「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
「K.G.Country」の記憶

 今はどうなったか知らないが、二昔半ほど前の南海高野線・北野田駅は急行停車駅のくせに、賑わっているのは駅の西側だけだった。一方の東側は大きく蛇行する西除川が意外に深い谷を形成しているため、狭い斜面に小さな飲食店が密集し、車も入れないような駅前で、いまいち開けていない感じがしたものだ。

 おれがその店に通うようになったきっかけについて、今回、一所懸命思い出そうとしてみたのだが、どうしても思い出せない。多分、踏み切り端にあった「王将」で餃子でも食った帰りに気づいたんぢゃないかと思う。79年の夏だった。
 冒頭に触れた駅東側の狭い通りの角の喫茶店の横、二階に上がる狭く急な階段があって、昇り口の壁にちょっとマーチンを思わせるロゴで、いかにも手書きっぽい小さな看板が出ている。

Musical Instruments
K.G.Country

 細かい文言も忘れた。ブルースとかブルーグラスなんて言葉も入ってたかもしれない。つまりそこは楽器屋だった。

 おれは何だか恐る恐るその階段を上がった。貸事務所然としたすりガラスの入ったアルミのドアが目の前にある。そこにも「K.G.Country」の文字。あとは色々な楽器関連のステッカーがベタベタ。ここかぁ・・・・・・ったって、2階はこれしか部屋はない(笑)。
 かくしてドアを開けたおれは、衝撃的な光景を目にする。

 ・・・・・・ろくすっぽ楽器がないのだ。

 フツー楽器屋て、ラックみたいなんにギターがずらっと立てかけてあったりするでしょ? アンプを壁一面に積み上げてあったり。それが、10畳ほどの店内はまったく空き部屋のような状態で、壁に2〜3本のギターが掛けられてるだけなのだ。
 部屋の隅でロン毛のニーチャンがうつむいてセミアコを引いてる。おれの姿を認めて、ぞんざいに「まいど」とつぶやいて、再びうつむいてギターを弾きはじめた。何ちゅー商売っ気のなさ!ヤル気全然おまへんがな〜!

 ともあれ、それがユルユルのナゲヤリ楽器屋「K.G.Country」との出会いだった。

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 通い始めてしばらくして知ったのだが、ロン毛のニーチャンは店主ではなかった。アルバイトでさえなかった。近所のP大の学生で、単にここに入り浸ってるうちに、半分スタッフのようになっていついてるだけなのだった。店主はコジマさんという、小柄でテンパーのオッサンで、本職はピアノの調律師。趣味のギター好きが昂じて店を開いたらしかった。
 何でおれも常連になったのか良く分からない。何せ品物がほとんどないし、壁に掛けてあるギターもそこで弾くために置いてあるようなものなのだ。新故品みたいなもんだな。

 この店のすごいところは、楽器だけでなく、弦やピック、ストラップ、エフェクターといった小物類もほとんど置いてないことだった(笑)。しかし、品物がない分、カタログだけはたくさん置いてあり、エレキはトーカイとフェルナンデス、アコギはトーカイゆえにキャッツアイ、あとはヤイリ、タカミネあたりが良く扱われていた。そういや最近買って悦に入ってるヘッドウェイも何回か見た記憶がある。
 一方、グレコ・アリア・モーリス・ヤマハあたりはあまり見た記憶がない。あまりに怪しい店で取り扱わせてもらえなかったのかもしれない。
 たまにモノホン、といっても中古だが、ギブソン・フェンダー・マーチンが入ってきたりして驚かされることもあったが、たいていはそのような国産モノばかりで、入荷したそれらはダンボールに収められたまま部屋の隅に積まれていたりした。

 一体それらがどのようにさばかれてたのかは、よく分からない。とにかく店はヒマで、客が来てるのをあまり見たことがない。だからどっか外から注文を取って来てたのだろうと思う。たまに人が来ても、彼等の知り合い関係ばっかしで、学生服着てウロウロしてるおれの方がかなりの異分子だったのだ。そういや楽器屋の営業マンがきてるのも見た記憶がない。
 おれもそれこそ一時期は日参してたが、そこで買ったものは、っちゅーと、小銭を貯めて、今はなくなった「Jam」のフランジャーくらいで、ロクな客ではなかった。

 店名から伺えるように、コジマさんはカントリーが好きだったみたいで、アコギだけでなく、バンジョーやフラットマンドリンなんかが転がってる時もあった。文字通り、ホンマに転がってるのだが・・・・・・。彼の腕は確かで、店に戻ってきてたまに手慰みでそれらを手に取って弾くのだが、何をやってもおそろしく鮮やかだった。

 数は少ないとはいえ壁に吊るされてるギターには出入りがあるので、おれはずいぶんここで色々なギターを弾かせてもらった。技術的なことを教わった記憶はまったくないが、とにかくいい加減なので、ギターを勝手に降ろしてペンペン弾きまくっても何も言われない。おれがそれでもギターの音色について、それもノイズ/パンク/オルタナ野郎のクセにアコースティックの音色についてノーガキをたれることができるのは、この時の経験が大きい。レスポールやストラトといった王道ギターのオールドがあることはなかったが、SGやジャズマスターといった、ちょっとB級系ならけっこう触らせてもらったことがある。

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 しかし、いくら半分道楽の店とはいえ、こんなんで商売が成り立ってるとはとても思えない。店の賃料だってあるだろう。一向に客の来る気配はなく、たまに来ても、半ばウロンな関係者(おれも末席ながらその一員だったが・・・・・・)の溜まり場と化した店内の異様な雰囲気と、あまりの品数の少なさに、「しまった!」という表情を浮かべてすぐに帰ってしまう。

 ・・・・・・通い始めて1年ほど経ったころ、コジマさんは一大決心をした。店の半分をスタジオにする、と言うのだ。

 ちょっと待て!! 店の広さは前述の通り10畳そこそこしかない。幅は1間半ほどだ。ここに分厚い防音加工を施した小部屋をこしらえたら、一体全体、内部の広さはどうなるのだ?残った部分で楽器店は続けると言うが、一体どれだけのスペースが余るというのだ?
 しかし、溜まり場をなくす連中の恨み言に近いそうした意見もどこ吹く風、改装工事は強行されたのだった。

 ・・・・・・久しぶりに店に顔を出すと工事は終わり、店は営業を再開していた。ドアを開ける。ウワオ!すぐ左はもうスタジオの壁で、ものものしい二重扉がある。すごい圧迫感。店は2畳ほどの空間になってしまっていた。
 広かった頃はほとんど品物がなかった気がするが、さすがにこの狭い空間に寄せ集めると、かなりの密度だ。狭いながらも楽器屋としての雰囲気は向上していたわけである。

 スタジオは大方の予想をはるかに超えて・・・・・・狭かった。防音は壁だけではダメで、床も天井も手を入れなくてはならない。それも尋常でない厚みで吸音材を入れないと、ドラムや電気仕掛けの楽器の爆音は遮蔽できないものなのだ。そうして防音工事を施した部屋は、2m立方ほどの広さしかなかった。部屋ではなく、箱やな、ありゃ。そこにドラムセット、ミキサーとスピーカ、マイク3本、ギターアンプ2台にベースアンプ1台、オルガンが詰め込まれてある。スタジオというより器材倉庫に見えた。
 ギターアンプなど親亀小亀状態で、サイドギター用とおぼしきJC−120なんて、おれの目線より高いところにコントロールノブが並んでいた(笑)。

 そんなんだから使用料はとても安かった。2時間で一人500円だったかな?おれも営業には協力し、高校で同じ軽音の連中をたくさん紹介した記憶があるが、一度使った連中の答えはいつも同じだった・・・・・・「アカン、あれ狭すぎや。身動きできんがな。」
 さもありなん。当時の高校生バンドはやたらメンツが多いのが特徴で、Vo、Gt×2、B、Ds、Keyの6人編成が当たり前だったのだ。おれが狭いと思いながらも使えたのは、ケチなのも無論あるけど、そんなメンツテンコ盛りの風潮に背を向けた3人バンドだったためである。6人だと、間違いなく全員でいっぺんに演奏することは不可能な広さだったもんな〜(笑)。

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 大学が決まって集まった祝儀で、おれはそこに長くあったタカミネを買った。ハワイアンコアでできた小ぶりで木目のきれいなエレアコだ。コジマさんの口上によると、この型ではロット番号が非常に若い1本で、かなり試作状態で手仕上げ部分の多いヤツだから買い得だと言う。その割にはローズの指板の大きな導管の凹みについては何も言わんかったけど(笑)。

 実のところおれはそんなことはどうでも良かったのだ。おれはこの「K.G.Country」でキチンとしたのを1本買いたかっただけなのだ。なぜならこの先、生活の拠点が京都に移ることは明らかだったし、この店に顔を出すこともほとんどなくなるだろうと思ってたし、そして何となく、遠からずこの店が消滅する予感さえもしていたのだ。

 予感は程なく的中した。その年の冬の初め、実家に戻ったおり、何の気なしに近所のレンタルレコード屋をヒヤカシで覗くと、半分店員だった例のロン毛のニーチャンが店番してるではないか。つくづく店番の好きなやっちゃ。
 おれは再会の挨拶をすると共に、店の近況を訊いた。彼の返事は素っ気無かった。

 ------ああ、あこなぁ、のうなってもたわ。おもろかってんけどなぁ・・・・・・。

 コジマさんのその後は彼も良く知らないらしかった。おれの手許にはタカミネが残り、その後、修理不能なまでにテールピースにクラックが入ったものの、それでもしぶとく居間の片隅に立てかけられたまま、昨年まで家にあった。


補足:

 このようなネタを書くときおれは、ネットで時代考証その他を一応サラッとはすることにしているのだが、ここ「K.G.Country」の情報はついに見つからなかった。


1990年、京都・修学院、雲母坂にて

2005.06.10

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