「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
動物園の眼


二見書房版に高い金払ったのがアホらしゅうなるなぁ・・・・・・

 子供が出来てからというもの、久しく御無沙汰してた動物園に行く機会が増えた。珍奇なネイチャーアプリシエーションとゆーものである。

 --------カバさん、おっきな口やねぇ。
       キリンさん、首長いねぇ。

 ・・・・・・ガラでもねぇ!何で私が善き父を演じねばならんのだ!?わしゃ由緒正しいパンクスやど!・・・・・・と在所不明の或る種の苛立ちが、絶えずこんな場所では付きまとう。それは結局、「無為のまま年を重ねてるんじゃないか?」と云う不安と苛立ちなんだけど。
 まだまだガキである。何時になったら老成した人格を持てるのだろう?

 ・・・・・・閑話休題。本題からズレた。

 ゴリラ舎の前に来た。連れ合いに死なれて一人(?)暮らしの長くなったゴリラは彼か彼女か忘れたけど、実に退屈そうに転がりながら、己が乳首をクリクリやっとる。摩訶不思議なアクションである。
 それが、まだ赤ん坊の息子を見た途端起き上がった。そして何故か他の大人達には目もくれず、ガラス越しにジーッと覗き込むのだった。

 実の所、小さい頃から動物園が好きになれなかった。何とも殺伐として埃っぽいあの雰囲気がイヤだった。臭いもイヤだったが。
小さなコンクリの箱にツガイでズラッと種類別に分類され、宙に浮いた視線で佇む禽獣達。腹のたるんだライオンや、妙にせわしないトラやクマもヘンだし、ゾウもサイもカバもシマウマも草食の連中は怠惰にハマリ切って眠たげだ。
 「野生の王国」なんて番組であんなにイキイキした表情を見せてる動物と、動物園で見る彼等との落差は、子供にしてみれば余りに大きかった。

 それがカメラワークの巧みさによるもので、実際の野生動物が1日の大半をゴロゴロして過ごす事を知ったのは、随分大きくなってからである。しかし、刷り込まれた先入観とは恐ろしい。そうと分かってもやはり、動物園に「不幸の影」のようなモノを看取らずにはおれない。

 その点、水族館はまだ気楽だ。だってサカナは何ーんも考えとらん、と思う。これが大好きな(食べるのもだが)ウニやクラゲに到ってはチンプンカンプン、果たして意思の有無さえ怪しくなって来る。どーも脊椎ある位までならいいけど、哺乳類入って来るといけない。
 何がいけないかは実に簡単で、つまり「ドナドナ」の歌にある通り「可哀相な瞳」。コイツなのである。眼に私達の感情が映るかどうか、なのだ。

 その眼に実際はいかなる感情が込められてるか、知る由もない。ただそれが、一方的な人間の楽しみの代償に自由を奪われ、永遠の虜囚となった者の眼であることは確かだろう。憂愁は昏い眼差しに収斂している。

 ・・・・・・かなり引用が憚られるが、書いてしまおう。オチにならない。

 インモラル/ビザーレ/涜神的なあらゆる性の狂宴が炸裂する問題作、Gバタイユ「眼球譚」の衝撃的なラストシーンを、私は思い出したのだった。

 様々な性戯に耽ってきた女主人公シモーヌが、悔教師の神父を犯し/縊り/抉り出した眼球。それを弄び/気をやり/失禁し/果てた彼女の脚の間で、全ての自堕落の極点に象徴としてあってしかし、何の感情も無く、小便の涙に濡れて光る神父の眼球・・・・・・。
 原作ではそれが、「わたし」とシモーヌに癲狂院から連れ戻され、しかしアッサリとクロゼットの中で縊死したマルセルという少女の、虚ろに見開かれた目と重なるところで終わるのだが、ともあれ一体、動物園の眼達とその眼球にどれだけの距離があると言うのだろう?

 そう考えて、私はますます動物園が嫌いになった。

Original1997 Add 2004
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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