「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
スズキのバイクとS君と


80万で新車が買えた時に買っとけば良かった・・・・・・偉大なる伝説"GSX-1100S KATANA"、これはファイナルエディションだと思う。

 4輪メーカーとしてのスズキはストレートにケッコー好きだ、って言える。オーナーになったコトはまだないけど、欲しいと思わせるクルマが多い。

 例えば唯一無二、孤高の存在とも言えるジムニー。昔、オフロードパークにみんなで行った時、最も走破性が高かったのはコイツだった。二代目だったかな?まぁ、二代目以降は諸元が大差ないんで今もそう大きくは変わらないだろう。そらまぁこれ1台で、っちゅわれたらちょと厳しいけど、そのうち田舎に引っ込んだら夫婦で1台づつ要るだろうし、コイツを買ってこましたろかて思ってる。
 ハスラーも売れるだけのことはあるなぁ~、って思う。沖縄でレンタカーで借りてひじょうに印象が良かった。ノンターボで非力だったけど、本島をチョロチョロ走るにはピッタシだった。高速だってそれなりに走ってくれるので大層驚いた記憶がある・・・・・・ジムニーで高速は、恐怖体験以外の何物でもなかったけど(笑)。
 大阪に戻った時に借りるレンタカーも、もしあればってコトでいつもスイフトを指名したりしてる。ちょと狭いものの、ヴィッツやフィットよりもハンドリングやサスのチューニング、あるいはエンジンのリニア感なんかが上質なのだ。スイスポはマジで買おうって思ったことがあるし、いささか日本国内ではマイナーに甘んじてるイグニスなんかも独特の個性があって、ずっと気になるクルマだったりする。

 一方で、2輪メーカーとしてのスズキは決して嫌いではないんだけど、あんまし比較検討の俎上に上ったことがなかった。今日はそんなスズキの二輪車と、スズキを愛して止まなかったS君についての記憶をつれづれに書き散らかしてみたい。

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 想い起せば、スズキは今も続くヨシムラとの蜜月関係で8耐・4耐の花形的存在だったし、GPシーンでもRGB500~RGγ500が大活躍してた時期でもある。スーパーバイクでもW・クーリーがGS1000をねじ伏せて乗ってた。つまり4大メーカーとしてはホンダ・ヤマハに並んでたのだ。いやいやむしろあの頃レースシーンで言うならば、ヤマハ・スズキがワークスだけでなくプライベーターも多く最も輝いており、その次が4ストに拘り過ぎてGP参入がパッとしなかったホンダ、さらに後れを取ってニッチなカワサキ、ってな感じだったと言える。
 既に「ケルンの衝撃」と言われたGSX1100S・・・・・・カタナは市販されてた。不細工な耕運機ハンドルになってたとは申せ、国内向けの750も出されてた・・・・・・がしかし、スズキに食指は動かなかった。

 一つには、悪友共が集う下宿の一つ・S荘の住人で、今は建築家になったO君ってのが乗ってたGSX250Eってのが、ムチャクチャにカッコ悪かった、ってのがある。身近なヤツの印象ってやっぱし大きい。時既に80年代を迎えてるのに、前時代的で実用一点張りな四角い造形、何ともツメの甘いプロポーション・・・・・・「燃費良いし、乗ったらクセなくて良いんだけどな~」とは彼の弁だったが、これを敢えて買う気になった彼の思考回路がおれにはどうしても理解できなかった。250ならRZだとか、4ストでもスーパーホークだとかGPzあたりを買わへんの?って今でも思う。
 そう、「手の届く範囲」に魅力的な商品がなかったワケだ。既に空冷16バルブのGSX400F・・・・・・通称「インパルス」は出てたハズなんだけど、ヨシムラ・サイクロンの集合管をデフォで付けてるっちゅうだけで全体としてはも一つ華に乏しく、その後継のFWは何かミョーに間延びしてツアラーっぽいし、RG250γはいささかヤリ過ぎだし取って付けたようだし・・・・・・ってな感じだったように思う。

 いささかディスってしまったが、γは間違いなくその後の250の二輪の流れを変えたエポックメイキングなマシンだった。市販車初のアルミフレームに、たしかカセット式のスプロケット、現代の目線からすれば随分モッサリしてるけど、当時としてはまんまレーサーのようなフルカウル(・・・・・・ってまだ「フェアリング」って呼んでたかも)、挑発的なタコメーター、手堅くパラツインでまとめたのも名車・RGB500のスクエア4の前二気筒をブッタ切って作ったような感じがして(・・・・・・実際はバルブ方式とか全く違う)、もぉホンマ爆発的に売れまくったのだ。この後、各メーカーは狂ったようにレーサーレプリカ路線を突き進むことになる。カタログ値の馬力の方が実測値より低い、な~んて当たり前になったちょっとおかしな時代はもう目の前だった。

 ただおれは当時、とにかく4ストが欲しかった。そいでもってインパルス買うならCBXだろ?ってって気がするし、FWは何ともアカ抜けしないし・・・・・・で捨て置かれたような記憶がある。あと、カタナの750でリトラクタブルのヤツが出たり、何かメーカーとして近未来を勘違いしてるっちゅうか、ちょっとデザイン面でナナメ上行き過ぎて迷走してる気がしたのも今一つ手を伸ばさなかった理由に挙げられる。何度もこれまで書いたけど、あのイレブンカタナだって見た目とは裏腹に、空冷・フロント19インチ・2本サス等々中身はかなり古臭くてアンバランスなのだ。

 しかしながら250γあたりを分水嶺に、スズキが一気にデザイン面だけでなくメカニズム面でも先鋭化を進めようとしてたのは間違いない。例えば4スト250の4気筒の嚆矢は実はスズキだったりする。GS250FWってのがそうで、たしか2スト勢に迫る40馬力くらい出してたのではなかったかな?・・・・・・ただ、残念なコトに2バルブだった。何でも良いから4バルブ、ってな世の中の雰囲気に押され、後発のヤマハ・フェーザーに食われちゃった残念なモデルだ。
 おらぁ当時付き合ってたコがこれに乗ってて、その後フラれたんで、それで余計スズキを避けるようになった気がしてる(笑)。

 何だかんだでレーサーレプリカ路線は2スト250で始まり、4スト400に飛び火したのはちょっと後だった。たしかヤマハが「エエ加減にせぇ!」ってな勢いでリリースしたFZ400から本格的に始まる。今より遥かに単車に対する官憲の目が厳しかった時代、あまりにホットなのを出すと行政指導みたいになりかねなかった、ってのもある。カタナの750国内ヴァージョンだって、そのペットネームが物騒で宜しくないって官憲のクレームが入ったってんだからバカバカしい。おれたちはこんな阿呆な議論を大真面目にやれるクダらない連中をのさばらせるのに税金を毟り取られてるワケだ。

 しかししかしスズキはやっちゃったのである。いやむしろ「やらかした」と言った方が正確かも知れない。まるで当時の耐久レーサー然としたGSX-R750を出しちゃったのだ。このモデルはナナハン史に於けるγみたいな突き抜けた存在だと思う。
 空油冷って変わった冷却方式で、異様に細かいフィンの付いたパラ4エンジンに当然のアルミフレーム、ボルドールとかル・マンに出るんかい?って訊きたくなるような丸型2灯のヘッドライト、当然フルカウル、よく許認可申請通ったなと思うタンクを抱え込むような低いハンドル・・・・・・いやもぉバックミラーやシートグリップタンデムステップとか付いてるのがむしろ奇異に見えるような過激なルックスだった。
 そして何より驚異的だったのはその重量で、たしか180kgを切ってた。これって当時の750の平均車重からすると4~50kg軽く、400と比べても変わらないレベル。保安部品やタンデムに必要なパーツ外すだけで、あの頃の耐久レーサーにかなり近い車重に出来たのではなかろうか。クイックチャージャーとかもちろん改造は必要だけど。ともあれムチャクチャに過激なマシンだったと断言できる。リミッター外してセッティングを輸出仕様にしたら、240~50km/hくらいはすぐ出せたんぢゃないかな?
 かくしてこの後、750の世界にまでレーサーレプリカブームは波及することになる。

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 昔ちょっと触れたことがあるけど、怠惰な学生生活も終わりに近づいた頃、おれは悪友のK田から一人の人物を紹介された。クズ共の集まりである修学院組ではなく、K田が大学でたまたま仲良くなったんだという。齢は浪人しててたしか一つ上だったと思う。
 伊賀の方の出という大柄でヌボッとしたその彼、S君は大のスズキ党だった。そらまぁ一介の学生の分際でニンジャ900転がしてるおれも大概だったけど、何と彼はイレブンカタナに乗ってたのだった。たまに交換して運転させてもらったこともある。ニンジャより一回り大きく感じるボディとドッシリして重厚な乗り味・・・・・・そしてこれだけは言いたいが、効かないブレーキ!(笑)。ナンボ馴れの問題があるとは申せ、あの巨体にしては随分効きが悪い気がして、初めて乗った時はヒヤッとさせられた。

 おれより1年早く卒業した彼の就職先は何とまぁ、あまりに好き過ぎてスズキ(笑)。病膏肓とは正にこのことだ。そらそこまで好きっちゅうて熱い想いを語ってくれて採用しない会社はないだろう。生き字引のようにあらゆる車種のスペックとかは、もぉ最初から叩き込まれてるワケだし。そんなんであの業界特有の異様に長い研修の後、寝屋川だか門真のスズキの大型店にめでたく配属となった。
 1年遅れで就職したおれの住まいは偶然、淀川挟んですぐの吹田になった。中央環状をトバせばすぐに店に行けるもんだから、カワサキ乗りなのに店にはたまに顔出したりしてた。何か勧誘すれば他社製品でも歩合になるらしく、車検頼まれて持ち込んだりもした。それで代車で借りたのが下に画像を載せたⅡ型のGSX-R1100だ。全開にするとチビりそうになるくらい凄まじく速かったけど、不思議にトルク感の薄い、ピューッとした走りだったことだけは今も鮮明に覚えてる。エンジンの特性なのかあの当時、下からグワーッと盛り上がる感じではVFやFZなんかが他より明らかに優れてたように思うな。これまた店での成績に繋がることみたいで、誘われて神鍋高原で開催されたスズキのファンミーティングみたいなのに出掛けてったこともある・・・・・・行きも帰りも大雨、オマケに濃霧に覆われてひどい目に遭ったが(笑)。

 これからもっと仲良くなれるかなぁ~、なんて思ってた矢先のことだ。そんなS君、どうだったっけ?たしか神鍋行ったすぐ後くらいではなかったか、ホンマおれが就職して1年経つか経たないかくらいで突然病に伏してしまったのだった。
 病名は何と、結核。おらもぉ結核なんてとっくに人類が克服した病だと思ってたんで、聞かされてものすごく驚いたし、そんなまぁ大したコトないやろから、ちょっとしばらく堀辰雄の世界のようなサナトリウムで大人しく療養すれば治って戻って来るやろ、って軽く考えてた。電話口で、「治ったらK田んトコまでツーリング行こやぁ~」なんてノー天気に励ました記憶がある。
 ところが事実は遥かにシリアスで、既に見付かった時点で病勢はかなり進行してたらしい。ただ、本人には最後までその事実は知らされてなかったようである。そして可哀想なことに、しばらくして彼は亡くなってしまったのだった。まだ20代なのに呆気なかった。ホントおらぁ無知だ。戦前ほどではないにせよ、今なお結核ってひじょうに厄介な病気の一つなのだ。

 もし彼が病に斃れることなく生きてあそこであのまま働いてたら、ひょっとしたら何だかんだでアテられやすいおれは彼の世話になってスズキの大型車に乗り換え、案外その後もバイク乗りを続けてたかも知れないなぁ~、って思う時が今でもある。
 その後もスズキは傑作・名作・怪作の数々をリリースしてる。「怪鳥」と呼ばれた驚異的なビッグシングル・DR800S・・・・・・っちゃぁ聞こえは良いが、削岩機でも握るようなあまりの振動の激しさにすぐ消えてった(笑)。市販車世界最速の名をほしいままにした「ハヤブサ」ことGSX1300R、小さいトコではジェベルやバンディッド、現行だとSV650やVストロームなんか扱いやすそうで良いなぁ~、って思ってる。

 ・・・・・・しかし、あんなにスズキを愛してたS君は、とうの昔に鬼籍に入ってしまった。それ以来、スズキのバイクは何だか縁遠くなってしまったのである。


貸してもらってたのは確かこれ。88年型のGSX-R1100。初代からするとサイドビューがスッキリした印象。

2021.05.27

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