先日ミナミの大蛸の前を通ったら、相変わらずの大繁盛である。橋のたもとにカップルなんかで腰掛けて、うまそうに食っとる。一瞬、道頓堀に放り込んで、いつぞやのホームレスと同じ恐怖に遭わしたろか!とゆー殺意がよぎった。
そう。大阪の象徴・タコ焼が食べれない。ガキの頃、タコ抜きのタコ焼を注文して、屋台のオヤジに説教されたことがあった位、タコは嫌いなのである。殊に火が通っているヤツは致命的だ。言語道断である。匂いも、味も、皺の寄った表面も、吸盤も、イヤラシイ色も、形も、全部大キライだ。
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「ケロヨン」の弁当箱に入ったコンニャクの煮物を見つめて、私はボロボロ泣いていた。昼休みはとうに終わって、他の連中は午後のお遊戯を始めている。
食えないことを識ってて、敢えてひと切れ入れた母親、その背後に在って厳格を強要したであろう父親、そのひと切れを食べ終わるまで許してくれないヤマグチ先生、奇異の眼で見る冷たい周囲、全てが恨めしかった。
まあ、今にして思えば度を超えた偏食の激しさであった。何せ食えるもんの方が少ないのだから。
年がら年中熱ばかり出して、1年の半分も幼稚園に行けないことも、痩せこけてガリガリなことも(現在そんな痕跡は微塵も残ってない。残念だ)、全部偏食が原因と思われていた。ところが、だ。
小学校に上がるのと前後して、郊外に引っ越した。するとどうだ。
まず病気をしなくなった。当然、活発に遊び回るのでハラが減る。日増しに食えないアイテムも減って行った。身体も大きくなって、今ではこのテータラクだ。見事な堅太り!えらいこっちゃ!
何のこたない。「空気が悪かった」だけである。高度成長に沸き返る大阪市内の大気汚染が尋常でなかったのか、その当時未舗装だった前の通りを行き交うトラックが巻き上げる土埃が良くなかったのか、とにかく転地した途端、健康児になってしまったのだった。
とはいえ依然食えないものも多かった。結局、大抵のモノが喉を通り、「美味い!」と感じられるようになったのは、大学に入ってからである。連日の深酒と飲み屋には感謝している。あろうことか、今は食い道楽なオッサンだ。
それでも一つ残ったものがある。最後の牙城とゆーシロモノだ。それが冒頭に挙げたタコとゆーワケだが、多分努力すれば食えるのだろう。遙かに見た目の醜怪なナマコやホヤは大好物だ。ホルモンだってイケる。匂いとゆーならクサヤと納豆はラリラリだが、これもOK。でも、タコは一生食べないだろう。
では何故食べようとしない?
それは多分、幽かな「レジスタンス」に他ならない。偏食を糾す者の言葉は最後、必ずこう結ばれるのが常だ。或る種の侮蔑を込めて・・・・・・。
--------何でこんなに美味いもんが食えんのや!?
そのセリフが文化・嗜好の差異に余りに鈍感な、数を背景にした暴力であることに私は抵抗している。アングラ/カウンターカルチャーへの傾倒も、零細な事柄/人々への親近感(それは無論「同情」や「共感」のように尊大ではない)も、同じ根を持っている。幼児の私は「辺境に追いやられた者」の自覚と痛みを強制されたのだから。トラウマは怖い。
社会が暴力機構であり、冷酷にマイノリティを生産する恐るべきカラクリがあることを、「好き嫌いのない」方々は、年端も行かない子供に教えてくれた。いつか御礼に、高級中華である「タガメの唐揚げ」や「コオロギの辛味噌炒め」をご馳走してあげようと考えている。
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