「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
精進落としの宿・・・・・・伊勢・麻吉旅館


GoogleMapで見た麻吉旅館全景。ピン留めされてるのは離れ。
左上の白いクルマがあるトコが最上階、そこから右下に向かって建物がちょっとづつ斜めに積み重なって下に繋がってる。

https://www.google.com/より
 「精進落とし」っちゅうたら、信仰が日常から遊離し矮小化してしまった現代に於いては最早、葬式の後とかに参列者に食事や酒を振る舞うことしか指さなくなっちゃったんだけれど、かつては色んな寺社仏閣へ詣でる前に精進潔斎して、そいでもってお参り済んだらここぞとばかりに飲めや歌えのドンチャン騒ぎに繰り出すことを専ら意味していた。
 精進潔斎とは一言で言えば俗世の垢を予め落としておく作業であって、肉や魚といったナマグサものを摂らない、酒を飲まない、嗜好品を控える、歌舞音曲を断つ、セックスしない・・・・・・つまりは一定期間、禁欲的に過ごすワケだ。精進落としはその反動やったっちゅうこっちゃね。
 同じような風習は他宗教にも存在し、例えば有名なイスラムのラマダン(断食月)なんかはほぼ似たような感じで今も重要な行事であり、終わるとバーッと派手にやる習わしがある。あぁ、カーニバルもそうだよね。

 それかあらぬか、遠方から団体の参拝客が大挙してやって来るような有力寺院・神社の周りには遊郭が発達していることが多かった。実見した例だと、青森は下北半島、田名部神社の境内を取り囲むように今もスナックその他が固まる田名部町遊郭、大阪の生駒山のてっぺん、聖天さんの門前に残る宝山寺新地なんかが挙げられる。長野の善光寺の門前町もちょっとそんな雰囲気あったっけかな?探せば同様の例はもっと見付かるだろう。

 あくまでおれの勝手な想像だけど、宗教施設と売春窟っちゅう聖と俗の、それも極点同士が結び付いたのには他にも理由があるのではないかと思ってる。
 一つは、聖と俗は数直線のプラスとマイナスのように遠く離れて存在するのではなく、ある種の円環構造の中にあって、その果ては実は同じような地平にあるのではないか?っちゅう民俗学的、精神医学的な考え方だ。デルフォイのオラクルを届ける巫女は同時に「神聖娼婦」として、参る者と一夜を過ごしていた。また本当に存在したのか、あるいはギリシャ神話に詳しかったから熊野サーガとして創作したのかは分からないが、中上健二の小説には、紀伊山中で巫女修行に励む若い女性の集団が土方や樵、鉱山人夫等に春を鬻ぎながら、山から山へ渡り歩いて行く・・・・・・ってなエピソードが繰り返し出て来たりもする。
 もう一つは政治的な意図だ。寺社仏閣も遊郭も中世日本においてはかなり強力な治外法権のアジールであったのは間違いない。アジールが為政者にとってまことに不都合な、目の上のタンコブみたいな存在であったことは言うまでもなかろう。それが江戸時代になり、徳川幕府による強力な垂直統治が進む中で、ある程度大衆を慰撫する機能は残しつつも階級化によって権限を集中させず、しんねりと特権を剥奪しながら効率的にコントロールはしたい、ってなマコトに虫の好い理由で、極めて巧妙なカラクリでこれらをくっ付けちゃったのでは?ってコトだ。江戸のように大きな町ならともかく、地方でこうしたアジールがあちこちにあるのは管理上いささかめんどくさいもんね。案外、精進落としのドンチャン騒ぎ自体が官製の仕組まれたシステムだったのかも?っちゅうたら考え過ぎか。

 ・・・・・・とまぁ、あれこれ夢想を巡らせてたらキリがない。そろそろ本題だ。

 今回取り上げる伊勢の麻吉旅館は、そんな精進落としのための遊郭が奇蹟的に残った例として、また同時にマニエリスティックな奇想の建築としても知られる現役の旅館である・・・・・・詠み方は「あさきち」、なんかちょと可愛い。

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 内宮と外宮の間、旧・伊勢街道沿いの古市の町もまた、お伊勢参りが済んだ後の精進落としのための遊郭であった。かつては国内でも最大級の規模を誇ったというが、今はもうまったくといって良いほどその面影は残っていない。切り通しで近鉄電車の線路が引かれたこと、県道が離れたトコに整備されたこと、戦争末期の空襲で丸焼けになったこと、さらには昭和30年代初めの売防法施行がトドメを刺して、吉原や飛田、あるいは信太山、五条楽園のように非公然の生き残りを図ることもなく消えて行った。ひょっとしたら遊郭の伝統と格式への矜持が、単なる風俗街として残ることを良しとしなかったのかも知れない。ともあれ今ではいささか活気に乏しい古びた住宅街が広がるだけである。昔の栄華を物語るのは妓楼跡を示す石碑くらいしかない。そんな町の一角に麻吉旅館は今やちょっと場違いな雰囲気さえ漂わせながら悄然と残る。

 外宮の方から街道の狭い道をトロトロ走って着いたそこは、一見普通の二階建ての木造旅館だった。内宮は混んでてクルマ停めるのに往生しそうだろうし、まずはクルマと荷物を置いてカメラだけ持って内宮に向かうことにする・・・・・・って、うわ~っ!これが噂の懸崖造りっちゅうヤツかい。写真で見るより遥かにスゴい・・・・・・っちゅうか実にヘンテコリンな建物だ。これまで懸崖造りの建物については結構な数を見て来てるけど、それらとは根本的に違うヴィジュアルで、むしろ会津のさざえ堂をおれは想い出した。

 ちょっとした崖といって良いほどの急斜面に、石段が大きく右に曲がりながら下って行っており、その両側に何とも危ういバランスで木造の建物がややズレながら雛壇状に積み重なってる。最上階といっちゃん下ではほぼ直角に建物がひねれている。地形や道に対して全く逆らってない、っちゅうか木造で基本四角な建物をこんな風にズラして積み上げて果たして力学的に問題ないのか、素人目にも不安になってしまうような建て方だ。こんなんでも濃尾地震や昭和南海地震には耐えたんだよな、ダイジョーブだよな。
 それは清水の舞台のようにキッチリ幾何学的に足場が組まれた一般的な懸け造りとは全く異なる。そら危なっかしいっちゃぁ、日本の懸崖造りの精華とも言える鳥取・三仏寺の投入堂だって危なっかしいが、ありゃぁ立地がとんでもないだけで建て方としては見るからにひじょうに理に適ってる・・・・・・だからこそ千年近くもあぁして断崖絶壁にへばりつけてるワケだが。
 そんなのからすると、麻吉旅館はもぉテキトーっちゅうかムチャクチャっちゅうか、当時の大工の技術の高さっちゅうよりはアバウトさを感じてしまう。

 建物は複雑に絡み合いながら4層、5階建になってるらしい。ともあれ一番坂の上が入口で階下に向かって部屋が広がってるのは、何だか伊豆や熱海の海に面した観光ホテルみたいだ(笑)。ただ、個々の建物はそれほど大きくはなく、せいぜい3~40坪ってトコだろうか。ちなみに石段を挟んで空中回廊で繋がる南側の建物も二回りくらい小さいながら同じように微妙にひねれた懸崖造りとなってる。また上からだと住宅街だが、下は多くのクルマが行き交う広いバイパス道に面していていささか味気ない。すぐ近くには道路拡張で境内を削られたと思しき磐座のあるお稲荷さんがあったりもするが、通るのはクルマばかりで誰も歩いてない。
 建造は200年前とももっと前とも言われ、ハッキリしたことは分かってないらしい。あるいは気ままに増築を重ねて何となく繋いでったら今の姿になったのかも知れない。ともあれ今は国の登録有形文化財に指定されてるそうで、隅っこには麗々しくブロンズのプレートもあった。そう、エラそうに指定するばっかしで補修費・維持費はあんまし出してくれず、老朽化や火事で建て替えようにも消防法や建築基準法が引っ掛かって無理なのは変わらないことで有名なアレ・・・・・・幼稚園児の作る紙の勲章みたいなモンだ(笑)。
 建物内部はおれの拙い筆力ではどうにも説明できないんでギャラリー、あるいはネット上に優れた写真があるんでそちらを見て欲しい。言えることはとにかく、自分が何階に居るかがサッパリ分からなくなるってコトだ。
 意外なコトに館内の内装は構造そのものの複雑怪奇さからするとワリとプレーンな印象で、妓楼にありがちな、例えば飛田新地の「百番」みたく贅を尽くしたっちゃぁ聞こえは良いが、要はコテコテでキッチュでバッドテイスト、脈絡なく珍奇さのみを追求したような意匠や装飾は見られない。明治時代にはすでに上の座敷は「聚遠楼」という名でフツーの宴会会場になってたようだし、実は妓楼としてはそれほど目立った存在ではなかったのかも知れない。

 吞気に書いてるけどこの旅館、江戸時代がそのままタイムスリップしたような風情を体験できるとあって国内外からの人気はとても高く、取れない時にはホントに予約が取れない。たまたま今回は閑散期で平日ってコトもあって、比較的安く泊まれたのだった。もちろん有名人の宿泊、取材も多いみたいでビッシリと色紙が張り出されてあったりする。そんなんで泊まりに来るお客さんも、一周回って指名買いで選ぶような人が多いのか、食事はナカナカ上品で凝ったコースが出た・・・・・・ボリューム的にも上品すぎたけど(笑)。
 ぶっちゃけ、一般的なアメニティ等を期待してココに泊ってもコケるだけだろう。部屋だって普通だし、風呂だって家庭用のに毛の生えたようなんだし、何せ昔の人のサイズだからヨメの背丈でも階段の上り下りでアタマぶつけそうになるし・・・・・・いやマジちょっと当てたし(笑)。

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 夜も更けた。

 この古市遊郭の最後の灯が消えてもう60年ほどになる。上述の通り、明治になって町の動線が変わり中心地が移ってしまったことから急速に寂れて行ったので、華やかだったのはもう100年以上も昔の話なのだ。三味や太鼓の音に混じって遊女の嬌声やらよがり声が聴こえることももちろんない。あぁそうだ、「油屋事件」として歌舞伎の題材にもなった妓楼・「油屋」もこのすぐ近所、今の近鉄の線路あたりにあったという・・・・・・よくよく事件の経緯を読んでみると、色恋沙汰っちゅうよりは、単に野暮でモテないニーチャンがマトモに相手してもらえなかったのにキレて暴れただけ、っちゅう気もするが(笑)。ともあれその頃がこの町の繁栄のピークであって、精進落としの名の下に実に猥雑極まりなかったワケである。日本最高の聖地のすぐ傍で。

 聖俗ないまぜになったこの猥雑なパワーをおれたちはもっと取り戻さなくちゃいけないんだよなぁ~・・・・・・改めてそんな風に考えてるうちに酔いが回ったおれは眠り込んでしまったのだった。


現在では昼間でも人通りの殆どない、ヒッソリとした石段の途中で(ギャラリーの再掲)。

2021.05.11

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