意外にも駄菓子メーカーは盛況らしい。そう言えばスーパーに駄菓子コーナーがあったり、繁華街では「となりのみよちゃん」みたいな雑貨屋で、かなりシブいものまで揃えてたりする。これが懐かしネタで良く売れるんだそうだ。私事だが、親戚の零細ブリキ玩具工場は同様の理由で、えらく羽振りがいい。
又、駄菓子と言うとレトロなものを想像しがちだが、時代の流行を反映させた商品作りを心掛けてるそうで、これ又意外にも、新しモノ好きなのだ。ただし、必ず時流に半歩遅れてはいるけれど・・・・・・そしてそのズレのダサさが駄菓子の楽しみなのだけれど・・・・・・。
見なくなったのは駄菓子「屋」である。2坪程度の狭い店内の天上付近まで、駄菓子は勿論、しょーもない玩具やアテモンをぎっしり並べてた、子供に親切なんだかエゲツないんだか分からん婆さんが店番してた、あの、駄菓子屋。これも既に、遠い過去の風景となってしまった。
今回はこの駄菓子屋について・・・・・・
思えば硬貨を握りしめ、一生懸命品定めして買い込んだ品々、せんべい、歯ブラシ型のウェハース、ストローに入ったゼリー、粉ジュース、はったい粉、糸で引っ張るイチゴ飴、めくるアテモン、日光写真、ペナペナの「科学特捜隊」のワッペン、凧、2B弾にカンシャク玉、ベッタン(メンコの事)、ビー玉、女の子ならリリアンとかビーズ玉・・・・・・etcetcetc
今にして思えばまあ、どれもこれも腹が立つ程、まずかったり、しょーもなかったりだった。だったが、どれが値段の割にトクな商品であるかを見抜く目利き、店の婆さんにまけてもらう駆け引き、アテモン必勝法(結局ガセネタばかりだったが)の情報交換、そんなのを思い出すと決してバカバカしい子供騙しばかりではなかったように思う。
子供にとっては単純に「宝物」だった。そして無価値のものを慈しむ能力は、こうして涵養されるのも事実だろう。しかし、あの延々と繰り返されるムダは別に、寓話的とも言える意味を含んでいたように思えて来たのである。
あの畳の上を這いずり回るように地味な商品群は、ただもう小銭を消費するためだけに存在してたのではないか?
つまりは来るべき実社会でのシミュレーションを私達は、薄暗い駄菓子屋の店内で、知らず知らずの内に行っていたのではないか?
駄菓子屋に欠かせないアイテムの一つに「お金ごっこ(小さな札や硬貨のオモチャがセットになったもの)」があったが、それより何より駄菓子屋vs子供という関係自体が「お金ごっこ」だったように思えてならない。「ごっこ」にしては、えらくマジでシビアな真剣勝負だったのは事実だが・・・・・・。
話は変わるが、最近こーゆー輩が多いそうだ。
●初詣のオミクジで「凶」を引いて、神主に食ってかかる癇の強そうなオヤジ。
●夜店のカメ釣で、全然釣れんと言って大将にからむパパ。
●儲けバナシに、何べんも何べんも引っ掛かる若者。
●ふた言目には「だまされた」とゆーヤツ。
一日一回、100円でどれだけ駄菓子屋で有効にカネが使えるかやらせる、ってな法律でも作れば、すぐこーゆー人達は根絶できると思うのだが、いかがなものだろう?
とまれ、現代に「100円の物を100円で売っては経済は成り立たない」という自明だがシビアな現実を、子供達に身に染みて叩き込ませてくれる「場」は、果してどれ位あるのだろうか?御教授を乞いたい。 |