郷愁、アーケード・・・・・・源ヶ橋商店街界隈の記憶 |

現在の東側入口
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公式HP(http://www.mydo.or.jp/ikuno/)より
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天神橋筋商店街に代表されるように大阪はアーケードの町で、あちこちにある。
狭い通りをはさむ昔ながらの商店街への買い物客の利便を図って、通り全体に天井をつけたのを「アーケード」っちゅうけど、そこに活気があふれてたのは、一部の例外を除くと昭和40年代半ば過ぎくらいまでのことではないだろうか。
スーパーが一般化し、さらにモータリゼーションの波に乗ってそれらが郊外型の巨大GMS となり、客の流れが変わってしまい、今やアーケードの下はシャッターを下ろした商店がヒッソリと並ぶだけの、ほの暗いトンネルと化した所が日本中にある。大阪とて例外ではない。
冒頭に挙げた天神橋筋などは、今や一種の観光名所で、天五・天六(5〜6丁目)あたりなどはとても賑わっているものの、他の多くの商店街に往時の勢いはない。老朽化のために天井が取っ払われて、出入り口のアーチのみが残ったようなところもあると聞く。
今回のネタである源ヶ橋商店街とは通称で、正式には「生野本通商店街」と呼ぶらしい。40何年生きて初めて知った。大阪の生野区、大阪環状線で天王寺の一つ東隣の駅である寺田町の近くの源ヶ橋交差点から、林寺・舎利寺を通って田島5丁目まで、ほぼ真東に1kmくらいにわたって伸びるアーケードのことだ・・・・・・ってーのは公式の説明だろう。
おれの記憶の中で「ゲンガーシ行こか?」と言われるその商店街の入口は田島5丁目で、寺田町側は出口である。なぜなら田島に母方の祖父母の家があり、商店街に出かけるときは、いつもそちらから入っていったからだ。だからここ以下の拙文で、「入口」は東側のことを指している。
昭和40年代初頭、そこには本当に熱気があった。ドブ川を越えると商店街のはずれで、神社あたりからアーケードが始まるのだが、幼かったおれにとっては、何だか年中祭りをやってる楽しい場所のような気がした。週に1〜2回は行ってたと思う。
ま、ガキの興味の及ぶ範囲なんて「食べ物・飲み物」と「玩具」あとはせいぜい「絵本」くらいなもんなんで、他の店の記憶は断片的だが、当時の商店街店のあれこれを少し列挙してみよう。
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まず思い出すのは、商店街の中ほど、少し通りから外れたところにあったタコ焼き屋だ。斜め向かいには、のてぇ〜っと涅槃仏が境内に横たわる寺があったような気がする。バーサンが一人でやってた。
多分に記憶はおぼろげなのだけれど、間口が1間に満たないような半露天の狭い店で、10個20円だった記憶がある。今の相場で言うなら150〜200円くらいだろうか。つまり当時でもかなり安い方だった。
ちなみにおれはイカ・タコが嫌いで、とりわけタコはこの世で最もニガテなものだ。なのに食えた。・・・・・というのもここのは値段が値段だけにほとんどタコが入ってなかった。だから爪楊枝でちょちょっとその破片のようなタコの欠片をほじくりだせば、ソース味でごまかされて食えたのだ。邪道な食い方だなぁ〜(笑)。
いつ行ってもやってたこの店、そのうち廃業の張り紙もないまま突然店を閉めてしまった。母親は子供の安いおやつがなくなった、とこぼしていたが、しばらくして店の二階でバーサンが孤独死してるのが発見された。
とまれしかし、今思えば、たいして好きでもないタコ焼きをいつもあてがわれてたのは、母親が食べたかったからに違いない(笑)。
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寺田町寄りのところには公設市場があって、この中には巨大タコ焼きを商う店があった。鉄板もピカピカ赤く光る銅のもので、子供心にも高級そうに見えた。しかし、10個50円のそれはあまりに高級で、おれにはタコが大きすぎて到底食える代物ではなかった。
そうして、もっぱら肉屋のコロッケやジャガイモ串フライにおれのおやつは移行して行った。ずいぶん以前に書いたとおり、肉屋のコロッケその他は絶対、歩きながら食べるために売られてるものだ、と今でも思う。
公設市場もほとんど今では絶滅した存在だが、その近くに大阪のスーパーの草分けとも言える「万代百貨店」だったか「ニチイ」だったがあったことも思い出す。ひょっとしたら両方あったかも知れない。
勝手に棚からカゴに色々とってレジで清算する・・・・・・今では当たり前のことが、ものすごく斬新なことに映る一方で、何だかとても無機質でつまらないことのようにも思えた。当時はまだ「モノを買う」という行為が、コミュニケーションを前提に成り立つのが当然だったからだ。
しかしその万代百貨店自体も、今ではいささかレトロなリージョナルチェーンではある。ニチイはその後のマイカルグループだ。
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食べ物があれば次は飲み物だ。
水槽のようなところにジュースが満たされ、内部で噴水になって吹き上げてるアレ、なんちゅう名前なのか寡聞にして知らないが、そこからジュジュ〜ッとコップに入れてくれる「冷やし飴」がもっぱらだった。
この冷やし飴、中年以上の関西人でないと分からないモノの一つだろう。「粘り気のない冷たいあめ湯」みたいなものだ。サッパリした生姜味の子供や庶民のジュースで、1杯10円とか15円でどこでも売られていた。瓶のコーラが贅沢品だった時代である。
ちなみに紙コップなんて気の利いた物はまだ一般的でなかったので、店の前で飲み切りで飲まなくてはならなかった。子供にはやや持て余す大きさのガラスのコップを両手で持ちながらおれは、祖父母の家の裏手にある、田島商店街の「アイスクリームケースから柄杓ですくって入れてくれる冷やし飴」の方が安くて量が多いな、といつも思うのだった。生意気なガキだわ。
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かしわ屋、っちゅうのもあった・・・・・・そもそも「かしわ」も関西人以外に通用しないか。鶏肉屋のことだ。鶏肉と焼き鳥、玉子、玉子焼きなんかを売ってる。タレがいっしょだからかウナギの蒲焼もあったような気もするが、ちょっと記憶があやふやだ。
当時はまだ玉子が高級品で、病気の見舞いにおが屑に埋まった玉子の籠盛りなんてーモノを持ってったような時代なので、かしわ屋はいわば一種の「高級食材店」のような存在だったのかも知れない。キュイジーヌ、やね(笑)。
ともあれ前段のタコ焼きに較べてずいぶん値段が張るもので、おれはほとんど食べさせてもらった記憶がない。落語のように、いつも香ばしい匂いだけをかいでいた。
時間が昼時ならば、「力餅」というおはぎと麺類の店に入った。2本の杵を「父」という字のように組み合わせた意匠がすりガラスの表に描かれてた記憶がある。鎌とトンカチならソ連だな(笑)。
この「力餅」、これまた関西人にしか分からないモノだろう。別に源ヶ橋だけの店ではなくて、チェーン店なのかノレン分けなのか、今でも近畿一円のあちこちの街角で見かける大衆食堂だ。必ず店の入口の一部がガラス棚になってて、おはぎや巻き寿司、いなり寿司なんかが並べられ、奥からはカツオダシのいい香りがしてくる。
何のこだわりがあったのか、源ヶ橋で外食する際は絶対、この「力餅」に限られていた。安かったからかもしれない。他にもうどん屋やらお好み焼き屋、中華料理屋等はあったと思うが、必ずここ。そして頼むモノはカレーうどんばっかし。母親も祖母も心症病み、っちゅーか、オブセッション、っちゅーか、「これといえばこればっかし」な人ではあった。
買い食いではないけれど、晩のおかずに天ぷら屋の経木の皿に乗っかった天ぷらを買うこともあった。おれはなぜか塩からい紅ショウガを薄くスライスしたものの天ぷらが大好きなのだけど、その時の記憶があるからかも知れない
同じように買い食いではないけれど、オニギリやおこわ、その他惣菜を売ってた入口近くの店も忘れられない。買って帰った記憶はないのだけども、ホッチキスを思わせるような道具で御飯をギューッと掴むとオニギリ出来上がって行く。その姿が妙に面白くて、おれはいつでもその店の前で立ち止まって見とれるのだった。
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オモチャ屋は悲しいことにいつも見るだけ。あまり裕福でもなく、そのくせなにせ父親が「高級教育玩具」みたいなモノでないと許さないようなヘンなオッサンなので、普通のオモチャ屋で売ってるものなど買って帰っても、家庭争議の種になるだけだったのだ。
だからおれは店内に入ったコトがない。買ってもらえないコトが分かってたし、もし買ってもらったら後がややこしくなることが子供心に明らかだったからだ
それでもどうしても欲しくて、買うてくれろ、買うてくりゃんせ、買うてけろ、と大泣きにないて駄々をこねたものが一つだけある。それが「壺」なら町田康のエッセイだが、おれの欲しがったのは何てことないものだ。
マジックハンド・・・・・・宅八郎が振り回してたアレ(笑)。
そんなもんが何でそんなに欲しくなったのか、今は知る由もない。TVでコマーシャルでもやってたのかも知れないが、両手でグニュッとやると1m以上の長さにビヨ〜ンと伸びるリッパなものだった。
いずれにせよ、おれは大泣きに泣いた。泣いたが、それはケッコーなお値段でもあった。おれは引きずられてその日は無理やり諦めさせられたのだが、それでもあまりにしつこくしつこく欲しがるものだから、数日後、母親は根負けしてマジックハンドを購ってくれたのだった。
近所の駄菓子屋で買ったそれはしかし、全長20cmもなかった。児童用のハサミに毛が生えたくらいの大きさだった(笑)。おれは再び泣いた。今度はフクザツな涙だった。
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ちょっと偏った店ばかり取り上げたが、ホント、アーケードの下にはあらゆる業種の店があった。そんな中でそこだけポッカリと商店街の賑わいが抜け落ちたようになって廃墟のような姿を見せる古い大きな建物があった。くすんだ佇まいのそれは高校で、そのうち郊外に移転するとかで空家となって、ホンモノの廃墟となった。
まさか後年、その高校に自分が通うようになるとは、その時は想像もしなかった。
・・・・・・クルクルと軒先で回る蝿取りリボン。
虫よけの太い線香。
バネ仕掛けで引っ張ると下りてくるお金の入ったザル。
円錐形にきれいに撫で付けられ、しゃもじが突き刺さったた味噌の山。
スノコにきれいに並べられたうどん・そば・ラーメン。
平たい木枠のガラスケースに入ったお菓子。
磨き上げられたリンゴ。
荒縄で縛られた瀬戸物。
怪しい漢方薬屋。
薄暗い酒屋。
さまざまなものが入り混じった匂い。
そして何より前掛け締めて塩辛声も勇ましく呼び込む男たち、何だかシーツみたいな柄の割烹着きた女たち。
最後に源ヶ橋まで往復したのはいつの頃だろう。それさえももうずいぶん昔の話となってしまった。今でも往時の賑わいは残っているだろうか。もしそうなら、おれはとても嬉しい。 |

何か記憶違いも一杯ありそうやな・・・・・・公設市場は今でも残ってるみたい。
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http://map.yahoo.co.jp/より
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2006.05.19 |
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