「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
路地の奥から

 今週のナツカシネタは「路地」がテーマである。正確に言うと、「路地のある町」についてあれこれ書いてみよう。「ろじ」と発音するよりも、大阪弁で「ろおじ」と言った方が何となくいいな。チマチマと玉子の殻を挿した植木鉢が並んでいたり、隅っこの方を丸虫が歩いていたり、夕方になると晩飯の匂いが混然となってサンマの煙と共に流れてた、思いっきり生活臭プンプンの、あの、路地だ。

  迷路状に入り組む路地に家々が重なる風景を見ると、ある種の心のなごみを覚える。実際に入り組んでいるのは路地ではなくて、血縁や因習や住人の様々な感情に違いない。それらは見えない堆積物として町に積もり、複雑でランダムな綾織を描いている・・・・・・ ように思えてくる。

  紀州の生んだ大作家(事実カラダもデカかった)中上健次は、自らの出自と土地に限りない愛憎を込めて、その生まれ育った場所を「路地」と呼んだのだった。血族の複雑な感情、差別/被差別の回路、貴種流離譚、暴力的なまでにうねりながら広がる物語性。そんなものに終生こだわりつづけた作家として、実に鋭いネーミングと言う他はない。
  何かの本で述べてたが、新宿の猥雑さが大好きであり、とてもいとおしいという言辞も、どこかで同じ根を持っているように思える。

 それが急峻な斜面にへばりつく山村であれ、わずかに開けた土地に家のひしめく漁村であれ、間近に再開発の高層ビルの迫る都会の下町であれ、無秩序なようで、どこか危ういバランスを保ちつづける作用が、案外路地の町には働いている気がする。暗愚なまでの優しさと、冷徹な勘定高さが同居しながら、白黒をつけきらない、他者を押しつぶし尽くさない、そんなバランスの力だ。最近流行りのカオス理論(一見、何の規則性もないようなパターンに、実は精緻な法則性がある、とかゆーアレ)を援用したら、意外に面白いだろう。

 それは路地の町に生まれ、団地/ニュータウンという無機質極まりない環境に育った者として、羨望に近い興味を抱く。

  ブラジルは怒濤の路地の固まりのようなサンパウロから、超明快な近代都市ブラジリアに無理矢理遷都した。しかし、その近代都市のエルゴノミックに計算したハズの、公園やグリーンベルトに小径が幾つも出来ている写真を見た時、路地というゴチャゴチャしてスッキリしない通りこそが、本来的に人の求めてるものではないのか、と思い当たったものだ。
  ファイティングゲームにしても、3Dだバーチャルだと騒いだところで、ポリゴンで構成されたキャラクターが、どこかモノ足らないのと同じで、迷路状の全然明快でない町だからこそ、「人の町」の安堵感を我々は得ることができるのだろう。

  時として路地の町は「魔窟」とか「スラム」なんて、とってもおっかないものとして、ありがたくない名前を頂戴したりする。東洋最後の魔窟と呼ばれた香港の九龍城砦もしかし、返還前の開発ラッシュの波にはひとたまりもなく、キレイにのされて、今ではただのサラ地になっちゃったそうだ。はかないものである。
  これも魔窟として有名なモロッコのカスバなんてどうなんだろう。行ったコトないから分からないが・・・・・・。

  何だかとりとめのない文章になったが、これもまあ、路地のラビリンスの逍遙と思って御寛容願いたい。

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  そこだけ日だまりとなった路地の奥から、猫が、こちらを睨んでいる。

 とまれ、そういう光景にも、近頃出くわすことが少なくなった。

Original1997 Add 2004
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