一杯のラーメン(後編)


一乗寺「天天有」のラーメン。

http://www.rakuten.co.jp/より
 前回の続きだ。まずはカップヌードルについて。

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 「ビートルズがやってきた。ヤァ!ヤァ!ヤァ!」ってな今見ると異常に恥ずかしいキャッチコピーが昔あったけど、おれにとってはカップヌードルの登場はまさにそんな感じだった。「カップヌードルがやってきた。ヤァ!ヤァ!ヤァ!」ってなモンだ。彼のバンドの来日に後れること5年、1971年のことである。

 いやもうビックリしたね~。発泡スチロールで出来た容器の形、透明のプラフォーク、チキンラーメンのようでチキンラーメンでない、っちゅうか他の何にも似てない味、海老以外は得体の知れない謎の具材、そしてそのお値段・・・・・・全てが新鮮な驚きだった。
 前年には大阪万博が開催されたばかりであり、まだまだおれたちは「未来」とか「進歩」とか「文化」とかそんなもんを信じてた。そこに思いっきり従来のインスタントラーメンのイメージを打ち破るカップヌードルが登場したのである。いささか大袈裟かもしれないが、それは最早「事件」と呼んでいい出来事だった。
 ちょっと記憶があやふやだが、発売当初から3種類がラインナップされていた気がする。普通のと、カレーヌードル、そして天麩羅蕎麦の3種類だ。肉みたいな良く分からない具もヘンだったが、「カレー」のフリーズドライのジャガイモにも大層驚いたものだ。おれとしては一番食べ慣れた味に近い「蕎麦」が好きだったのだが、その後「どん兵衛」の発売に伴ってこいつは消滅してしまった。

 実は具材入りラーメン、っちゅう点では先駆けとなる商品が存在してた。どこが作ってたのか忘れたけど、「ラーメン家族」という名前の商品が60年代末期には売られていた。こいつは袋物であるにもかかわらず別添でフリーズドライの具が入ってたのである。中身が何だったかは忘れた。とにかく、普通のインスタントラーメンでもそれほどお安くはなかった時代に、チョロッと具が加えられただけで倍くらいの値段だったのだから随分な高級(?)ぶりではあった。残念ながらおれは2~3回しか食ったことがないが、味的にも高級感を追求しようとしたのか、かなりクセのあるくどい味だった記憶がある。

 しかししかしかし、カップヌードルは遥かにその「ラーメン家族」を凌駕していた。何より値段である。これまた記憶がおぼろげなのだけど、たしか100円だった。いや、「100円もした」のである!これはもうホンマ、とんでもないことだった。
 当時の100円がどれだけの価値かっちゅうと、近所のうどん屋で素うどんが60円で食えた。フジミの1/76の戦車のプラモデルが同じく100円、お持ち帰りの小ぶりのお好み焼きがたしか35円、夜店のアテ物が1回50円・・・・・・とまぁ、子供としては200円もあれば相当いろいろ豊かにモノが買えた時代だった。単純な換算は出来ないけれど、今の500円くらいに相当するかな?つまり、インスタントの分際で物凄い食い物だったワケっすよ。

 初めて食べたのは、母親の弟、つまり叔父が作ってくれた時のことだ。当時彼は祖父の家で家業のプレス工場を手伝っており、遊びに行ったおれを手招きしてその近未来の食べ物を見せたのだ。
 ワクワクしながらおれは3分キッカリ待って蓋をめくった。蓋の裏が銀紙になってるのも何だかちょっと未来っぽく思える。何だかラーメンとは思えないけったいな具が「ヌードル」っちゅう聞き慣れない言葉のことなのかなぁ?などと考えながら熱々を一口・・・・・・ぶっちゃけ物珍しさばかりであまり美味しいとは思えなかった。忌憚なく言えば、その思いは今でも変わってなかったりする。
 思えばこの叔父は変な縁の人で、たしか「カップ焼きそば」や「焼きビーフン」を初体験もこの人からだった。おそらく昼はジャンクなものでサッサと片付ける習慣があったのだと思う。カレーヌードルと天ソバを初めて食ったのはいつ、どこでだったか忘れてしまったが、何となくあの古い大きな家の、表通りから奥まったところにある坪庭を望む台所でだったようにも思えてくる。

 その後、各社は雪崩を打ってカップ麺市場に参入する。そのうちカップ焼きそばや「赤いきつね」といった本格的な饂飩も登場する。でも、カップヌードルが登場した時ほどの衝撃はそこにはもうなかった。カップ焼きそばの作り方が「焼きとちゃうやんけ!」って思ったくらいかな。

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 それから10年くらいはまぁごく普通にというか平均的にというか、カップ・袋の別なくそういったインスタントラーメンをたまに食ってた。一大変化が訪れるのは高校を出てからである。

 大学に通い始めて最初の冬休み、昼間に実家でゴロゴロしてるのも気鬱で(夜は週3回家庭教師があって遠出もままならなかったのだ)、おれはなんばシティのラーメン屋でバイトを始めた。何でそんな実家から遠いところにしたのかは良く分からない。期間は凡そ2ヶ月の約束だった。
 おれは元々料理が好きだし得意でもあるのと、「市井のプロ」みたいな存在に妙に憬れていたので、仕事はとても一生懸命にやった。それが証拠にたった2ヶ月の短期バイトなのに、皿洗いと米研ぎ、具の軽量なんてーのはすぐに終わって、サイドメニューの餃子を焼いたり、小海老の天麩羅揚げたりなんてのを任されるようになった。単純にそれは自分にとって嬉しいことだった。そうしてスープの仕込みやチャーシューの作り方といったのも盗み見しながら覚えたりもした。まるで板前の丁稚奉公みたいやね。

 ラーメン屋の出汁が一番美味い時間帯、ってーのがあることを皆さんご存知だろうか?行列が出来始める時間あたりが一番美味い。混んでスープが足りなくなるとガラや豚皮を追加せざるを得なくなる。そうなるとどうしても味がこなれないのである。元ヤンの社員のオッサンは「骨臭い」という言い方をしていた。また、混雑が終わった辺りは今度は逆にあまりにも出汁が煮詰まりすぎてしまってる。そうなると濃いだけで何となくシャキッとした感じが薄れる。
 麺を茹でるのも籠状のてぼよりは、大きな平たい鍋に湯を張ってラケットみたいなので茹でる方が美味いって風に教わった。火の通りが均一になるのと、麺の表面が荒れないかららしい・・・・・・とは申せ、厨房は狭くてそんな鍋を置くスペースがなく、てぼが8つ入るだけの小さな麺釜で茹でざるをえず、それを彼はいささか憮然として語るのだった。
 最も凄いと唸ったのはチャーシューの盛り付けだ。基準がチャンとあって、普通のラーメンでは2枚で11g、チャーシュー麺では5枚で40gと決まっていたと思う。当然ながらチャーシューのサイズは不均一だし、脂身と赤身によって同じ大きさでも微妙に重さが異なる。しかし、客が途切れたときなど、おっさんは事も無げに「これとこれで11や~」「これとこれとこれとこれとこれ、よっしゃ~40~」などと言いながらぞんざいにつまんで小さな秤に載せると、何度やっても、±1gの誤差もなかったのである。

 何てことないチェーン店のラーメン屋でもプロはプロだし、少しでも美味しいものを均質に供するためにいろいろ心を砕いてるんだなぁ~、とつくづく思ったものだ。

 繁華街であるから、土日の忙しさはそれはそれはもう殺人的だった。1日の売上が50万を超えると「大入り」で、ポチ袋に入った500円が手渡されるのだが、そんなん要らんからもっとヒマになってくれ~!と心の中で念じるほどに次々と客がやって来る。まだ大阪球場があって南海ホークスがホームグラウンドにしてた時代で、平日、昼のラッシュが終わったあたりで門田や香川なんかが食いに来たのを見掛けたこともあった。二人ともデカかった。

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 あちこちの店に通って、ラーメン屋らしいラーメン屋の味を覚えたのも大学に入ってからだ。学生の町だけあって、大阪とは比べ物にならないくらいラーメン屋の密度が高かった。

 元祖コテコテっちゅうかドロドロの北白川「天下一品」は一時ハマリまくって体重が激増したことがある。茹でた麺をわざわざしばらく吊るして柔らかく伸ばすなんちゅう、ムチャクチャなメソッドと、噂ではきな粉を溶かし込んで得られるポタージュのようなスープ、薄暗くて赤い店内、必ず勘定を安く間違えるアホな店員ばかりだったのさえも懐かしい。

 今や京都を代表する名店の一つに成長してあちこちに支店を構える一乗寺の「天天有」は、元は一乗寺商店街の西のはずれ、東大路を渡ったトコにある家族経営の小さな店だ。天下一品と九州系を折衷したようなラーメンで、他店より少し安くて、呑んだ帰りに良く立ち寄ったものだ。ただ、美味いことは美味いのだが、不思議なことにいつ行ってもスープがぬるかった。あるいはそれが流儀なのかも知れない。5年ほど前、京都で泊まった際、夜中に久しぶりに立ち寄ってみたら、相変わらずスープはぬるかった(笑)。

 関西では珍しく背脂たっぷりの銀閣寺道「ますたに」は当時から有名店で、昼間など大行列だったけれど、おれ的にはあまり好きになれなかった。なぜなら、当時のおれは九州系が一番だと思ってて、最近で言うところの「背脂チャッチャ系」にも一つ馴染めなかったのだ。でも、東京に越してきて有楽町だったかな、支店見つけて入って改めて食ってみたらひじょうに美味かった。

 九州系で絶対に外せないのは下鴨本通一本松のバス停前の「博多っ子」だろう。京都での本格的九州系トンコツの元祖といえる存在で、店の前はいつもトンコツを煮込む正直かなり強烈な臭気が漂っていた。ここだけは何かと地元贔屓の強い九州出身の連中も田舎の味に近い!と褒めてたもんだ。おれもこの店で初めてラーメン食って、これまで食って来た九州ラーメンは一体なんだったんだ!?と思うくらいの衝撃を受けた記憶がある。紅生姜や辛子高菜、替え玉といった今ではトンコツの常識と言えるシステムを初めて知ったのもこの店で、たしか替え玉10個、もしくは皿うどん10人前を制限時間内で完食するとタダだった。今はどうやらご子息が二代目を継がれているらしい。あの味が残ってると嬉しい。

 有名でもなんでもなかったけど、遅くまで飲んだときに重宝した銀閣寺交差点を南西に入った吉田山北の「ちょんが」や、卸売市場のバイトの夜食で必ず行った巨大提灯の五条通「横綱」、死にそうなおじいさんとその息子が二人で細々やってた修学院の「龍昇」なんかも忘れがたい。3杯食ったら永久無料の「ど根性ラーメン」で有名な北山堀川の「ラーメン日本一」、ああ、もちろん散々半額券のお世話になった「王将」だって忘れちゃいけない。誰かのクルマにすし詰めになって塩小路の「新福菜館」まで行ったこともあったっけ。

 就職して北摂に暮らすようになってからは、仕事が忙しい反動で行動半径はさらに広がった。ざーっと思い出すだけでも桃山台の超名店「副将軍」、中津の「らいよはうす」、桜ノ宮でエッチしたついでに寄ったりしてた東天満の「薩摩っ子」、大雨の中ドブに落っこちた高槻の「紅鶴」、梅田の地味で滋味な名店「揚子江」、ミナミの怪物店「神座」に「金龍」、焼肉食いに行ったのに気が変わって入った鶴橋の「二両半」、焼肉といえば美原の「真琴」、地層のようなチャーシューに感動した神戸の「もっこす」、山科の「夜鳴きや」・・・・・・遠路はるばる西脇にある有名店「大橋ラーメン」まで繰り出してったこともある。ホント数え切れないほどアチコチに出掛けてったモンだ。

 今から思えば、中にはさほど美味しくない店があったのも事実なんだけど、味の記憶なんてそのときのいろんなシチュエーションと渾然一体となってあるものだ。そんなものにどうしてAだのBだのCだの星いくつなんて付けられようか。

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 年取ったせいかもしれないが、最近は澄んだスープで醤油味の何てことないラーメンを食べることが多い。能書きだらけの日本酒が疲れるように、ギミックまみれのコテコテだとか極端な素材主義といった派手な演出はもうそれだけで疲れるようになった。「フツーに美味しい」くらいのラーメンが自分には一番合ってる。テーブルの上だって割り箸と胡椒だけあれば充分だ。キムチや生ニンニク、豆板醤に辛子ニラといった無料トッピングも以前は嬉しかったけど、最近すっかり要らないと思うようになった・・・・・・そうして気付いた。

 博多だ熊本だ札幌だ喜多方だと全国各地のいろんな味をウロウロした挙句、いつの間にかおれは、子供の頃に一度っきり食べさせてもらった屋台の、あの平凡な味を追いかけてるのだった。


「夜鳴きや」のラーメン

http://www.hotpepper.jp/より
2010.02.21

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