「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
西部講堂の記憶


昔は手前の礎石のところに軽音部とかの入った建物があったんですけどね〜。

http://ss.ffpri.affrc.go.jp/より

 京都・東大路を北に上がっていくと「百万遍」って交差点がある。とても奇妙な地名だが、これは北東側にある法然さんゆかりの浄土宗知恩寺の通称に由来するらしい。この一帯は京都大学のシマのようなところで校舎が林立しており、巨大な体育館なんかもあったりする。
 そぉいや最近花村萬月がその名もズバリ「百万遍」ってタイトルの小説を上梓していた。彼は一時期、京大の吉田寮っちゅーて、まぁ分かりやすく一言でゆうと学生運動の連中に占拠された状態だった寮に転がり込んでた時期があるらしい。

 さて、その体育館の南隣、打ち捨てられたように舗装もされないままで草ぼうぼうの広場があって、その奥に超ボロい荒れ寺の本堂のような木造の建物がある。これこそが、関西アングラ・サブカル系最後の牙城といってもいい「京大西部講堂」である。
 一応、管理組織は大学公認サークルとはなってるけど、ホンネの部分では大学側当局に言わせればこれまた「不法占拠」、ってコトで、潤沢にあるはずの予算も永年もらえず、補修もされないまま不思議な真空地帯となって西部講堂は立ち続けている。まぁ、当局としてはおそろしく悠長な兵糧攻めに持ち込んでるのだろう。権力はいつもしたたかで狡猾だ。
 話は変わるが、何でも、日本に全部で87校あるという国立大学の総予算の10%を東大が独占するのだそうだ。でもって、残りの90%の1割、つまり9%を京大が取っちゃう。でもってその残りの1割を〜、ってな具合で大半を旧帝国大学系が取ってっちゃうらしい。ま、ブランド力もあるんだし、予算取るのをとやかく言っても始まらないが、西部講堂を後世に残すために補修するくらいの心の余裕はお上とやらにはないのだろうか。
 日本は「文化」に対する意識のマチュリティが低いなぁ、と思うで、ホンマ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 何度も書いたが1979年、プログレ少年だったおれは、クリムゾン聴いてハマったあたりから、パンク/オルタナ/ノイズといった方面のやかましくも刹那的な音に目覚め始めていた。セックスピストルズが「勝手にしやがれ」で華々しく出てきたのが1977年前後、当時の「ミュージックライフ」には全身血まみれになって白いプレベを低く構えたシドの写真とかが載ってたもんだが、その3年遅れくらいである。おれっていつでもちょっと遅いなぁ(笑)。


ま、こんな感じですな。歴史に残る刹那野郎っす。

 当時は今のようにメディアがさほど発達も細分化もしてない状態だったので、情報源はほぼ音楽雑誌に限られていた。それらを立ち読みで片っ端から読み漁りながら、西部講堂がどうやらそぉいったややこしい音の聖地らしい、ってコトを知るまでさほど時間はかからなかった。
 家から合法的に出るために大学には行きたいと思ってたが、将来の社会的な成功とか生活の安定とか、そぉゆうコトには無頓着だったので、別にどこの大学に行きたい、ってーのもなかったが、この西部講堂が京都大学の施設で市内の真ん中にあるってコトを知っておれは決心した。

 --------よっしゃ、京都の大学に行ったる。

 かなり短絡的だが、京都にあるガッコならどこでもよかったのだ(笑)。ともあれ目的が決まると行動は速い。そんなこんなで人並みの受験生活とやらも送り、幸い浪人することもなくおれは大学生になった。

 西部講堂でのライブ初体験は何だったっけ?多分、ゴールデンウィーク前後に行われていた「3Days」だったような気がするが、秋にも似たようなデカいコンサートがあったので、ハッキリしたことは忘れた。これは昨今のロックフェスみたいな感じで、その名の通り3日間にわたって何十ものバンドが入れ替わり立ち代わり出てくるのだ。


ライブないときの館内の模様

「西部講堂連絡協議会」http://www.seibukodo.net/より

 初めて見た館内の様子は衝撃的だった。とにかくボロボロで、高い天井の羽目板がほとんど全て抜け落ちて格子組みだけが残って屋根が見えているし、異常に埃っぽくて、チンダル現象っちゅうんですか、隙間から差し込む光が筋を描いていた。それと壁のあちこちに描かれたサイケでアシッドな落書き。無論イスなんておまへん。オールスタンディング当たり前、みたいな。

 --------おお〜、これやこれや、これやで〜!

 ってーのが印象だった。いろんな意味の込もった「これや」だった、ってことを読者諸兄にご理解いただければうれしい。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 それからいろいろここではライブを見た。一つ一つは忘れてしまったが、いくつか印象に残っているものを挙げてみよう。

 ・・・・・・まずは「スターリン」。

 ちょうど12インチの「Go Go Stalin」が出た直後くらいのワンマンライブだったと思う。行ってみたらもう前の空地はパンクスだらけ。千人くらい集まってたんぢゃないかな〜。そろいもそろって黒の鋲打ち革ジャンに見事なモヒカン、トロージャン。孔雀とウルトラセブンとムラサキウニが群れてるようなモンだ。
 何でか知らんがスキー靴はいてるヤツまでおる。ま、時代はそろそろハードコアに移っており、客席の前のほうが乱闘状態になるのは当たり前だったので、身を守るにも攻撃するにも賢い選択と思えたが、いかんせんあれはスキー板をはいた状態で使うものだ。そのままだと不安定極まりない。
 開場して人の移動が始まったとき、案の定そいつは「ぬかるみの中を恐る恐る爪先立ちで行く文金高島田の花嫁」のような珍妙さで入っていった。

 当時の編成はギターがタム、ベースが杉山晋太郎だったと思う。タイコは忘れた。もう、ミチロウが素っ裸になるわ、牛か豚かとにかく臓物を撒き散らすわ、客のオンナの子にチンコくわえさせるわ、といった最初期の超過激なスタイルではなくなっていたが、それでも十分に「汚い」ライブではあった。
 湯気は許すよ。湯気は。品よくみんな着席して聴くライブならともかく、オールスタンディングで前にいい若衆が殺到しておしあいへしあいしてる状態である。これはもはや、四天王寺の「どやどや」とか西大寺の「観音院会陽」に近い。なもんで前が立ち昇る湯気で真っ白にかすむのだ。
 しかし、唾、っちゅーか痰、っちゅーか、これはタマラン。

 --------オレの存在ををを〜〜っ!!アッタマからぁ〜〜打っち消っしてぇ〜くれ〜ぇ〜!!

 とかなんとかどぎついメークのミチロウが叫んでペッ!と唾を吐く。すると前のほうの連中が全員ステージに向かって、ペペペペペペ〜〜ッといっせいにそれに応酬するのだ。ステージ前後で飛び交う唾や痰!!(笑)。
 コンサートスタッフはみんな雨合羽着て傘さしてこらえてた(笑)。ミチロウはともかく、タムと晋太郎はちょっとイヤそうだった(笑)。

 余談だが、このちょっと後くらいのエッグプラントでのライブ後にタムは失踪した。主催する自主レーベル「ADKレコード」の借金がかさんで首が回らなくなってたと言われる。生死の程は諸説あるが不明のままだ。また、それからさらに1年くらいして杉山晋太郎もバンドを去った。脱退後もしばらくは音楽活動を続けたものの、そのうち山小屋の主人となって世捨て人のような生活を送り、気の毒なことに最後はアル中で階段から転落死したそうだ。脱退後のソロ作品を昔聞いたけど、ベースとピアノかなんかだけのダークで透明感のある静謐な音だったことを思い出す。

 ・・・・・・続いてはスペルマ。

 コンチネンタルキッズのベースのラン子がボーカルを務める、70年代風ロックテイストあふれるパンクバンド、って感じ。あちこちの古株バンドのメンバーの混成のようなメンツで、「いや〜今はこうしてパンクバンドやってるけど、ホンマはおれ昔、ハードロック少年やってん」「何のかんので私はジャニスジョップリンやわ」みたいに、それぞれのルーツミュージックを持ち寄って和気藹々と好き放題やってるような雰囲気があって好きだった。それだからカバーナンバーも多く、まぁ、お祭バンド的要素が強かったとも言えるだろう。

 音的にはそぉゆうトコだったが、ステージ、何がおもろいかっちゅうと、とりあえずラン子が粗いメッシュのボディストッキング一枚の素っ裸で出てくる。ま、バンドだけぢゃ当然食えず普段はSM嬢やってたそうなんで、この方がより実生活に近いカッコだったのかもしれない。ライブ後半になるとまったく素っ裸ってコトもあった。
 ぶっちゃけあまりナイスバディ、ってほどでもなかったが、しかし、いつもステージ下でポゴ踊って暴れてるだけのアオいパンクキッズ共も、このときばかりは「かぶりつき」(笑)状態で一生懸命見るのだった。

 しかし、ラン子もその後、まだそんな歳でもないのに、残念なことに病気で亡くなってしまった。京都のパンクシーンを盛り上げた「ビートクレイジー」の中心人物として、本当にその功績は大きいと思う。ほんと、「さん」付けで呼ばんとアカンくらいの人ですわ。
 西部講堂の入口のところで、出前の焼き飯食べながらチケットのモギリをやってた姿が懐かしい。

 ・・・・・・最後に、元ウルトラビデのコウイチロウ(渡邊浩一郎)のライブの模様を書いて締めくくろう。

 これは大晦日のオールナイトライブ。83年だったか84年だったかな?ちょっとその辺は忘れてしまったが、夕方から始まったライブも年が改まっていい加減ダレ気味になってきたあたりのことだった。
 一人の小柄なオッサンが手ぶらでステージに登場した。上に述べたような全身トゲだらけのパンクスだらけの中で、フツーの服着て、フツーのアタマした人は逆にものすごく異様だ。次に誰が出てくるかの案内なんて一切ないし、最初おれは何が出てきたんやろ?って思った。客の誰かが「コウイチロウや!」「それ誰や?」「ウルトラビデのやんけ」とか話すのが聞こえてやっと分かったのだが、とにかく他にメンバーが出てくる気配もない。それまでやかましかった館内も静まり返って、みんな何が始まるんだ?とステージを凝視している。

 そうして彼は無言のままマイクスタンドの前に立って、いきなりヒゲを剃りはじめたのだった(笑)。

 パンクスは呆気に取られたままだ。
 ゆっくりヒゲを剃り終えると、やはり無言のまま今度はステージ脇に置いてあったヴァイオリンを取り上げて弾きはじめる。断りを入れるのもヤボだが、当然デタラメ。

 キキキィィィ〜
 ギコココォ〜
 キィ〜コキィ〜コ
 ギギギ〜
 キョキョ〜〜

 いきなり一人のパンクニーチャンがステージに駆け上がってコウイチロウを殴った。

 ヴァイオリンが吹っ飛び、彼はよろめいて後ろに倒れた。マイクは全ての一部始終を拾っていた。すぐさまこのニーチャン(間違いなくアタマ悪し)がスタッフ達によって引きずり出されて、おそらくはステージ裏で100倍返しくらいでボッコンボッコンにされたのは間違いなかろう。何とも後味の悪い幕切れだった。

 無論、彼が血気盛んなパンクスにドツかれることも含めて、確信犯だったことは容易に推察できる。単にストレス発散の場として自我を忘却させ、暴れてほたえまくるパンクスの、その主体性のなさ、っちゅーか狼のフリした羊のような群れ方へのアンチテーゼ・・・・・・もっとベタに言えば「いやがらせ」としてやったんだと思う。
 だとすれば、このパフォーマンスは大成功だった。が、やはり後味は悪い。これでコンサートがお開きになったか、その後さらに別のバンドの演奏が続いたかも忘れたが、夜明けの東大路を初詣に向かう人たちに混じって歩きながら、おれはなんとも複雑な気分だった。
 そんなコウイチロウも亡くなってずいぶんたつという。

 なんかもう、物故者だらけ、死屍累々やな。思えば、あの頃見た有象無象のミュージシャンの多くが早世してしまっていることに驚かされる。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ちょっとハナシが暗くなってしまったが、しかし西部講堂は独特のオーラを放ちながら、おれがしょっちゅう通ってた頃とほとんど変わらない姿で今でも百万遍の南西に立っている。ずいぶん老朽化してるはずなのに、よく倒れないもんだな〜と不思議に思う。ミュージシャンの生気を吸い取ってるのかも知れない。

 一方、見方を変えるとこの変わらなさは、パンクぢゃニューウェーヴぢゃなんぢゃ、っちゅーよりは、むしろ京都の古刹や老舗に似ているようで何だか妙におかしい。

2005.10,29

----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
Copyright(C) REWSPROV All Rights Reserved