「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
僕はバンドにクルッてた

 音楽には、テクよりルックスより何より「センス」っちゅーものが必要だと悟ったクセに、私もナカナカ懲りないとゆーか諦めが悪い。

 --------表現したいとゆー気持ちは誰にも止められん!(←そらただの自己顕示欲だって。あー恥ずかしい)
 --------これからはやっぱしポップや!(←それが一番難しいのに)

 ・・・・・・ってな世迷言を口走って、再びバンド結成を画策しだしたのである。

 ボーカルは、以前からたまに一緒にやってた友人にすぐ決まった。ベースはセンス良さそうなヤツを新京極の十字屋に拉致して、無理矢理楽器一式を購入させた。全くのシロウトだけど何とかなるに違いない。その編成でリズムボックスを使って当時東一条にあった「スタジオヴァリエ」で一回ライブをやったが、どうもタイコがリズムボックスでは締まらない。
 やはりドラムだ。ドラムが要る。しかし、タイコの人材不足には想像を絶するモノがある。とはいえバンドの鍵はギターでもボーカルでもない。一にタイコ、二にベース、三・四が無くて五がリズム隊のコンビネーションと言っても過言ではない。
 ハッキシ言って、リズム隊シッカリしてたらギターやキーボードなんてライブでは尻掻いてたって構わんのだ。どうせ聴こえやしない。オレもズルいな。ベースがJウォーブル(PILの初代ベーシスト、ルートの単音しか弾けなかった)並のシロウトだけに、ここは一つ慎重に人選せねばならない。

 銀閣寺「CBGB」での予定は既に入ってる。その次には「拾得」も入れてしまった!ホントはこれはスゴいラッキーなコトだ。私達は必死になって人づてを頼り探しまくった。
 結局、ドラムスが決まったのは「CBGB」まで、後2週間と迫った時である。猛練習が始まった。3人寄れば文殊の智恵か、それとも毛利元就の譬か、自分達が驚く程のめざましい上達ぶりだった。

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 それからの約2年、一銭も儲からなかったが楽しかった。いみじくも鮎川誠(シーナ&ザロケッツのギタリスト)が言ってる通り、「3年楽しく暮らしたかったらバンドやれ」だ。曲を書き、自主テープを通販で売り、月1〜2回のライブをコンスタントにこなし、練習場所の確保のためにつぶれかけた軽音サークルを乗っ取り、少ないながらもファンがつき始めた。各地のミニコミやファンジンからの取材もポツポツ現れ出した。ありがたいことだ。
 前述「拾得」のテリーさんや、多くのスタッフが難波「ベアーズ」に流れたと言われる西成「エッグプラント」のヨシダさん等、大変真剣に聴き込んで下さる方もいた。

 世はまさに「インディーズ」とゆーものの黎明期で、百花繚乱/百鬼夜行の勢いでバンドが登場している。今がチャンスなのかも知れない。マネージメントや全国ツアー、東京進出(←吉本かいな?)なんかも手が届きそうだ・・・・・・。

 ・・・・・・そんなある日、練習場所からきれいサッパリ機材は消えていた。冒頭に書いた通りだ。前後してメンバーそれぞれが親との悶着を抱え込んだのも、シラけるには充分だ。こーゆー世界に飛び込むのに必要なのは「思い切り」である。勢いを削がれた私達はアッとゆー間に意気込みが失速して行った。

 結局、私はフツーの会社員になった。職務上、「音楽で食って行きたい」なんてコの退職相談をすることがたまにある。自分にはアタマの痛い問題だ。
 夢に舞い上がった彼等へ、どのツラさげて批判がましい事が言えよう?どのツラさげて「ワケ識りのオトナ」が演じられよう?水でも掛けるか?

 夢を取り下げた者は、寂しい笑顔でその一部始終を語るしかないのである。

Original1997 Add 2004
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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