「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
「大阪のオバチャン」に関する一考察


当時の44マグナム、随所に豹柄が見られる。
今から思えばヘビメタっちゅうより、ハノイロックスとかモトリークルーみたい(笑)。


http://www5.nikkansports.com/より

 あまりにズラーッと作った順の時系列にコンテンツが並ぶのも混沌とし過ぎて良くなかろう、ってコトでサイトを立ち上げた当初からカテゴリーを分けてアップしてるんだけど、それはそれで問題あって、どこのカテゴリーに据えてもどうにも座りが悪い、ってケースが発生することがある。今回なんかが正にそうだ。

 この点でマルチタグが出来ない昔ながらのHTML文書の限界を感じてしまう。ブログとかツイッターならその辺はコントロールしやすい。とは申せ、古典的なこの記述にも未だメリットがあるのも事実で、タグによる抽出がない分、作る側として全体構造の把握や画面を自由に広く使ったりはラクだ・・・・・・って、そもそもボリュームがバカみたいに膨らんだ今となっては、死ぬほどめんどくさい移行作業は現実的でなく、このまま行き続けるしかないのだけど。

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 さてさて、大阪のオバチャンといえばまず挙げられるのが「豹柄」であろう。あとはキツ目のパーマとか、派手目のメイクとか、あとは自転車の傘差し棒とかそんなトコが良く言及される。実際みんなそんなカッコなのか?っちゅうとかなりの地域差があって、要は下町に数多く棲息してた印象がある。
 ただ、それも最近では過去のモノになりつつあるっちゅうのが専らの世間での評判だ。あまりにメディアで騒がれ過ぎたこと、また同じようなカッコが街に溢れて大して目立てなくなったこと等の理由が挙げられてる。未だにウリにしてんのは、近頃スッカリ落ち目なマダム・シンコのパッケージくらいだろうか(笑)。

 しかし、昔からみんなそんなんだったワケではない。少なくともおれがガキの頃の大阪のオバチャン、と言えば夏場だとムームーとかアッパッパが多かったし、そこに豹柄は無かったと断言できる。キツ目のパーマも見掛けなかった。
 きょう日の若い人にムームーやアッパッパっちゅうても分からんだろうから若干の説明をすると、生地を二つに折って、首と袖の通る部分以外を縫い合わせたような、いわば簡易なワンピースだ。ムームーの方がアバウトでアッパッパがちょっと凝った造りになってた。でもまぁおおよそ縄文時代の貫頭衣みたいなものを想像していただければ宜しかろう。恐らくは戦後のモノの無い時期に、お好み焼き同様、簡便で実用的、かつ文化的な衣服ってコトで広まったんだとおれは想像してる(※1)。

 「新・耳袋」の中に、夜中、胸が重苦しくてうなされて、思わず「何でこんなに重いんやろ?」と呟くと、「それはワタシが乗ってるからや〜」って声がして、驚いて目を開けるとムームー着たオバハンの幽霊が身体の上に立ってた、って話が出て来る。このユーモラスだけど奇妙なリアリティのある話からも、かつての大阪のオバチャンのファッションアイコンがムームーあるいはアッパッパであったことが伺える。
 冬場がどんなカッコだったのかはあまり覚えてない。フリースなんてまだない時代で、冬はセーターや毛糸のストールが多かったような気がするが、ちょと自信ない。やっぱし、「アツアツアツアツ暑っつぅ〜!ホンマ暑っついわぁ〜!アセボでけそやわぁ〜!」とか言ってる方が、強烈に記憶に刷り込まれるからだろうか(笑)。

 では、いつ頃から豹柄は一般化したのか?そしてそのルーツはどこにあるのか?・・・・・・それが分かったからって何の役にも立たないだろうけど(笑)。

 豹柄が広まったのってそんなに古い話ではないような気がしてる。おれは90年代の終わりまで大阪に暮らしてたのだけれど、学生やってた80年代では、当時は通常オバチャンっちゅうて呼んでも差支え無さそうな40代半ばから60代終わりあたりの年齢の人で、そこまで豹柄を見た記憶がない。
 もちろんいなかったワケではないけれど、それはもちょっと下の年齢層だったように思う。そう、若いオネーチャンから中年の入口あたりに豹柄はチョコチョコだけど支持されてた。別にヤンキーってワケもない人が豹柄のスカーフなんかをしてたりすることはままあったし、バブル前後に巷に溢れてヤンキーが好んで着てたナンチャラ・アルマーニとかのド派手な柄にも、豹柄を中心に動物全般は結構あったように思う。
 それが段々と見掛けることが増えてって、たしかに大阪を出る頃にはそれなりに見掛けるようになっていた。つまりはこのセグメントが年齢的に持ち上がって行く中で、大阪のオバチャン像は出来て行ったのではなかろうか?人間誰しも歳を取るのだし。

 ともあれこの辺から、ようやく今日の本題である。何故音楽カテゴリーにこのネタをブッ込んだかがお分かりいただけるかと思う。

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 先日、楽器屋でブラブラしてたら、「YOUNG GUITAR」ってテクニカル系の若いオニーチャン御用達雑誌で、最新号の特集が「ギターと関西」ってなってるのを見付けて思わず手に取ってしまった。表紙は通天閣や「づぼらや」のふぐ提灯をバックにギターを提げた高崎晃だったりする。いきなりのコテコテである。実は最近の「YOUNG GUITAR」、特集がもぉナナメ上行くブッ飛びぶりでてかなり面白い。ギター人口が減少し続ける中での奇策とは申せ、ホンマ次から次にこんなクダらん特集良く思い付いたモンだ。ちなみに先月号は「プロレス・スーパーギター列伝」って、プロレスの入場曲とロックとの関係っちゅう実にクダらないネタを大マジメに特集してた(笑)。

 立ち読みして余りの面白さに買って読み進めると、まぁ文化史・現代史的資料としてはいささか雑なものの、これまでにない切り口が何とも楽しい。要はギタリストには大阪を含む近畿圏出身がやたら多い。それは何でやろ?っちゅうのを、古くは山岸潤司や石田長生あたりから説き起こしながら、色んなギタリストのインタビュー等も織り交ぜて語ろうとする試みである。まぁ、どしても雑誌の性格上、最近の若いギタリストにやや比重が偏ってるのはご愛嬌ってトコだろう。

 そうして、突如として天啓が降りて来たのである。
 それは、大阪のオバチャンの豹柄と、往年の大阪HR/HM(ハードロック/ヘヴィメタル)の隆盛の間には何らかの相関関係があるのではないか?ってコトだ。

 大坂はブルースの街の印象が強いし、実際それはさほど間違ってないのだけど、リアルタイムな音楽の波・・・・・・要は時流に乗っかる、っちゅう点では70年代半ばくらいから突如として始まるHR/HMの流れの方が印象深い。ブルースはぶっちゃけちょっとスノッブな大学生以上が通ぶって聴くもので、リアルタイムに当時の欧米のシーンを反映してたとは思えない。
 すごく大雑把に言って当時の大阪のその盛り上がりは、一つがEARTHSHAKERやら44MAGNUM等の正調HR/HM、そしてもう一つがあまりに早過ぎたHR/HMとネオクラシカル(・・・・・・っちゅうか当時なんでプログレやね)とヴィジュアル系の融合と言えるNOVELAあたりの流れに収斂しうるのではないかとおれは思ってる。
 ・・・・・・え!?上記高崎のいたLAZY〜LOUDNESSの流れは!?って?・・・・・・実は彼等、大阪の地元での活動実績は殆どなかったりするんですわ。出身大坂、活動はいきなり全国区っちゅうまことにラッキーボーイな珍しいケースと言えるだろう。

 まぁ、どっちもファン多かった。前者が男女比半々くらいなのに対して後者はほぼ100%女の子だったのが違うところだが、まぁとにかく熱狂的な追っ掛けが付いてた記憶がある。ファンが増えればフォロワーとかエピゴーネンのバンドもそのうち出て来る。ああ、そぉいえばバンドやってた時、西九条のヤンタ鹿鳴館ってトコで「マグダレーナ」ってノヴェラ系のバンドとブッキングされたことがあったっけ。メイクとコスチュームもさることながら、機材の量がおれたちの10倍くらいあって、すごくビックリしたのを覚えてる。キーボードなんてもぉ「盆栽でも並べるんですか?」って言いたくなるほどに見事なコの字の雛壇、何台あったんだろう?85年頃のことだ。

 結論から言うと、この当時の、殊に前者を支えてた層がその後、雀百まで踊り忘れずで、全てではないにせよ豹柄オバチャンの結構な数の母集団となってったんちゃうかな?って気がするのだ。特に44マグナムのカッコは今から思えば大阪のオバチャンそのものだったし(笑)。
 仮に75年時点で追っ掛けのオネーチャンらが二十歳だとしたら今は63歳、ブームはその後パンクが席巻する80年代半ばちょっと前くらいまで続いたから、何だかんだで±10歳程度の年齢幅はある・・・・・・ほらね!?世代的にもカブッてる気ぃしません?

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 真面目な話をすると、大阪のオバチャンの豹柄には、元々派手好きでイチビリな気質があったところに加え、いくつかのハッキリしたルーツらしきものがあることが既に分かってる。

 1つは昭和30年代初頭、日本で初めて豹柄のプリントをしたコール天の染物屋が堺にあった(※2)ということ・・・・・・ただし、ものすごく売れたものの、殆どが輸出用で地元に出回ったかどうかは不明。それに明らかに年代的なズレがある。
 2つ目は70年代半ばから80年代末にかけての約15年間、大阪の上田安子服飾学校では卒業記念に豹柄のスカーフが手渡されてた(※3)ってコト。おれはこの卒業生とライブハウスの音楽シーンを支えてたオネーチャン達はかなりオーバーラップしてるのではないかと睨んでる。
 3つ目はほぼ同じ時期、大阪の百貨店がこぞってイタリアンファッションに目を付けて輸入した際に、その後に繋がる派手な豹柄を含むアニマル柄が多くあった(※3)ってコト。ただしこれらはひじょうに高く、ビンボな庶民がおいそれと買える値段ではなかったようだが、その後、パチモンのフェイクが安い服屋に出回るようになった。パチモン・バッタモンっちゃぁやっぱし本場は大阪だ。

 そんなんで今回おれが述べたのは、いわば第4の新たな仮説だ。全く証拠はないけれど、全然繋がってないとも言い切れないような気がしてる。今後もし、パンクオバチャンとかゴスロリオバチャンとかが出て来たら実証されると思うのだが・・・・・・出て来てほしいとは思わんな、そんなん(笑)。




※1:調べてみたところ、アッパッパは戦前の大阪ですでに大流行してたらしい。
※2:http://tsunezawashi.hatenablog.com/より
※3:https://www.sankei.com/より 


やりすぎなケースの岩井志麻子・・・・・・ケッコー作品はファンやけど。

https://woman.infoseek.co.jp/より

2018.07.31

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