「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
100年のうたかた・・・・・・化石燃料世紀の終わりに


T型フォード、実に1,500万台も作られた。色は黒しかなかったらしい。

 実はクルマを買い替えた。

 ちょっと前に書いた通り、今までのクルマがそれはそれはもう笑えるほどの燃費の悪さだったから、ハイオク指定だろうがターボだろうが何だろうが、相当ムチャクチャなクルマ買っても、最近のなら経済性で劣ることはまずありえない。だってアータ!冬の街乗りなんてリッター2km台にまで下がるんですよ。
 それでも愛着があったのと、オンロードでの高速巡航性とオフロード走破性の両立、大きすぎないボディサイズ、見切りの良さ、積載量のデカさ等々でナカナカ代わるものが見つからなかったので10年近く乗ってきた。しかし、バキバキに林道でブン回したりといった長年の酷使が祟ってか、このところ急速に随所にガタが出始めた。

 まずは走ってると尋常でなくボディのあちこちが軋んで、うるさくって仕方ない。あるいはドアの縁取りのゴムが原因か?と思って保護剤塗っても効果は焼け石に水。リアゲートは当て逃げされた影響か、開閉の度にゲコッ!とかイヤな音を立てる。エンジン自体もオイル換えようが何しようがフケ上がらず、振動が激しくなってきた上にひどく始動性も落ちてきた。ATの変速ショックも大きい。ある日、振動のせいかサンバイザーがボコッともげた。見てみるとネジの台座がバカになってしまってる。ショックも完全に抜けてしまってるが、今さら脚だけランチョ9000とかにしたって意味なかろう。トーションバーやコイル、スタビライザーの剛性感も怪しい。タイヤもパッドも交換時期が近い。タイミングベルトもそろそろヤバいし、クーラントもアウトかな?長い山道を登っててアクセル戻すとエンジン止まったりすることがある。電球も切れやすくなった。スピードメーターはいきなり時速100kmを指したりする、信号待ちで停まってるのに(笑)。

 元々の燃費の悪さに加えてボロボロに満身創痍なのである。これでまとめて整備に手ェ入れたら一体全体ナンボかかるねん!?大体、近所にディーラーもないぢゃないか。

 それほど家計に余裕がないのと、新車にもう昔みたいにときめかなくなってるので、Gooだのカーセンサーだのと、中古車サイト見ては最近のクルマ動向や相場を調べて候補を見つくろってたのだが、どうにも実物見ないと何だかよく分からないし不安だ。とはいえそんな急ぐ買い物でもなし、まぁ、しばらくは知識増やせばいいや〜くらいに思ってたある日、買い物ついでに中古屋に寄ってみたら手頃なのがあった。
 ・・・・・・10分後には売買契約書にサインしているおれがいた。年式や距離、状態、価格が自分で見て妥当なら、あとの細かいことはどうでも良かったのだ。店の人は驚いてたが、小心者のヨメはいつまでたっても変わらないおれの余りのアバウトさに呆れつつ引いてた。すまねぇ!こんなダンナで。
 かくして新しい(?)クルマが家にやって来た。

 なんだぁ〜、無感動なフリしつつ、実は買い替えて結構喜んでるんやんか、おれ。こんなに長い前説書いちゃってさ〜(笑)。

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 狷介なようで実は稚気溢れるバカなオッサンが、たかだか200数十万の中古車に無邪気に喜んでる。その一方で、クルマ社会そのものの将来は極めて悲観的と言わざるを得ない。

 今後、少なくとも石油燃料を用いる自動車が世の中から駆逐されて行くことは間違いないと予想される。すでに兆候はある。化石燃料の枯渇、高踏、先進諸国の急速な少子高齢化、地球温暖化や有害物質による自然環境の悪化・・・・・・それらを背景にトヨタ・プリウスに代表されるハイブリッド車がバカ売れし、電気や水素燃料電池を用いるクルマの実用化が急務となっている。
 これらさまざまな取り組みの中でも極め付きはインドのタタが出したっちゅう圧縮空気自動車だろう。コペルニクス的転換っちゅうかコロンブスの卵っちゅうか、このクルマ、「空気の吹き出す力」で走るのだ。ロケットみたいと言えば聞こえは良いが、むしろトンボの幼虫のヤゴみたいだよね、これって。

 もっぱらこれらはエコロジーのコンテクストで語られることが多いけれど、実はおれには「大衆が自動車を所有できない時代が到来しつつある」ことへのメーカーの必死の抵抗のように見えてならない。大袈裟に換言するならそれは、T型フォードが世に出てクルマの大衆化が進んで今年でちょうど100年、所謂「自家用自動車」そのものさえもが大きな転換期に差し掛かっているのではないかという疑念でもある。

 疑念、って書いたけど、大量生産・大量消費時代を支え、また象徴でもあった自動車の世紀に翳りが出ていることを、おれは決して否定的にのみとらえてるワケではない。自分のことは棚上げして本当に申し訳ないが、大衆化は本質的には罪なコトなのである。ずいぶん前にも書いたと思うが、フランス市民革命の結果、特権階級の趣味であった狩猟が一般市民に広がったおかげで、フランスの固有種の多くは絶滅した。恐ろしいことにその史実と、誰もが自動車を保有するようになったことで自然がここまで狂ってしまったこととの間にさほどの懸隔はない。
 だから平たく言うと、巨額の投資を行って1台1台の二酸化炭素排出量を減らすよりは、世の中の自動車の台数を10分の1とか100分の1くらいにした方がよっぽど手っ取り早く、またはるかに環境には効果的なのだ。その方策はただ一つ。簡単なことだ。中産階級がクルマを持てなくする・・・・・・それだけだ。

 「大衆化」とはある意味、業病、それも猖獗を極める重篤な病だ。それにまだるっこしい対症療法を繰り返して一体どうなるものかと思う。もちろんおれも大衆の一員なんだけどね。
 そう、つまりおれ自身が病の一部をなしているウィルスとかアメーバの1細胞ようなものだ。どだい、おれは通勤や通学、あるいは仕事に自分のクルマを使ったことがない。日本のあちこちにクルマで出かけてはノー天気に温泉に入り倒すため「だけ」にクルマに乗ってる。実用面ではせいぜい数週間分の買いだめで近所のスーパーマーケットに行くくらいなモンだ。非生産極まりないっちゃ非生産極まりない。これほどのムダもないだろう。それは重々承知しているが、残念ながらおれは環境保護団体の活動家ではないし、なりたくもない。

 一つだけ抗弁を許してほしい。

 おれはクルマがあろうとなかろうと、どぉせ結局は出歩いてしまうタイプなのだ。ここまで書いたとおりのペシミズムは要は微かな罪悪感めいたものに他ならないのだけれど、別におれはイデオロギストではない。で、今はクルマが一般的だから手段として使ってる、それだけのことだ。ホントのところは鉄道やバスを乗り継いだっていい。自転車だっていい。それらさえなくなった、っちゅうんなら、たとえ徒歩でも・・・・・・ちょとしんどいけど(笑)。でも、もしそうなれば再び世界は広く、眼に映る風景や事物には驚きが戻って来るかも知れない。

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 ともあれ100年のうたかたの後になお、化石燃料を使わない形で自家用自動車という大量生産・大量消費の申し子がこんなにもワラワラと走り続けていることができるのかどうか、これからしっかりと見極めていきたいとだけは思う。

 最後に蛇足だが、今回のタイトルがヒカシューの「20世紀の終わりに」のもじりだって気付かれた方・・・・・・います?


目下最も成功した次世代のクルマ。トヨタ・プリウス

2008.05.17

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