油染みて黒ずんで、高さ2mほどもある、どこか怪物が胡坐をかいている姿を想像させるような、巨大な鋳物のも「エキセン」なら、昔の家庭用ミシンが少し大きくなったくらいの小さなものも「エキセン」だった。小さいとはいえやはり油染みて黒ずんでいた。
そこにはそんなのが大小5〜6台あったような気がする。今思えば型抜き機やプレス機、穿孔機といった機械の類だったが、どれも詰まるところ「エキセン」なのだった。
「エキセン」が動力の回転運動を上下の往復運動に変える軸を指す「エキセントリックカム」の略であると知ったのは、ネットで大概のことが検索できるようになったつい最近のことだ。機械の心臓部の名称が機械そのものの名前になっちゃってたワケだ。レシプロエンジンは往復運動を回転運動に変えるとはいえ、考え方は同じで、あらゆる機械の基本構造の一つといえるだろう。
ともあれ、母方の祖父母の家の奥に併設されてた工場の、それが風景だった。それらを使ってメダルやキーホルダーを作るのが家業だったのである。
昔の下町の自営業の家では一般的な、道路に面して引き戸が何枚も並んだ3間間口で、向って半分ちょっとが車庫兼荒荷置場になった細長い、クルマが縦列に2〜3台置けるほどの土間、残りがこれまた細長く奥に続く部屋となっており、手前から帳場、物置、茶の間となって一番奥が台所や風呂等。急な階段を上がった2階に寝起きする部屋は全てまとまっていた。けっこうたくさん部屋はあった。
土間を突き抜けたところが件の工場になっており、木造の吹き抜けで広さは30坪ほどあったと思う。さらに奥に抜けると日当たりの悪い中庭と、さまざまなモノの詰め込まれた大きな倉庫があった。裏通りにも2間ほどの出入り口があったので、大きな材料等はそっちから入れてたのだろう。
幅3cm、長さ1mほどの帯状に切られたピカピカ金色に光る真鍮の薄板を、まずは巨大な型抜き機兼プレス機に掛ける。形ができると同時にレリーフ状の意匠もできる。続いて鎖をつけるための穴あけ。このままだとしかし、切断面の角が立ってて危ないので、今度はそれを1個1個バフ掛けしてダリング。
こうして角を丸めたものを、金属片と全く同じ形に穴を空けた、ダンボールで作った短冊に1個1個ペチペチと嵌め、次はスプレーで吹き付け塗装だ。たいてい色は黒だったが、たまに赤とかもあった。塗装が完全に乾くとダンボールからはずし、板に何重にも布を巻いた、まるでアイロン台を小さくしたようなものをシンナーで湿らせた上で軽くこする。そうすると凸部は塗装がふき取られて金色の地肌が表れ、凹部には黒色が残る。あとはそれに蛇腹のチェーンとかをヤットコでつけて完成。干支の動物の絵柄の御守やスーツに付けるウールマーク、古銭のキーホルダーなんかが多かったように思う。
従事していたのは祖父を筆頭に息子や親戚のオバチャン・・・・・・典型的な零細中小企業の親族経営だ。母親も結婚するまではそこで働いていた。
たしかに今から思えば劣悪極まりない環境ではあった。最低限の蛍光灯が高い天井からぶら下がる薄暗くて狭い工場、何の安全装置も無いまま騒音を立てる機械類、、充満するシンナーの匂い・・・・・・ホンマ、文句言わん親戚ばっかしやから良かったようなもんだ。実際ケガもたまに起きていた。
ホント、一瞬遅れたら手や指がトバされたり、つぶされて無くなったりするような大きな危険性といつも隣り合わせだったのだが、幼いおれに分かるワケが無い。祖父の家に行くとおれは、バケモノのようなエキセンが強そうでカッコよく、真鍮版を入れる作業をやらせてくれろといつもせがむのだった。もちろん、もっとも危険なそれは決してやらせてはもらえず、せいぜいダンボールからの型抜きや塗料のふき取りでお茶を濁されていたけれど・・・・・・。
時は昭和40年代はじめ、戦後も遠くなりかけた頃の話である。
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昔のおれの実家にも小さいエキセンが一台あって、玄関を上がってすぐの2畳の板の間の脇、階段の下の三角になったスペースにそれは鎮座しており、母親が内職で使っていた。仕事はもっぱら、これまた零細なブリキ玩具工場を営む親類が持ってきてた。
ゴロンゴロンと単調で物憂い音を立て続けるエキセンを扱いながら、母親は延々と、祖父(すなわち己が父親)のメダル工場でのひどい仕打ちの記憶を、壊れたテープループのようにまだ小さいおれに語って聞かせるのだった。思い出したくもない記憶のはずなのに、それしか語るべき体験がないゆえに。あれほど忌み嫌った機械のはずなのに、それしか扱えるものがない機械を前に。
実際、その状況が今の感覚からすると過酷そのものだったのは間違いないと思われる。彼女を含め兄弟はみんなまだ小学校も卒業していなかった。終戦を迎えて一面焼け野原となった大阪に疎開先から戻ってきてまだいくらも経たない頃、まだ誰もが飢え、餓えていた。そんなところに中国から復員してきた祖父が事業を興し、朝早くから深夜まで労働力として従事させられたわけだから。学校にもマトモに通わせてもらえなかった、っちゅうのは決して誇張ではなく、おそらく事実だろう。
けだしそれは、戦後の混乱期には至極当たり前の光景でもあったと思われる。児童福祉法も労働基準法もヘチマもない。小賢しい建前なんぞ並べる余裕なんざどこにもない時代、とにかく働いて、稼いで、食って、人を出し抜いて生き延びて行かなくてはならなかったのだから。残念ながら決して勉強で、ハラはふくれない。それが残酷な現実だった。
だが、そのような状況が子供たちの心に傷を残すか残さないかと言えば、やはり残す。戦争帰りで死線をくぐってきた祖父は、生来の異様な行動力もあってガンガンに飛ばしまくったようだ。ましてや始めて最初の数年は、どうにかして商売を軌道に乗せなくてはならない。鬼のような形相で鉄拳制裁など日常茶飯事だった、っちゅうのも事実だろう。
おかげで事業そのものは堅調に拡大し、エキセンはフル稼働となり、やがて当人はたまの休みにカメラや釣りにウツツを抜かす余裕もできた。子供たちも食うに困ることだけは無かったというから、それなりにあの当時としては平均以上の生活水準を得ることができたのだろう。
だが、多感な時期にできあがった親子の深い断絶は、いつの頃からか引き返せないところまで行ってしまっていたようだ。
・・・・・・メダル工場はいつまでやってたのだろう?おそらく昭和40年代の終わりにはもう止めてた気がする。祖父に年金が支給され始め、その水準は現代の危機的状況からすれば大変おめでたいものだったから、働く必要がなくなったのだと思う。隠居したのだ。銀行預金やら株やらなんやら、それなりの蓄えもできていた。
エキセンは撤去され、工場だったスペースは数年の間、ガランドウになっていた。おれの家の小さなエキセンも富田林に引っ越す時点では消えていた。内職を止めたのだ。
もう、そんな零細な製造業が日本国内で生き残って行ける時代でもなくなりつつあった。
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昨年、祖父は亡くなったらしい。「らしい」というのは、信じられないことにおれの実家に何の連絡も来なかったからだ。おれの実家だけではない。どこにも、訃報は無かった。ホント、驚くべき話だ。
長男(つまりおれから見れば母方の叔父)一家が彼を引き取って同居してたはずが、いつの間にか老人ホームに放り込まれ、そしてそこで亡くなったみたいだ・・・・・・ってなことを、偶然別の親戚が聞きつけて、真偽を確認しようとしたときには、すでに元の工場部分の土地は処分され、長男一家は行先も告げずに引っ越した後だったのだ。葬儀がどのように営まれたのか、いや、そもそも葬儀自体の有無さえ不明である。
要は死を隠してまで、遺産の独り占めをしたかったわけだろう。何故そこまでしたのか?・・・・・・表側半分、元の家にあたる部分の土地建物がその数年前、次男一家に極めて巧妙に名義を書き換えられてしまっていたからだ。元の工場にあたる裏の残り半分をどうしても手に入れたかったのだ。まぁ、下町ではあるが、そこそこの広さもあり、捨て値で売っても4〜5千万の価値はあったはずだし。
いつからをその人の晩年と呼ぶのかは知らないが、最期の10年余り、祖父は悲惨極まりない人生を送った。
妻に先立たれた後、元々の住居部分を建て替えて3世帯住宅とし、同じような商売を営む次男一家と同居していたのが、そうして名義が書き換わったとたんに家を追われた。つまり老後の面倒を見るって甘言に乗せられて、財産を巻き上げられたのである。
90歳にもなって祖父は家なしとなり、残った裏の土地を餌に、彼は他の子供たちに哀れげに同居を懇願して回った。そこまでして子供に面倒見てもらわなくとも、土地を処分して老人ホームに入った方がなんぼかマシではないかとも思うが、老残の孤独はどうしてもその判断をさせなかったのだろう。
おれの実家にも来たそうな。法律的に言えば、他家に嫁いだとはいえ、母親にも財産請求権や相続権があるワケだし、道義的に面倒見ることはあったっていい。ところが、いつもはその浅薄なペダントリーが鼻についてうっとおしい父親が、この時だけはひどくクールでスマートな判断をした。一切、この蝮の群れのような連中のややこしい問題に、家として首を突っ込ませなかったのだ。「親の面倒を見るのは男兄弟の責任でしょ」と。まぁ母親にしても、過去の搾取への恨みつらみが無ければ、もっと本気で父を説得していたろう。
長男一家は、っちゅうと、何十年も前のはるかずーっと以前から、その家や祖父に距離を置いてたし(だからこそ祖父は次男と同居したワケだ)、次男の篭絡以来ますます疎遠になってたのだけれども、おそらく余命も考慮に入れつつ、彼を引き取ったに違いない。そうすれば筋も立ち、外聞も良い。無論、土地の評価額はしたたかに確認してたに違いない。
ともあれ、彼らの取った行動は、金に目が眩んだというのも大いにあるだろうが、やはり「復讐」だったように思う。
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暗い工場の中で大小のエキセンが回り、小さなメダルが溜まっていき、その分だけ財も蓄えられていった。
しかし同時に、血族のルサンチマンも蓄えられていった。
何年も、何年も、何年も、何年も、何年も、何年も。
そういうことだ。
工場のあったあの土地がどうなったか知らないが、おれは今、主をなくしたエキセンの幽霊がそこで未だに回り続けているのではないかという、いささか沈鬱で奇怪な幻想に囚われている。 |