内房を海岸線に沿って南下すること数10km、いずれにせよ高い山に恵まれない房総半島で、数少ない山らしい形をした山・富山(とみさん)の麓近くに岩婦温泉はある。
海沿いの国道を折れ、平行して走る線路を渡り、だらだら走ると温泉の矢印。狭い農道を、牛小屋の臭いの漂ってくる集落を抜けて少し山襞に入ったどんづまりが目的地であった。
「温泉郷」と呼ぶのもおこがましいスケールで、「岩婦湖」とゆー、ただのため池の周りに旅館が数軒。オマケにその内の1軒はツブれて久しい様子。つまり鄙びたと言うよりは、寂れた佇まいの鉱泉なのである。
・・・・・・こんなトコだから勿論、大して眺望が開けるワケでも、秘境とゆーワケでもさらさらない。ギミックの全く無い、現前しながらも紗がかかったようなピンボケの、余りに平凡過ぎる風景。観光紹介では「静養・清遊」の典型的パターンであろう。
その名もズバリ「岩婦館」に入った。無論、何の変哲も無い小さな旅館だ。古くも新しくもない。隣に離れになった休憩室があって、思ったより沢山の年寄りがゴロゴロしてる。それなりに繁盛してるみたいだ。
700円也を払ってさっそく風呂に向かう。浴室の扉を開けると、強い硫化水素臭が鼻を衝いた。房総の冷鉱泉にしては珍しい泉質と言えるだろう。湯は淡黄色よりはむしろ明るい透明のオレンジで、小さな岩風呂に湛えられる。一瞬私はバスクリンを疑った。
カランの水まで鉱泉水。今時、これは極めて良心的な鉱泉宿である証だ。試しに洗面器に汲んでみたら、見る見る無色透明なのが変色して白っぽくなって行く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人の出入りはあるけれど、とても静かだ。おお!おあつらえ向きにウグイスまでホーホケキョと鳴いておるではないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
湯上がりに、壁に張られた切り抜きやら何やらをボケーッと眺める。温泉大王・美坂哲男氏のサインはこんなトコにまである。その上に犬の写真。何やこれ?何々、「このゴンは当旅館の親戚の犬で、主人が入院した時、1年余に渡って雨の日も風の日も休むことなく、飼主のいる病院に通い続けた忠犬です」だって。
余程、名物/名所に乏しいのか、あるいは仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の「忠」で「南総里見八犬伝」にちなんだのか、この「ゴン」、旅館のパンフにまでシッカリ解説付きで載せられていた。仕方ないか。だって観光の一番の目玉が「八犬伝」ゆかりの「伏姫の籠穴」とかゆー、ホラ穴らしいのだからな。ちょっと待て!あれってフィクションやろうが!
その他数少ない名所の一つが、最初に挙げた「岩婦湖」なる潅漑用とおぼしき山池である。どっひゃー!どこが「湖」や!?どこが?旅館前がそのまま池で、何人かの釣り客が糸を垂れている。しばらく見てたけど、全く動きがない。見てるこっちの方がイライラする位、みんな水面を見てるだけだ。おれは気づいた。
そうだ!ここでは何もかもが止まってる。
この無個性で緩慢な風景、その点景たる人々、遅咲きの八重桜、静かな午前の浴室、ウグイスの囀り、うららかな晩春の日差し・・・・・・どれもこれも確かに、いささかの不快もない、穏やかで落ち着いたものだ。
でも、全てはゆっくりと滅んで行く風物特有の停止感、或いはダウナーでテンションの低い至福とでも言うべきものに彩られている。
・・・・・・かくも地味な岩婦温泉、多分そんなに儲かってはないだろう。私は元来た道を戻りながら、漠然と考えた。起死回生の秘策はただ一つ。今更、観光ホテルでもあるまい。この弛緩しまくった凡庸な雰囲気をひたすら温存して、奇跡的なまでの「桃源郷」を目指すのだ。これならラクだ。何もしなくていい。
・・・・・・問題は、それを分かってくれる人が何人いるかですね。
補足:
これも湊温泉と同時期に書いたものである。この頃、東京に来たばっかりということもあってなぜだか房総半島にはよく出かけていた。なおここはその後、とある温泉ネットサークルのオフミとやらに誘われて再訪した。湯は循環に変わっており、白濁した色となっていた。このオフミ体験もキッツイものだったのでそのうちまとめたい。
|