蛍光灯じゃダメなんだ!水銀灯も、気取った篝火も、ミナミのガス燈もダメなんだ!ネオンサインなんて論外だ!オレが見たいのは違うんだ!!年期の入ったタール塗りの電柱にちょこんと侘しく灯る、裸電球、オレが探してる灯りはそれなんだ。
・・・・・・とハナからテンションが高かったが、「遡上と検証」と題して昔ナツカシネタシリーズをお届けする。過去の記憶をたぐり寄せる哀感は、どこかしら旅に通じるようなものがある気がするからだ。いや、見知らぬ土地で知らず知らず探しているのは、案外、「記憶の中の風景」なのか、とも思う。うーむ何だか「三丁目の夕日」みたいになって来た。
で、白熱灯である。見かけなくなった理由も理解できる。まず第1に電気代が高い。同じ明るさで消費電力が蛍光灯の3倍くらいかかる。第2に寿命が短い。すぐ切れる。それが証拠にわが家の台所の4灯のシャンデリアが4つとも灯いてることは滅多にない。無論、筆者のケチと貧乏が大きな理由であることは言うまでもないが・・・まあいい。第3に沢山付けると、暑苦しい。実際にものすごく熱い。Zライトなんてモノ憶えておられる方は、すぐに理解してもらえるだろう。髪が焦げそうになるもんな。
そんなこんなで、効率化の追求のなかで、街頭から白熱灯はすっかり姿を消してしまった。今では、水銀灯や蛍光灯の青白い光ばっかりだ。思えば、「庶民の風景」には欠かす事の出来ない要素だった。
暗い通りの電柱にポツポツ並ぶ白熱灯。
家の玄関の上から下がっていた白熱灯。
暗ーい、一人で行くのが怖かった便所の白熱灯。
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和歌山の海南から野上鉄道という電車が走っていた。決まり文句の「モータリゼーションの波に押されて」とやらで、先年廃止になってしまった。最後の日、物好きにも家族を連れて乗りに行った。
正直な感想を言えば、よーもまああんな設備で90年代の半ばまで存続したもんだ、と思う。にわかには信じられないボロさだった。
さて、途中止まった駅で、多分トイレだろう、何とも古風で典雅なガラスの傘の白熱灯が、建物の軒先からぶら下がっていた。降りてパチったろかと思った位に、それは懐かしいカタチをしていた。
結局この鉄道、会社自体解散とゆー、悲惨な末路をたどったのであった。
何もかもなくし、落魄した者に当たるスポットライトがあるならば、それもやはり白熱灯であるに違いない。
それでもあの暖かい光の風景をもう一度見てみたい。
断片的に、ある光景を憶い出す。
もう30年近くも前、生駒山の方に行った時の事だ。秋の終わりで、干し柿がズラッと吊るされていたから、もう殆ど冬だったのだろう。随分寒かった。
夕闇の迫る山を下り、山峡の小駅で菓子をポツポツかじりながら見た、ホームの白熱灯だ。そう、やって来た電車のニス塗りの車内も又、白熱灯だった。
いつだったか、用事があってその辺に出掛けた。すっかり一体は新興住宅地となり、ヒナ段に一戸建てがひしめき、電車は白いコンクリートの高架上を走っているではないか。その余りの変貌ぶりに対する驚愕と、名状し難い大きな喪失感と同時に、私は一つの確信に致ったのである。
暮れなずむ灰紫色の風景の中の、白熱灯の暖かい光・・・・・・あれは忘却の中に消えなんとする記憶が発つ、最後の光そのものだったのだ。 |