ずーっと以前、友禅の町、京都高辻界隈の酒屋で働いてたことがある。実に古風な酒屋で、昔ながらの「大福帳」を使って掛け売りをやっていた。暮れも押し迫ってくると、何冊もその帳面を持たされて、配達のかたわら、師走の街を集金に廻らされた。
折しも友禅は大不況のさなか、訪ねた先が夜逃げしてた、なんてコトもあった。
雪の降る街を、お金集めてカブを走らせながら、西鶴がイキイキと描きだした町人の世界は今でもあるんだなあ、などとノン気な感慨にふけったものだ。酒屋の主人のジーサンは、それどころじゃなかったろーけど。
でも、そんな経験があってからというもの、師走の慌ただしさとはどうやら、富める者の多忙さではなく、貧しき者の足元からにじり寄って来る、不安な落ち着かなさなんだ、と思うようになったのである。だから、年の瀬の街は未だ、どこか悲哀に充ちたものに映る。
それでも万人に等しく、正月はやって来る。
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マンガ界のカルト的存在、日野日出志の短編に「元旦の朝」というシュールな作品がある。世間のヒンシュクを買い続けるグロテスクでスプラッターホラーな一連のストーリーではなく、元旦の朝、パラレルワールドになった普段の街に迷い込んでしまうとゆー、不思議な感触の内容だった。「世にも奇妙な物語」のノリを想像して頂ければ良いだろう。
年が改まるという気分。妙にヒッソリとした家々。シャッターを閉めて貼り紙の出された店が続く、ユトリロの風景画のような商店街。逆に普段の静けさがウソのように華やく神社・・・・・・なる程それらの風景は、普段の街を舞台にした、「反転した日常」といった感がある。
いや、あった、と言うべきか。近頃は、盆も正月も関係無しに世間全体が動いてるもんな。
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正月のめでたさ、って例えは悪いが、時効を迎える犯人の気持ちに通じるんじゃないか、と思う。何だか良く分からないまま、悪い事、つらい事、悲しい事が全部、夜中の時刻の一点を境にチャラになる。そんな感じだ。
「別に正月っちゅーても、何もあらへんしな」とか「門松や冥土の旅の一里塚」などと、ムリにドライに構えるよりは、大晦日と元旦の間の、実際以上に深い、時の亀裂を、ここは一つ、素直に味わうべきなのだろう。
初日の出、初夢、書き初め、姫初め。別に正月に限ったコトでもないが、ホント日本は初モノの大好きな国である。そんな初モノが大挙して押し寄せる正月、こりゃやっぱメデタクなくっちゃいけない。
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確かに「新しく始まる事」は魅力的だ。光り輝いとる。しかしながら後に続く、維持し/伸ばして行く苦しみは、産みの苦しみを遙かにしのぐ。
そうと分かっていながら、勢いで始めた当コラム、ネタに詰まりながらも何とか最初の年末までこぎつけた。読み返すと、ヘタな上に推敲不足、そのクセ、毒気だけはシッカリ振りかけられた文章に、自分でも恥ずかしくなる。ともあれしかし、「継続は力」と開き直って、来年もよろしくお願い申し上げます。
みなさま、よいお年を・・・・・・。
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