「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
東鉢伏高原スキー場の記憶


何と!東ハチのコース図が登場するのはこれで2回目・・・・・・エエ客やん、おれ(笑)。

 前回に続いてスキー場ネタっす。

 今日は2シーズン目から通うようになった東鉢伏高原スキー場についてだ。現在では経営が変わったのか、あるいは今風な名前にCIしてみたのか「ハイパーボウル東鉢」って名前になったが、コースとかはあんまし変わって無いみたいである。3シーズン目も専らここが多かったんで、関西時代に最も回数こなしたゲレンデであることは間違いない。多分、延べの滑走日数で15日から20日くらいは行ったろう。

 そうそう、想い出した。ちょっとハナシは逸れるんだけど、当時はまだネットもそれほど普及してなかったんで、ポイントだのアプリだのといった気の利いた電気仕掛けの仕組みは無くって、お得にゲレンデに行くなら近所のスポーツ屋に行って、あちこちのスキー場の割引券を貰う、っちゅうのがおれたち金のない連中の習わしだった。スーパーのチラシみたいなのに一面にミシン目が入ってて、各スキー場の特典みたいなのが細かい字でビッシリ印刷してある。大体どこもリフト一日券買えば昼食千円券がオマケで付く、ってな内容だった・・・・・・で、行きたいトコのクーポン券をチマチマと切り取って大切に財布に入れて持ってくワケだ。メジャーで人気の高いスキー場は当然ながらあまりこの企画には加わっておらず、載ってるのはどこも中小が多かったように思う。そう、ミカタ奥ハチで600円のカレーに500円のロング缶のビールもそれだ。このクーポン券で貰う昼食券に現金で100円プラスして買ってたんだった。あぁ、せやせや。

 今から思えば、バブル崩壊と軌を一にするようなスキー場の凋落は、当時そうしてとっくに始まってたのだった。大手はともかく中小、あるいはアクセスの悪いトコはそこまでサーヴィスせんと集客が覚束なくなりつつあったのである。「千円の補助付ける」、ってコトバにすりゃぁ一言だけど、もし一日千人のお客が全員それ使えば当然ながら100万円分の売上がブッ飛ぶワケで、まさに「肉を切らせて骨を断つ」っちゅうか、「背に腹は代えられん」っちゅうか、そうでもせんとよりお客が来なくなってさらに経営が厳しくなるとか、もぉかなり切羽詰まった状況下での苦肉の策だったんだと思う。「昼メシ代浮いて嬉しいなぁ~」で現地の苦境をちょっとも考えず、ノホホンと使いまくってゴメンナサイ。

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 それはともかく東ハチ、今は「トウハチ」って呼ぶみたいだけど、当時は何故かみんな「ヒガシハチ」って訓読みしてたなぁ・・・・・・何でやろ?立地的にはハチ~ハチ北スキー場の文字通り東側にあって、尾根を挟んで北側斜面が現・スカイバレイのソラ山、南側が東ハチってなってる。おれが通ってた頃はそれぞれ経営の異なる別のゲレンデだったけど、今ではリフト券も一体化されて随分と広く遊べるようになったみたいだ。

 おれの中でミカタ奥ハチが「自分を独り立ちさせてくれたスキー場」であるとするなら、東ハチは「中級の入口レベルくらいまでスキルアップさせてくれたスキー場」、って気がしてる。自慢ぢゃないけどおらぁ乗る系のアソビには大概ハマる方で、好きこそ物の上手なれの伝で、そんなプロ級に出来るってほどではないにせよ、かなりやれちゃうのだ・・・・・・今はもぉじぇんじぇんムリだけどさ。そんなウデを磨いたのがココだった。

 ・・・・・・って、東ハチも実のところさほど大きなゲレンデではない。関西のスキー場名物とも言える1km弱の登高リフトが2本あって、上がるとさらにに2本、5~600mのが直列に懸かってるだけである。ただ、リフト乗り継いで一番てっぺんから下山コースまで上手く繋ぐと2,000mくらい一気に滑降でき、当時ボードOKのスキー場でこれだけ長く滑れる所は少なかったので、それなりに貴重な存在だったと言えるだろう・・・・・・ただ、一番下まで下ると多くの場合、雪はザラメどころか食べ終える直前のかき氷みたいにビチョビチョ、さらには泥まじりで板も服も汚れるのが難点だった。ヒデぇと水溜り出来てたりするんだもんな~。

 そんなんで一番雪の深い時以外は上の方だけで滑ったりしてたんだけど、これがてっぺんまで上がると初心者にはかなりキツい。鉢伏山は古い火山なのでひょっとしたらあれは太古の側火山の噴火口跡だったのかも知れないが、巨大なすり鉢状の深くえぐれた地形になってて、さほど距離はないものの40度を超す急斜面、オマケに遮るものが少ないせいか風に磨かれてカリカリのバーンになってたりするのだ。まぁ、そこを気合一発でグワッと行くワケやね。当時はみんなで「ロード・キル」だとか「TB5」だとかビデオスターの滑りにアテられてたし・・・・・・もちろん殆どの場合は秒殺でコケるんだけどさ(笑)。でも、何本かに1回くらいスゴく会心の滑りができると本当に楽しかった。

 あぁ、1人で行くことが多かったミカタ奥ハチと違い、東ハチは大勢で行くことが多かったっけ。「おもろいで!やろ~や!」ってな調子で同僚を何人も巻き込んで、別にキックバックもらってるワケでもないのに江坂で見付けた激安ショップ・「アリー・ウープ」に拉致って道具買わせて、クルマ3台とかで分乗してワイワイ言いながら出掛けるのだ。一種の特技、あるいはビョーキなのかも知れないけど、おれは新しくて楽しそうなコトがあるとまず自分で試して、しかる後に周囲を巻き込むのが大好きだし、なんか妙に上手だった。ホンマもぉはた迷惑でロクでもないやっちゃね。
 世はゴツいクロカン4WDブームで、おれも乗ってたし周囲もケッコー乗ってたから雪山へのアシには困らなかった。みんなムダにBFグッドリッチのホワイトレターのATなんか履いて、キャラメルパターンのタイヤをゴーゴー鳴らしながら走らせてた時代である。
 たしかこの2シーズン目(・・・・・・ん!?3シーズン目だったかな?)からはヨメも滑るようになった。相変わらず家計は火の車でチョー貧乏なままなんで、リフト券は2人で一枚。片方が滑ってる間は片方は子守り、一緒にツルんで来るクセに何故か及び腰であまり滑ろうとしないGチャンってのがたまに代わりに世話してくれたりして、そんな時は二人で滑ったりもしてたな。だから滑る本数自体は1年目よりもちょっと減ってた。

 東ハチの面白さは狭いゲレンデのわりに上の方とその直下のやや緩いバーンが変化に富んでることだと思う。上は上述の通りのスティープさ、その下は広い一枚バーンなんだけどいい感じにうねりがあったり斜度が微妙に違ったり、リフトの脚の雪の盛り上がりがあったりして遊べる。勢い、お客はほぼここに集中するモンだから、第3ペアってリフトだけがいつも混み合ってた。
 下まで行っちゃうときは今はコースにしてないみたいだけど、上に掲げた図の左の方、かつら1号ってリフトの下を潜る手前あたりだったかな?、コースが急に落ち込んで沢みたいな狭いトコに入るルートがとにかく印象に残ってる。みんなでカッ飛んでってこの巨大な段差でストレートジャンプやら180くらいをキメるのだ・・・・・・まぁ、成功率は当然それほど高くなくて痛い思いも随分したけど、それでもチョーシ良い時は10m近く跳べでた。トゥイークだメソッドだメランコリーだと、ロクに分かってもないのにちょっとグラブなんかも入れたりして、気分だけはもぉホンマ、ビデオスターだった。とにかくみんなアホの極み、よく大怪我しなかったモンだと思う。

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 前回書いた通り、あんなにも沢山通いまくったのに、なぜか断片的にしかゲレンデ風景は覚えていない。リフトに乗ってるととにかく大音量のヘビロテでTRFと広瀬香美が替わりばんこで掛かりまくってたコト、近くの氷ノ山で大規模な雪山遭難があって捜索ヘリがバラバラと轟音立てて飛んでたコト・・・・・・そぉいやぁソラ山でも雪崩でスキーヤーが死んでなかったっけ!?ナゼか滑ってるオネーチャンたちにはやたら水色のジャケットにアイボリーのパンツ姿が多かったコト、食堂はたしか中腹に数件並んでたような記憶があるが、今は一軒しか残ってないみたいだ・・・・・・で、そこかもしくは一番下か、どっちかに入って昼は食ってたハズなのに、それもやっぱし想い出せない。まぁどうせ結局はいっちゃん安いカレーばっかしだったんだろうけどさ(笑)。
 恐らくそれには合理的な理由がある。上手くなったし道具も良くなって単純にスピードアヴェレージが上がってトバしまくってたからだろう。コケる回数にしても初年度よりは格段に減ったので、座り込んで周囲を見回したりすることが少なくなってたんだと思う。

 いやいや、それより何より、多くの仲間と一日中何がそんなに面白いのかっちゅうくらいにゲラゲラ笑いながらあーでもないこーでもない、ってやってたのばかりが強烈に印象に刷り込まれて、モノクロームでワビサビな風景を始めとするシーナリィがあんましアタマに入らなかったのかも知れない。
 思えばみんなまだ若くてホント屈託のない笑顔だった。童心に帰ったかのように無邪気だった。AもTも、T本も、Gチャンも、Uも、Oも、Yチャンも・・・・・・唯一笑顔ぢゃなかったのは、ずーっと昔に駄文にまとめた「口で滑る」ハッタリ野郎のK君くらいだろう。彼は実はまったく滑れないのに、スカしてみんなに見栄張ってたのがモロバレして、「ゲレンデトップに連れてかれて放置プレイ」っちゅう、ほぼ処刑に近い目に遭わされたのだから(笑)。

 あれから早や20年以上の歳月が流れた。当時のメンツでその後全くの音信不通になったのもおれば、住む所はそれぞれながら、今もたまに会社で顔を合わせるのもいる。当然ながらみんな老けたし、それなりに責任やら立場が出来たりもして忙しく過ごしている(・・・・・・ユニコーンの歌詞みたいだな、笑)。時下ますますご清栄、っちゅうこっちゃね。ケッッ!

 そんなんだから当然、あの北但馬の小さなゲレンデにみんなで集まるなんてことはもうない。仕方のないコトとは申せ、いつまで経っても大人になれないおれにはちょっとばかし寂しい。



註:上でもちょっと触れてるが、関西とは申せやはり雪山、危険は危険で後からマジメに調べてみたら、氷ノ山の遭難事故は1997年、ソラ山はおれの勘違いで1994年、さらに古くではたしかハチ北で資生堂社員遭難事件ってのがあったと思う。日本の伝説的登山家である加藤文太郎でさえも、氷ノ山~扇ノ山と冬季単独縦走中に遭難しかけてる。くれぐれもご注意を。

2020.12.18

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