「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
ミカタ奥ハチの記憶


懐かしいなぁ~・・・・・・専ら図の右の方を滑ってました。

 もぉ何だかんだで四半世紀である、スノーボードっちゅうのをやり始めて。

 当時、高槻にあったトポスって、ダイエーのやってるディスカウントストアで初めてのボード買ったんだった。そうそう、トポス。黄色い看板だったんだけはハッキリ覚えてる。当時は摂津に住んでて、どうして茨木通り越してワザワザそんな方まで出かけてったのかは覚えてない。ビンディング付きで14,800円だったっけかな?とにかく激安は激安だった。153cmのツインチップで、構造はウレタンコアに素麺ソール(P-TEX1000のコト)・・・・・・まぁ今から思えばヒデぇ板でしたよ。あぁ、想い出した!売場にあったDivision23の板がとてもカッコ良くてサイズ的にも丁度だったんだけど、なんぼディスカウントになってるとは申せとても当時のおれの財力では買えなかったんだ。アレは悲しくて悔しかったなぁ~。

 当時は広いゲレンデに何本もリフトが備わったようなマトモなスキー場ではスノボ規制が掛かってることが一般的で、ボーダーが行けるのはちょっとショボい格下なトコばっかしだった。鉢伏山界隈だと名門のハチ~ハチ北はNGで、OKなのは東ハチやミカタ奥ハチ、当時でさえ既に終わりかけてて週末のみやってたリフト1本だけの葛畑くらいなワケっすよ。ニューおじろやソラ山、氷ノ山国際でさえもアウトだったっけかな?

 そんな中スノボ全面滑走可で、奥神鍋やアップかんなべと並んで腕利きが集うと言われてたのが東ハチだった。まったくの初めてで、それも一人のコソ練でかような場所にいきなり挑戦するのは何だか畏れ多いカンジで気後れしたのと、登高リフトで上がらなくちゃならない・・・・・・つまり最後は下まで滑って下らなくちゃならないのが、万一その日一日である程度マスターできなかったら涙目モンなんでパス。そうなるともぉミカタ奥ハチしかないのである。

 ところがこれがまた遠いんだわ。地図を見ていただければ分かりやすいが、大阪方面からだと鉢伏山をグルーッと反時計回りで大きく回り込むように国道9号で入ってって、今や酷道として有名になった国道482号に折れてさらに裏に回ってニューおじろを通り過ぎ、細い坂道を登り詰めたトコにある。ハチと名の付く他のスキー場に較べると10km以上余分に走らなくちゃならない。これだけで既に集客には条件厳しいよね・・・・・・ま、おらぁヨメの実家から軽トラ借りて行ってたから大して問題はなかったけどさ。。

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 小さなスキー場であることはシロウト目にもすぐ分かった。駐車場からちょっと行くとチケット売り場の小屋があって、その向こうにはもうリフトが見えてる。平日だっちゅうのに意外にもお客さんは多く、その95%くらいがボーダー連中だった記憶がある。事前に解説本読んで学習した通り、左足だけビン締めて、とにかくまずはリフトに乗ってみることにする。こぉゆう時の慎重さと無鉄砲さのヘンなバランスはおれのある意味長所なのかも知れない。この熱心さが仕事にも顕れてたら、もぉちょっとはおれも出世してたろう(笑)。
 そっから先の難行苦行は昔駄文に書いた通りだ。その日はそれでも8本滑って・・・・・・もといコケまくって、最後は何とかテールを滑らせながらも下れるようになった。リフトに乗ってる時は目を皿のようにして、上手に滑ってるヤツの動きから何か盗もうと必死だったのも我ながら微笑ましい。

 リフトは4本あったけど、上の方のが動いてるのはその後もついぞ見たことがない。ひょっとしたら休日だけ動かしてたのかも知れない。だから上に掲げたゲレンデマップでいうと38度の壁みたいなトコやチャレンジエリアなんてのは未体験のままに終わってしまった。輸送力自体もかなりショボくて、リフトが固定式なのは当然として、ペアは下の右側の1本だけ、左側や図の左上のポールバーン/シュテムゾーンに沿って斜めに走ってるのはシングルだった。もちろん各コースの長さだってたかが知れてる。大きくトラヴァースして距離稼いでもせいぜい1,000mくらいではなかったかな?
 ただ、ボード初心者にとってひじょうにありがたかった点もある。ゲレンデ下部に付き物の死ぬほどダルい緩斜面が殆どなかったのだ。滑り出しが少し急、そいでもってちょっとなだらかなバーンの後、リフト乗り場までドーンと結構一気に滑り降りるようなコースだったから、最後の最後に失速して止まってしまい、板を外してとぼとぼ歩くなんてこととは無縁だった。

 ともあれ乗るアソビって、コツさえ分かれば上達は早い。3回目くらいからはギャップで跳んでみたり、スイッチスタンス練習したり、ロクに基礎も出来てないのに見よう見真似の覚えたての素人がやりがちなバカなことを雪まみれになりながらやってたな。
 当時はまだハードブーツにアルペンボードもそれなりに多く、とにかくスピード命!カーヴィング命!な滑りも見てて興味を惹かれたものだ。エッヂの切り返しの際に多分ちょっと飛んでんだろうが、細い三日月がいくつも並ぶようなシュプールは見るからに切れ味を感じるモノだった。一方、現在一般的なフリーライド系は、夏はサーフィンやってそうな雰囲気のニーチャン・ネーチャンが目立ってたと思う。どちらかっちゅうとスケートライクな乗り方が大半で、軸足入れつつも少し後傾でルーズなんだけど、概してレベルは高かった。

 そう、まだブレイク前夜くらいでボードはまだまだハードコアスポーツだったのだ。ホントに好きなヤツだけがどハマリで狂ったように行く。そんな中、おれ一人だけが異分子だったかも知れない。

 初年度は結局、ミカタ奥ハチには7回行ったと思う。朝のリフトの動き初めから、夕方になって蛍の光が流れ、投光器に灯が点り、ナイター用の整地のためのピステンが盛大に排煙を噴き上げながら動き始めるまで、とにかく無我夢中でひたすら滑りまくってた。馴れてからはビンディグ外さずにそのままリフトに乗り込んだりもしてたくらいで、多い日は30本とか殆どサルセン状態で滑ってた。
 そうして昼飯はいつでも中腹にあるゲレ食の600円のカレーライスだった。何せそれがいっちゃん安いメニューだったのだ。カツカレーは千円で高くて食えなかった・・・・・・なのに500円もするバカ高いロング缶のビールはキッチリ呑んでた(笑)。呑んで最初の1~2本の滑りはちょっとフワフワするけど、ものすごい運動量だったんだろうな、すぐに抜けてたように思う。

 そんな風にひたすらやってりゃ、自ずとなけなしの金で買った道具の特性なんかも分かって来る。断言できることは、どぉにもならんくらいにヘチャチャでホチョチョな板でありビンであり靴である、ってコトだった。ちょっと雪が荒れてるとパンチングっちゅうて板の先っぽがバタバタする。フレックス/トーション共にグニョングニョンに軟らかいから、踏み込んで寝かし込んでも何かスパッとせず、雪に負けてスピードが乗りにくい。KUJUっちゅう聞いたこともないブランドのビンディングは塩化ビニールを固くしたような感じで踏み込むとビンディングのベースプレート自体が浮きあがってる(笑)。オマケにローバックにもほどがあるくらいに踵の後ろのプレートが低くて柔らかい。さらにベルトは締めにくいし、目一杯締めてもちょっと踏み込むだけで靴の中で足裏が浮きまくってる。今はもうそんなアホな補助具は無くなっちゃったみたいだが、足の浮きを押さえるために靴の外側から巻き付けて締めるベルクロなんてのを追加購入したくらいだ。
 しかし、決して貧乏人の負け惜しみではなく、そのような限界の低い道具だったことは、結果的には良かった。今から思えば異常に低い速度域で、いわばスノボの力学っちゅうかメカニズムみたいなのを一から体得できたからだ。身体をどう乗せればどんな風に力が掛かるとか、曲がるとか、跳べるとか。

 そしてさらに、小さいゲレンデでコースヴァリエーションが少ないっちゅう、通常はデメリットでしかないことが何より上達の助けになってたように思う。同じところをしつこくしつこく繰り返して滑り込むのは、前回の滑りを振り返りながらいろんなことを試したり修正したりできるので、地味だけど基礎レベルの上達にはもってこいなのだ。ホント、1シーズンだけで一通りのことが自由自在に出来るようになったのは、ミカタ奥ハチのあの小さなゲレンデあったればこそだったと思う。

 しかし、やはりちょと遠いし、馴れるといささか物足りないのはどぉしようもなく事実だった。だから翌年からは河岸を東ハチに変更したのだ。ここはも少し広くて、チャンとリフトも全部動いててゲレンデトップまで行けて、一番下まで下れば距離も2,000mだったかな?まぁそこそこあって、上述の通り上手いヤツも多くて、おれも道具からウェアからスッカリ新調して、見た目だけはいっぱしのクールでメロウな(笑)スノーボーダーになってムチャクチャにブッ飛んで滑りまくってた。ゴメンね、ミカタ奥ハチ。

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 中小のゲレンデが我が世の春を謳歌できたのはしかし、それから数年くらいまでだった。日本のスノースポーツ人口全体が減少する中で、2000年前後を境にボード禁止だったところがヤセ我慢も限界に達したのか、次々と解禁に転じたからだ。「死んでもボードは受け入れないぜっ!」くらいの勢いで豪語してた野沢温泉や水上の武尊あたりもこの辺で陥落したんぢゃなかったっけかな?そうなると規模の大きさやアメニティ施設の充実等、どう考えたって中小は分が悪い・・・・・・ってーか大手が禁止してくれてるからこそニッチでやれてたんだしね。要は束の間の繁栄だったワケだ。

 ミカタ奥ハチはやはりそのアクセスの悪さと規模の小ささが致命的だったと言える。その後、経営権が譲渡されたのか「ミカタ・スノーパーク」と名前を変え、週末のみのミニマムな営業に切り替えて延命を図ったものの経営状態は好転せず、最後は何と集落の住人6人に丸投げ・・・・・・もとい委託されて細々とやってたのだが、ついに昨冬(2019-2020)、記録的な暖冬にトドメを刺されて廃業したらしい。いや、よしんば昨シーズンをヘロヘロで持ちこたえてたとしても、今年のこのコロナ禍では結局どうにもならなくなってたろう。遅かれ早かれ、終焉は迫ってたのだ。
 実はその名前からも推測される通り、ハチ~ハチ北とはゲレンデトップで繋がってるコトは繋がってた。ただあっちの方が少し標高が高いから、奥ハチからハチへはハイクアップしないと行けない。今更「たられば」を言ったって仕方ないけど、この連絡区間に設備投資してリフトを新設してたら、関西圏では珍しいくらいの雄大なゲレンデのスキー場としてもぉちょっとは流れが変わってたかもしれない。でも、逆さに振ってもそんな資金はどこにも無かったろうし、貸してくれる奇特な金融機関も無かったろう。今となっては夢のまた夢なハナシだ。
 東ハチもその後、「ハイパーボウル東鉢」と名前を変え、隣接してたソラ山(こっちも「スカイバレー」って名前に変わったな)と一体化して今に至ってるが、最大のハチ~ハチ北がボードを全面解禁して以降、やはり経営はかなり苦しいらしい。そうそう!ハチ~ハチ北にしたって昔は資本が違って犬猿の仲で、隣り合ってるのに滑り込めない問題を抱えてたのが、スキー人口の減少っちゅう背に腹変えられない状況の中で呉越同舟、シブシブ手を結んだんだもん。

 いやもうスキー場で笑いが止まらないようなトコって、日本に一つもないんぢゃなかろうか。大体、もぉ若者居ませんもん。居たってみんなビンボーだし、スマホばっか見てるし、そんなロクすっぽ寝ないで何時間も掛けてゲレンデに毎週のように出掛けるなんて難行苦行しなくたって、他にアメニティはいくらでもありますもん。
 しかしかかる状況を招いた原因の、もちろん全部とは言わないまでも、幾許かの割合をスキー場自体が占めていたのも紛うことなき事実だ。冬の地元の現金収入のためだけで顧客満足は二の次、泥と雪のゴロンゴロンの駐車場でもキッチリ千円取り、入れるだけバンバン客入れて平気で何十分ものリフト待ちの行列を生み、席の確保だけで一苦労なのに質の低い食事をバカ高い値段(昔のバートンのカタログで「料金は三ツ星レストラン、中身は機内食」って揶揄されてたっけ、笑)で提供してたら、そらそのうちきょう日のコスト意識の高い若者は離れて行きますって。「とにかく都会から金落としてもらやぁエエやん」みたいな、安易で阿漕なビジネスの底の浅さに誰もが気付いてしまったのだ。それはそれで間違いなく事実だ。

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 回数で行けば遥かに沢山行ったはずの東ハチより、不思議とミカタ奥ハチでの様々なシーンの方が記憶に鮮明に焼き付いている。当時はまだ写メなんてものもなかったし、フィルムカメラなんて持ってってもコケて壊すのが分かり切ってたんで、写真は一枚も残ってない。何かとても惜しいことしたように思う。

 もう、ミカタ奥ハチが復活することはないんだろう。単純だけどとにかくそのことはやはり少し寂しい。

2020.12.02

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