観的に眺めればそれなりに知的興味も湧くし、文化としても面白いと思う。しかし、遊びたい盛りのガキが家で一人でチンとそんなんやっても面白くもなんともないのはサルにだって分かるだろう。そもそも、これは本来的には一人で遊ぶものなのだ。せめて同好の士がおれば出来栄えを競い合ったりすることもできようが、そんな奇特なガキが周囲におる筈も無く、父親に渋々付き合わされはするものの、それが何なんだよ?って思いを絶えず抱き続けていた。

 つまりこんなモン、娯楽でもなんでもなかった。まったく、全然、少しも。

 指先で小さな色とりどりの紙を折りながら、盛んに父親は折り紙が日本固有の文化であり、欧米人が不器用で、折り紙を見せると驚嘆するなんてことを自分のことのように得々と語るのだった。かように萎びたナショナリズムがないまぜになった中途半端なペダントリーほど醜怪なものは無い。
 たしかに欧米人が不器用なことの例えで、この折り紙や紐結びが引き合いに出されることは他でも聞いたことあるけど、そんなもん根も葉もないデマである。単に折り紙や紐結びの経験が無いからできないだけだ。全ての白人連中がもし本当に不器用ならば、機械式時計はあんなに発展しなかったろうし、楽器のヴァーチュオーゾは生まれなかったに違いない。

 そんなんで今イチ好きになれなかった折り紙だけど、一度だけ救われたことがある。小学校何年の時だったか、夏休みも終わりに近づき、これだけ教育熱心な親に恵まれたにもかかわらず、それをも遥かに凌駕する怠惰で何一つ片付けてなかった工作の宿題をこれでやっつけたのだ。何とゆう姑息なワザか、20個ほど折って菓子箱を綺麗に仕切って色を塗った所に貼り付けて、標本のようにしたのである。
 3時間くらいでいっちょ上がりだった。しかし、「標本」と言い切るにはかなりムリのある作品ではあった。何故なら、テーマが虫だけでは数が足りず、お面などもその中には含まれていたからである。

 とまれ現在、折り紙はもはや日本のお家芸と威張ってられる状況ではない。世界中に日夜研鑽に励んでシノギを削ってる作家がいくらでもいる。今や彼らはコンピュータ解析を駆使して折り紙を創り上げるらしい。ほとんど何だかもぉ幾何学の世界に行っちゃってるようである。

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 たとえどんな趣味であれ、自分がやりたいことはやればよい。それは余人がとやかく言うことではなかろう。止めはしない。
 今でも父親は手慰みに折り紙を折ることがあるらしく、帰省するたびに違うのが本棚のガラス戸に並べてあったりするのだが、それについておれは何も批判めいたものは感じない。好きなだけやりゃぁいい。
 チマチマしてるっちゃぁ、おれが一向に進歩しないギターを弾くのだって、最近熱中してるMIDIを打ち込むのだって、それにこんなサイトを作り続けてるのだって、同じくらい辛気臭い作業だ。

 全ては年端も行かぬガキに娯楽代わりに押し付けたことが悪いのであって、折り紙自体に罪は無い。色とりどりの整理された線からなる抽象的なフォルムは確かに美しいし、出来上がったものはちょっとした部屋のインテリアにもなったりもする。現に旅館などでは新客を迎える部屋の座布団に折鶴が置かれたりして演出に一役買ってたりするものだ・・・・・・って、おれにはいささかくどくて、あまり気の利いたものには思えないけど(笑)。試したことは無いが、飲み屋でそれこそ手慰みに披露すれば少しはウケるかも知れないし、何かのキッカケになるコトだってひょっとしたらあるだろう。
 ただおれはもう刷り込まれてしまった。頭ではそのように理解できたとしても、おれの中で折り紙は「普通の娯楽が与えられない」という呪縛の形代なのである。

 ・・・・・・ちょっと今回はクラかったっすね。


おらぁ〜こんなんの方が好きだな(「おとなのおりがみ」より)

2009.10.11

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