「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
ローザの記憶・・・・・・Rosa Luxemburg


自主制作で出された1stシングル。何となくYMOっぽいいでたちなのが時代を感じさせる。
ちなみに生駒山上遊園地で撮影したんだそうな。


https://sumally.com/より

 懐かし80年代京都ネタをもう一つ。時系列でみると前回と大体カブる感じだろうか、ドイツの女性革命家の名前をバンド名にしたローザ・ルクセンブルグについてだ。みんな略して「ローザ」って呼んでた。ちなみにルクセンブル「グ」」は読み方間違えてたりするんだけどね(笑)。「ク」と濁らないのが正しい。

 ウィキとか見れば概略は載っておりここでクドクド書いても仕方ないんで、載ってないことをちょと補足程度に書いとくと、たしかその前身は「フライング・ブッダ」って名前でやってたようだ・・・・・・っちゅうてもおれは観てない。おれたちの悪友仲間の一人、その後精神を病んでどうにもならなくなっちゃったTってのがまだ発病してなかった頃、ライブでたまたま観たって言ってたのだ。ま、そのような伝聞なんで確証はないが。

 当時、パンク・NW系バンドで単独で西部講堂クラスを満杯に出来るような地元バンドはローザくらいしかいなかったように思う。ビートクレイジーとして沢山の若いバンド集めてオールナイトライブ打ってたコンチネンタルキッズとかでも単体ではそこまでの集客力は無かった。それとお客さんもちょっと層が違ってて、ローザの客にはフツーの(!?)若くてミーハーな女子大生っぽいオネーチャンも多かった。
 ぶっちゃけ当時のムーヴメントにタイミング良く、あるいは戦略的に乗っかってた、っちゅうだけで、彼等の見た目も音楽も決してパンク・NWではなかったように思う。いや、むしろハードコア全盛期でどいつもこいつもアホみたいに鋲打ち革ジャンに安全靴、ウルトラセブンみたいな頭で、今で言うブラストビートみたいなんばっかしヤッてる中、インドっぽくもアフリカっぽくも中国っぽくもあるようなエスニックでカラフルなコスチュームにどぎついメイクの彼等はかなり異質でさえあった。見た目的に一番近かったのはどうだろ?意外かも知れないけどおれはRCサクセションのような気がしてる。また曲にしたってその基本にあるのは、あくまで骨太でオーソドックスな往年のロックやR&B、ファンクで、その上にコスチュームそのままのカラフルさで色んな要素を振りかけていた印象がある。そう、つまりはとても抽斗が多かったのだ。演奏技術の点でもアタマ一つどころか二つ三つ飛び出してたように思う。この点でもヘタさこそがある意味キモな他のパンク・NW系とはいささか毛色が異なっていた。

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 実はおれたちのバンド活動の端緒は、S年がソロでローザの前座にチョコッと出さしてもらったことから始まってる。どうゆう伝手を掴んだのか、同志社ホールで行われた彼等のライブにもぐりこんで10分ほど出演したのである。ホンマ「幕間」っちゅうやっちゃね(笑)。たしか84年の夏過ぎた頃だった。
 当時は同志社もモノ分かりが良かったのか、結構ヘンなライブが行われることがあった。「ヒカシュー」とか「タコ」もここで観た記憶がある・・・・・・で、それはさておき、S年のアングラ芝居がかった風変わりなパフォーマンスがメンバーにウケて、「オマエおもろいやっちゃな〜」ってなって、その数ヶ月後の大阪・バナナホールでのライブの前座に指名されたのだ。年はまだ開けてなかったように思う。

 ところが前座ともなれば少なくとも20分くらいは持たせなくてはならない。しかし、持ち歌がそんなにはない(笑)。大体、新曲を演奏しようにも、当時のS年の愛機であったコルグの摩訶不思議な伴奏マシーンにシンネリと曲のパターンみたいなのをコチコチコチコチ打ち込まなくちゃならないんで、生産性がおっそろしく低い。現代の感覚からすると信じられないかも知れないが、途中で打ち込みミスッても一切アンドゥできず、イチからやり直すしかないのだ(笑)。今からやってちゃとても間に合わん、どぉしよ!?・・・・・・ってな流れで、何となくおれがギター弾くことになった。まことにささやかなサポートメンバーっちゅうこっちゃね。テクだって全然ないのに(笑)。

 実のところ、おれとS年はしょっちゅうツルんで飲んだりライブ行ったりはしてたけど(・・・・・・っちゅうかつい先日も八重洲で飲んだな〜、笑)、ぶっちゃけおれたちの音楽の嗜好はかなり異なってたのである。おれが当時はノイズ/インダストリアル系にドップリ浸かってたのに対し、一方の彼は明確なコード進行やAメロ・Bメロ・サビ等がハッキリしつつもキッチュでチープでちょとヘンな歌モノをやりたがってた。そんなんで一緒に音楽活動することまでは考えてなかったのだ。あ!それでも一度だけおれが強引に誘って轟音垂れ流しなんはやったことあったっけ・・・・・・正直彼は辟易してた。すまねぇ!今度会ったらちゃんと謝ろう(笑)。

 とは申せおれ自身、ドッスンバリバリ繰り返してたって自己満の金太郎飴なだけでアカンよなぁ〜、ってな気持ちが段々と湧いて来てたりもしてて、特にアテもないままカシオトーンとラジカセの録音機能っちゅう貧弱極まりないイクイプメントを駆使して(笑)、リフやらシーケンスパターンやらベースラインやらといったマトモな曲の断片をコツコツと拵えてたのだった。実際それはかなりの数に登ってた。
 そんな手持ちの中からカンタンだけど使えそうなのを彼に聴かせて、気に入ったのを2曲くらい起こした記憶がある。それで元々の曲と併せて5〜6曲のセットリストにしてバナナホールは無事に乗り切った。

 ・・・・・・あ、ローザのハナシやったね。スンマソン、すぐ個人の想い出話になるのは悪いクセだ。

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 既に大阪でも彼等の人気はかなり高くなっており、軽く500人くらいは入ってたと思う。立ち見もいた。バナナのキャパからするともぉ満杯も満杯。

 ライブ前後は何だかんだバタバタしてて殆ど会話を交わせる余裕もなかったが、大坂からの帰り道、メンバーの誰が声掛けてくれたのか「自分らだけ電車で帰れ、っちゅうのあれやろ?」ってな御好意で、ローザのボロいけどデカいトランポに同乗させてもらった。メンバー4人と、ものすごくヤリ手っちゅう噂の女性マネージャー、あとはおれたち2人の計7人、運転してたのは誰だったっけ?
 おれらの機材はギターとS年の小道具くらいでほぼ無いに等しいが、彼等のはさすがにかなりの量があってギュウギュウのすし詰めで本当にお言葉に甘えて申し訳ないことをしたと思う。ともあれそうして堤防沿いの旧・国道1号を抜け、淀か長岡京のあたりのドライブインへ遅い晩飯を食いに入ったのだった。それまではみんななんか疲れて寝てたな。

 赤いソファーの並ぶ薄暗い店内で、「どんと」ことクドミさんは、まぁ何か独特な雰囲気の人だった。歳はいくつくらい上だったんだろう?ぶっちゃけちょと横柄っちゅうか、今で言う高いトコ目線っちゅうか、あまり良い印象を持てなかったのが正直なところだ。ベースのナガイさんは、黒縁眼鏡を掛けてたこと以外あんまし印象に残ってない。ともあれこの2人には良くも悪くもまだ学生の雰囲気があった。
 一方、さらにちょっと年嵩のギターのタマキさん、ドラムのミハラさんって残りの2人は如何にも職人肌で苦労人のプロミュージシャン、って雰囲気があるように思えた。おれたちみたいなポッと出でどこの馬の骨とも分からんのに対してもあくまで腰は低く丁寧、口調も穏やかで、要するに「オトナ」だったワケだ。メシ食いながら、タマキさんが「おれ、ホンマはジミヘンとかが好きやねんけどな〜」っちゅうて笑いながら言ってたのは妙にハッキリ覚えてる。
 そうそう、マネージャーもかなりキャラの立った人で、歳はさらにずっと上で40前後くらいか。かねてからS年に聞かされてた話では、元は九州の素封家の娘で、とにかくこれと見込んだマイナーなミュージシャンを発掘してはメジャーにまで育てるのを生き甲斐としてるまことに奇特な人で、でもそれでは自分の持ち出しばかりになるワケで、だから一つバンドがビッグになる度に実家の両親は泣く泣く山とか田圃売ってる(笑)とのコトだった。まぁ、名伯楽にしてパトロンもやってたワケっすな。まるで嘘みたいな話だが、実際過去にもこのオバチャンの猛プッシュあって、めでたくメジャーに進出してったミュージシャンは結構多かったらしい。

 京都市内にまで戻ってどこで別れたんだったけなぁ〜?一乗寺か修学院近くまで乗せてってくれたのではなかったかと思うが、もぉ眠くて眠くて意識朦朧としててあんまし覚えてない。

 ともあれ彼等との繋がりはこれで終わったのだった。え!?これだけかい!?って!?ワハハ、もっといろんなエピソードがあると思った人、スンマヘン。

 この後、おれたちは猛然と練習を始めた。近所だと修学院の松ヶ崎街道沿いのUDってマンションにあったスタジオが安いって評判だったんで、かなり使った記憶がある。この翌月くらいには前回書いたスタジオ・ヴァリエにおれたちは3人体制で出演してる。さらに翌月にはバンドらしくドラムも加わった4人編成になって、今は亡き銀閣寺CBGBに出させてもらった。一旦動き出すとタクティクスもクソもなく早いのはおれの色かも知れない。

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 ローザは活動拠点を東京中心に移し、翌々年にはメジャーデビュー、後のボ・ガンボスにまで続く大活躍はみなさんご承知の通りだ。漏れ聞く噂ではクドミさんは随分モテたようで、ゼルダがそんなゴタゴタで解散したりとかも、今から思えば懐かしい話である。
 ただ、彼は余りにも生き急がなければやってけないタイプだったように思う。マグロはひたすら泳ぎ続けていないといけない。立ち止まるとすぐに酸素が不足して死んでしまうっちゅうが、そんなタイプ。才気煥発、恐ろしく矢継ぎ早に次々と新しいアルバムをリリースし、興味の赴くままにどんどんとその音楽スタイルを変容させ拡充し・・・・・・そうしてまだ若いのに呆気なく死んでしまった。

 今から思えば彼のあの日のなんだか横柄な態度も、要はアタマの中にはこれからやるべき自分の音楽しかなくって、眼にはイメージする自分たちの明日の姿しか映ってなかったからではないか?って気がしてる。自分の音楽活動に全神経と全精力を注ぎ込んで、他のことなんてもぉ見事に上の空だったってコトだ。
 俗に「脇目も振らず頑張る」なんて言うけど、実はそんなの逆立ちした功利主義に過ぎない。好きで好きでひたむきに熱中するから結果的に脇目も振らなくなるのが正しいのである。だからある意味、子供がそのまま大きくなったような純粋な人だったのではないかと思う。そう考えると合点が行く・・・・・・そらまぁもちろん、おれたちがまとわりついて来た胡乱な連中だったってのもあるだろうけど(笑)。

 いずれにせよ四半世紀どころか30年以上も前の遠く過ぎ去ったハナシである。クドミさんが鬼籍に入ってからでも20年近くになるハズだ。何でも忘れ形見の息子さんがいて、何と今はミュージシャンやられてるらしい。

2019.03.08

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