ウィークリー寿司屋 |

正式名称は「タレビン」。一杯作ると手にしみて痛かったりする・・・・・・。
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昔、学生がアルバイトをお手軽に探せる場所として学生相談所、通称「学相」っちゅうのがあった。たしか、東京・京都・大阪といった大都市圏にはたいていあったと思う。今は日本学生支援機構とかゆう独立行政法人になったみたいで、どうやらアルバイト紹介は止めてしまったみたいだ。
京都では百万遍の交差点を南西に入ったあたりにあった。朝、ワラワラと職を探して集まってる学生を掻き分けるようにして、職員が黒板にその日限りのド短期のバイトを書いていく。これは期間は短いけれど時給が好条件のものが多いので人気はもっぱらそこに集中し、希望者はハイハイハイハイと大声で手を上げる。希望者が定員を上回るとジャンケンだ。勝ったか負けたかが天国と地獄の分かれ目、ってコトにもなるからみんな目が血走って必死だった。
そこまで急ぎのワンショットでないバイトについては、B6くらい大きさの求人票が一面に壁に張られてあって、希望番号を窓口に申し出るシシテムになってたと思う。中には札付きの劣悪なところがあって、そのようなのには「死ね!」「最低!」「つぶれてしまえ!」などと落書きされたり、用紙そのものが剥がされたりといった仕打ちを受けていた。有名なのでは、清水寺の参道に立ち並ぶ土産物屋の一つなんかがあったのも今では懐かしく思い出される。
・・・・・・とワケ知り顔に書いてはみたものの、おれはさほど熱心に学相詣でをした方ではない。6年間で紹介を受けたのは10回にも満たないから、むしろ滅多に行かなかった、と言った方が正しい。いや、ああして並んでその日暮らしの仕事に一喜一憂するのがめんどくさかったのと、何より毎日大酒飲んで昼過ぎまで寝てたので、起きる時間にはおいしいのんの紹介は終わってしまってたのだ。
マクラが長くなった。今回はそんな数少ない学相バイトで、なぜかそのままそこに居ついてしまった寿司屋の思い出話だ。
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今出川通に面した、上がマンション・1階がスーパーとなった建物の入り口付近に、その店はあった。周囲は古い西陣の町だ。
たしか募集条件は土日の2日間のみ、仕事内容は出前と洗い場補助、時間は朝の9時から晩の7時までで昼ごはんつき、時給は550円だったかな?すでに相場は600円前後も増えてきてた頃だから、特段条件がいい訳ではないけど、飲食店としてはまずまず平均的な方だったと思う。たまたまその土日が空いてたのと、ちょっと小銭が欲しかったので申し込んだのだった。
約束の日、約束の時間、おれは店を訪ねた。大将と若い板前が一人、2人だけでこじんまりやってる。大将は最上級の笑顔でおれを迎え入れてくれた。これまでなかなかアルバイトが見つからなかったのだろう。
寿司飯の仕込みは上のマンションの自宅で行ってるらしく、まずは手押し車押してエレベータでお櫃を取りに行かされる。温厚でどちらかといえばのっぺりした顔の主人とは対照的に、水商売メイクでキツい顔立ちな、いわゆる「小股の切れ上がった」美人の女将さんが飯を準備して家で待っていた。店内はカウンターが6席ほどと、4人がけのテーブルが5つ6つ、そんなに広くはない。
酒屋での出前経験があったから、旧市内の通り名や、狭くややこしい一方通行についておれは知悉している。カブの運転だってお手の物だ。おれは何の苦もなくスシの出前も桶の回収もこなすことができた。大将は詳細な道案内をせずともサカサカと行って戻ってくるおれに驚嘆している。
大体飲食業の一日は決まっている。昼食時に合わせて出前があり、午後に昨日の容器の回収と夕方以降の仕込み、再び夕方から出前、で一日が終わる。その店もそうして一日が過ぎて、7時になった。
顔には出さなかったが、おれは美味しいバイトを見つけたことに気づいていた・・・・・・っちゅうか、そもそも何でバイトを雇わんといかんのか理解できないほどに、その寿司屋は閑古鳥が鳴いてるのである。終日、注意深く観察してたが、店内で食事をした人は一人もいなかった。持ち帰りの窓口で買って帰った人もほとんどいなかった。何でそんなにジックリ観察できたのか?答えはカンタンだ。出前の注文もほとんどなかったのだ。一日の大半を、おれは板場の隅の丸イスに腰掛けて本読んで過ごした。
まぁ、明日は日曜やしなぁ〜、今日はたまたまヒマやっただけかもしれんしなぁ〜・・・・・・でも、その割には回収した寿司桶も少なかったな・・・・・・あ、それは昨日が金曜で平日だからか、などとあれこれ考えながらその日は下宿に帰って、次の日。
・・・・・・同じようにヒマだった(笑)。
これぢゃ素人目にもバイト雇ったのは失敗だ。ともあれめでたく約束の期間は終わった。2日分の給料を受け取りながら帰ろうとした時、大将が意外なことを言ったのである。
------**クン、もし空いてたら来週も来れたりせぇへんやろか?いや、ムリにとは言わんねんけど・・・・・・。
------え!?(こんなにヒマやのに、とは口が裂けても言えない、笑)は、まぁ大丈夫ですけど。
------わぁ〜、ホンマありがたいわ。おーきにおーきになぁ〜!
おれが経営者なら、この営業状態だとムリしてでも人件費圧縮するけどな〜、なんかそのうち裏家業でもやらされたりして、などと正直そのときは思ったものだ。
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こうしてなし崩し的におれは寿司屋の定期バイトとなったワケだが、翌週も、そのまた翌週も、店はやはりヒマだった(笑)。
わずかな出前とその分だけの回収。そして皿洗い。店売りは本当に少ない。たま〜に年寄りがチョロチョロっと巻物を買って帰る程度で、店内で食事をする人を見かけたことは多分1〜2度しかない。昼になると奥さんがちゃんとした昼ごはんを作って持ってきてくれる。いつもではないが売れ残った巻寿司や稲荷、細巻を持たせてくれることもあった。
何でおれが自分がここに雇われてるのか、何ゆえ店主は雇う必要を感じているのか、どうしても理解できなかった。
あまりに退屈なので、おれは他の仕事も志願し始めた。最初は金魚(出前や持ち帰りにつける醤油のプラ容器)に醤油詰めたり、「鉄芯」といってマグロの筋の部分の身をすき取って鉄火巻きの具材を仕込んだり、蒸した海老の皮をむしったりといった単純作業だったが、元々料理の勘はいい方なのだろう、だんだん高度なこともやらしてもらうようになってきた。
茶碗蒸しや赤だし、錦糸玉子作り、里芋の面取りしたり、南瓜や椎茸に飾り入れたりといった野菜の切り込み、海老以外の天ぷら揚げ・・・・・・気づけば板前見習いくらいになっていたのである。まぁ、それでも営業状態がそんなんだから、全然忙しさは感じなかったけど。
無論、それらは普段の日は若い板前の仕事である。職人肌で古風な人なら、自分の仕事の領域を侵されたと怒るところだろうが、スキー気違いの若い彼は根っからの遊び人で、自分の仕事が減ってラクになるのを喜んで何でも教えてくれたし、大層おれのことをかわいがってくれた。
おれは料理以外でもいろんなことを覚えた。配達メニューを空き家のポストに入れとくと着実に引っ越しの日の注文が入る、って話が本当であること。通夜の注文が入ると、儀礼にうるさい京都は丁寧にその後、初七日・ニ七日・三七日〜と七七・四十九日までやるもんだから、商売としては慶事の10倍くらいの旨みがあること・・・・・・あ!ゆうてる間にもう一周忌だ、みたいな(笑)。何年も前に遠くに引っ越したのに、今なお律儀に出前を頼んでくれる贔屓の客がいたりすること・・・・・・しかし桂までは10km以上あったから、ちょっと偏執狂な人だったのかも知れないな。ああ、これは書いとかなくっちゃ、出前にハダカで応対するようなヘンなオネーチャンはエロ本の中だけの話ではなく、実際に世の中に存在すること(笑)。
あるいは寿司ネタの大半は実は冷凍であること、ハマチだけはどんだけ工夫しても冷凍できないこと、逆にトロやウナギの蒲焼は脂が多いもんだから、何度冷凍・解凍繰り返しても素人には分からないこと・・・・・・こんなんバラしてエエんかいな(笑)。
結局、1年ほど毎週通って朝から晩まで目が回るほど忙しかったのは、近所の小学校での区民運動会とかで折り詰めの注文が700個も入った時と、正月の三が日だけ。この時はどんなツテで呼んだのか知らないが、近所の高校生の女の子が二人手伝いに来ていた。そぉいやぁそのうちの一人にちょっとホレられて、何かと誘われたなんてこともあったな・・・・・・おれはどうにも食指が動かなかったけど。
ホントのどかな、浮世離れした寿司屋ではあったが、終わりは呆気なくやってきた。店主が常勤の板前のボンを雇うことにしたのである。
店売りは相変わらずサッパリだったけど、メニューを配りに配りまくったのが効を奏したか、なるほど勤め始めた頃に較べて出前の件数は少しづつ改善されて来ていた。単価の高い会席料理の注文なんかが明らかに増えている。作成の手間はそれなりにかかるものの、こんなもん一人で食べる物好きが居るはずもなく、注文入れば最低でも10人前とかだ。したがってひじょうに売り上げには貢献する。まずもって出動することのなかった軽のワンボックスで持っていくことも増えた。いつの間にか土日にはおれに加えて件の女子高生のどちらかが常駐するようにもなっている。話を聞くと、このところは平日の夕方にも来る日があると言う。
・・・・・・と、それだけ聞くとまことにめでたい話なのだが、その内訳を冷静に分析してみれば、中長期的に見て決して明るいものではなかった。急速に高齢化が進行する西陣の町で、要するに弔事の出前が増えただけなのだ。いずれは間違いなく、これまで以上の沈滞の時期はやってくる。しかしそれでも、目の前の注文はサバいて行かなくちゃならない。それが現金商売ってモンだ。
秋の終わりのある日、おれは年内一杯での契約終了を告げられた。つまるところ体のいい解雇なんだけれども、仕方がない。
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ともあれあの好景気はやはり、街が衰えていく中での一時の徒花だったのだろう。
おれが辞めて何年後かは知らないが、結局、寿司屋は閉店した。もともとは洛北に大きな本店のある店だから、商売に見切りをつけただけで食い詰めたわけではないと思う。すでにおれは大学を卒業して大阪で働いていたのだが、久々に京都に出かけた折、偶然その近くを通って懐かしくなって前を通ったら、店のあった場所は空きテナントになってしまっていた。それどころか今では大元のスーパー自体なくなってしまった。そして、冒頭に書いたとおり学相も・・・・・・。
たった20年ほど前の話なのに、みんな、みんな、消えて無くなってしまった。 |
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2007.10.27 |
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----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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