----あなたの一番食べたいものは何ですか?食材でも料理でも結構です。自由にお答えください。
こう尋ねられたら、みんなどう答えるだろう?
ある人は松阪牛、それもサーロインをブルーレアで、と答えるかも知れない。またある人は満漢全席、と答えるかも知れない。いや、おれはウニのてんこ盛りになった丼だ!いやいや、やっぱし明石の鯛でしょう!何をおっしゃる、伊勢エビですよ!うんにゃ、やはりこの世の美味はスッポンにとどめを刺す!そんなことはパリの三ツ星レストランのフルコースを食ってからヌかせ!フランス!?それならやっぱアレですよ!アレ!ガイジンのオネーチャン!・・・・・・って、うわ!佐川君が混じってたやんけ!!(笑)
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貧乏サラリーマンとはいえ、それなりに高価な食事にありつけることがたまにはある。また、あるいは決して高価ではないけれど、その土地、その土地の美味いもの、珍しいものに巡り合えることもままある。まぁ、今年はあんましどこにも行ってないけど・・・・・・。
フツーに今の調子で暮らしてりゃ、これからもいろんな美味い物を食べるチャンスは何がしかの形で巡って来るのだろう、とは思う。不満はない・・・・・・どころか、とてもありがたいことだ。
この数年を思い出しても、初めての食べ物にずいぶん出会えた。東北に旅した時に飲み屋で出た「ばくらい」と「ふじつぼ」なんちゅうのはその中でもトップクラスの珍しさだった。もちろん、珍奇なだけでなくその美味さにも特筆すべきものがあった。飯のおかずには似合わないが酒の肴としては絶品である。ああ、長崎で食ったカニやシャコも美味かったし、スッポンは見た目はどうにもグロだったけど、その雑炊の味と来た日にゃぁ、この世にこれより滋味のあるダシはないんちゃうか、と思うほどに複雑で繊細なものだった。
・・・・・・それでも、だ。
何かが違う、ってコトにある日気づいた。なるほど高価な食事は概して美味いし、知らない土地で知らないものを食うことには知的探求心や好奇心が満たされる喜びがあることは事実だけど、そこには決定的に欠けているものがある。おれはその食材なり料理なりを心の底から好き好んで食べてるのではない、ってコトだ。付き合いだったり、奨められたり、単に献立として並べられたり、興味を持ったりしたから食してるだけで、特段対象物への思い入れがあったワケではない。
いささか論理の三段跳びになってしまうが、「好物は決して美味いものとは限らない」と言える。マズウマとまで言う気はないけど、好物とは美味い⇔不味いの軸に対してリニアではない。むしろ記憶や生活習慣といった人生の時間軸に密接に結びついている。
そんな視点でおれがホントに食べたい物って何なんだろ?って改めて考えてみた。ヨメとスーパーなんかで買い物しててついつい買ってしまうもの、少々皿数が寂しい夕食でもそれさえあれば寂しさが気にならないもの、何となくこれまで食った回数が一番多いモノ、バイキングとかで無意識のうちについ取ってしまうもの・・・・・・そんなのを消去法で考えてったら、結局至極フツーのモンばっかしが残ったのである。
曰く、塩鮭、焼タラコ、トンカツ、うすあげ(油揚げ)、玉子焼、餃子、ポテトサラダ、お茶漬け・・・・・・って、ハハハ、なんぢゃ〜こりゃ〜。旅館の朝ごはんとかに並んでそうなモンが大半だ(笑)。列挙するのもバカらしくなるほどに、しょっちゅう食ってるもんばっかしやんか。
・・・・・・でも、みんなそんなもんでしょ。
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そりゃぁ、何のかんの言っておれは食べることは大好きだし、これまた、良く食べる方だ。好き嫌いも今はもうほとんどない。食に対する造詣は平均的な人よりは深いだろうし、独学だけどそこそこの調理技術だってある。だけど、他人から「グルメですね〜」と言われるのはちっとも嬉しくない。なぜなら、おれはグルメと称する人間が嫌いだからだ。一般的な意味での「美食家」、ってー連中だ。このエッセイのカテゴリーのタイトルはだから「B級」としてるのである。
とはいえ日本のグルメの嚆矢とも言える北大路魯山人なんて、とてもえらかったと思う。美味の追求が情け容赦なく、また常識や通念に捕らわれていないからだ。その味をどうしても知りたくて、嫌がってピーピー鳴くオオサンショウウオを締めて料理にしたエピソードや、自分の感覚と判断に基づいて、茶漬けにするには鮭より鱒、鯛は明石より朝鮮半島沿岸、って断言してたりするあたりはまさに真骨頂と言えるだろう。その精神の強靭さと自由闊達さが伺える。
どぉしようもなくダメなのは、その辺にゴマンといる、趣味を「食べ歩き」と言ってのけることに何の疑問も抱かず、ペダントリー丸出しのブログなんぞウダウダ拵えてるような連中だ。
このテのいわば「俗流グルメ」が権威主義者であることは今さら論を待たないけれど、そんな権威主義者たちの中でも最底辺の卑しくも醜悪な存在がコイツ等ではないかとおれは睨んでる。まぁ、老若男女問わず度し難いとは思うが、殊に平日の昼間、グルメガイド片手に厚化粧の我が物顔で闊歩して、今日はココ、明日はアソコと食い散らかしてるオバハン系ともなれば、もはやまったく救いようがないレベルと言えるだろう。
誤解のないようにお断りしておくと、おれは老舗や名店といった存在を否定してるワケではない。船場吉兆の一件でそういった店全体のホンモノぶりは地に堕ちた感もあるけど、暖簾守るため誠実にやってるところはいくらでもあるし、そこに余人には測りがたい鋭敏な感覚に基づいた超人的な研鑽や修練があるのは間違いのないことだ。
ただ、そんなものは味わう側にも相当の知識や見識だけでなく、人並み外れた味覚までもが要求される。そうでなけりゃ豚に真珠、猫に小判、ってモンだろう。客に対する背信行為は良くないとはいえ、所詮その程度の豚や猫ばかりなことを喝破していたからこそ、船場吉兆もあんな大胆不敵なことしでかしたのだ。
ちょっと小金とヒマができたからって、本物のグルメになんておいそれとなれるものではないし、その世界は殺気に満ちたフルコンタクトのセメントマッチの世界である。物見遊山の道楽なんかでは断じてない。だから、疲れる。
そう、美食は疲れるものでもあるのだ。想像してもみてほしい、三度三度の日常の食事が、五感と味蕾の全てを駆使して対峙せにゃあかんようなもんばっかりなんて、苦痛以外の何物でもない。四六時中追手を気にして一瞬たりとも気の休まる暇のない、抜け忍みたいな日々やがな、これって。
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人生も間違いなく半ばを過ぎたと思われる。遅かれ早かれ最期の日は来るんだろう。その日も平凡に塩鮭とか焼タラコを食っておれたら、それはかなり幸せなことに違いない。 |