「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
旅のプロセス考

 「汽車旅」なんてコトバは既に過去のモノになってしまったけれども、旅行の移動の手段である各種乗り物には、皆それぞれに、それなりの味わいがあるように思う。それらを考えてみようやないか、とゆーのが今稿である。
  何と!今までで最長の4回連続!まあ、従来の例に漏れず、脱線・逸脱・独断と偏見・思い込みはご容赦頂くことにして、流して下さい。

  大マカに言って、旅の手段としての乗り物は2つに大別されるだろう。

  1.自分で運転しないもの・・・・・・鉄道、バス、飛行機、船etc
  2.自分で運転するもの・・・・・・自家用車、オートバイ、自転車etc

では早速始めましょう。

1. 自分で運転しないもの

@「鉄道」

  現代において鉄道はもはや、新幹線や都市圏、近郊区間、L特急といった特殊な例外を除いては、殆どその使命を終えていると言っても過言ではない。しかしかつては、旅行の、いや「輸送」の最大の手段であった。国鉄の幹線から地方線に乗り換え、駅前からさらにオモチャみたいな私鉄に揺られて行くと、おお!旗持った宿の客引きが勢揃いしとる・・・・・・なんちゅーのが全国で見られる当たり前の光景だったのだ。今時こんなん、北陸でもあらへんわな。
  それでも鉄道旅行にはそれなりの魅力がある。目的に合わせて巧く使うと便利なのも確かだ。例えば、城崎や熱海に行くのは鉄道利用が断然、楽チンだろう。又、利便性以外にもあるぞ。むしろこっちが大きいかも知れない。
  それは多分、「待ち時間のシチュエーションの豊かさ」みたいなもんだと思う。これは、独特である。例えば・・・・・・

   蝉時雨の彼方、炎天下に線路が歪んで見える山間の駅
    木枯らしの抜ける、平野の末端の終着駅
   満開の桜のホームに流れてくる、どこかの幼稚園のオルガンの音
   2分の乗換で、反対側の列車目指して必死に上がる跨線橋

 乏しい修辞で情緒を垂れ流すより、もっと雄弁に語るものがある。映画や歌の傑作の舞台にどれだけ鉄道や駅が出て来たことか!これで充分だろう。

A「バス」

  バスだけを利用して旅する事は、個人では珍しい。バスはやはり団体旅行!のイメージが付きまとう。他にも酔いやすいとか、狭くて身動きできないとかあるけど、この事実こそが、旅の手段としてバスを見た時に、どーももひとつパッとしない最大の理由だろう。しかし、物凄い長所があるのだよ、実際。
  少なくとも観光バスと夜行バス、はムチャクチャに「安い」。前者は一台2日でせいぜい30万、一人アタマ7〜8千円で連れ回してくれる。後者もヒケを取らない。例えば東京〜大阪間の夜行は何と!8500円也!鬼のよーに安い。これに太刀打ちするには、大垣行の鈍行に「青春18きっぷ」の組み合わせしかない。或いはヒッチハイクだ。

  しかしだ、問題は路線バスである。市バスとかはいいよ。遅いがそれなりに安いもんな。たまらんのが田舎の路線バスだ。一体どーゆー計算方法になっとるのか、暴力バーも腰ヌカす運賃である。到底、サイフがもたない。まあ、原因はクルマの普及で、利用者が減少していることに尽きるのだろうがそれにしても高い。頼らねばならない年寄りが可哀相である。
  それでも世の中には奇特な方がいて、鉄道マニアより更にマイナーな「バスマニア」(専門誌もある)や、「路線バス旅行マニア」(これもガイドブックがある)なんてゆージャンルがあるのだ。

  田舎道をゴトゴトとバスに乗ってく事自体はいいけど、バス停通過の度に跳ね上がっていく料金表を見るのは、余んまし心臓に良くないと思う。
  もしお金に余裕が出来たら一度挑戦してみたい、とゆーことで今日はここまでです。



 今週は飛行機からである。申し訳ないが、始めにお断りするならば、個人的には飛行機で旅したいと少しも思わない。金正日じゃあるまいし落ちるのが怖いワケではない。詳しくは読んで下さいませ。

B 「飛行機」

 どの本だったかは忘れたが、往年のアングラの帝王、寺山修司がいい事書いてた。彼は活動を運営する組織を「人力飛行機舎」と名付けた位、「飛びたかった」オッサンなのだった。さて、その寺山が小さい頃から憧れてた飛行機に初めて乗った時のハナシだ。
  結論から言うと、彼はとても失望したのである。そして続ける「それは単に空を移動する道具だったのだ」と。
  そーなのだ、それが人類の夢とロマンの結果の一つ、ヒコーキの本質なのだ。

  まあ新幹線にも共通するが、人間離れした速度と時間と距離の感覚、究極の利便性、加えて単調な雲上の景色・・・・・・ 多分、ジェットだったんだろーなー、寺山が乗ったんは。プロペラ機ならもうちょっとは失望しなかったかも知れない。あれには「飛翔」のリアリティがまだある。失墜の恐怖と裏腹の快感を、幾許かは得ることができたろうに。
  かつてベルヌは「80日間世界一周」とゆーSFを著した。当時それは本当に空想の産物・絵空事に過ぎなかったが、今では「成田を飛び立って20何時間後には、もう成田」だって可能である。だがそれは無論、旅行ではない。移動のプロセス/豊かな時間の歓びの排された、不毛な「世界一周」だ。
  過剰なロマンを求めた寺山がアホなのかどうか分からないが、それでも沖縄じゃハワイじゃグアムじゃ、と無自覚の俗性を乗せて飛行機は今日も飛ぶ。そうして、海外のビーチにそびえる白亜のホテルでヤッてるコトは、大阪空港界隈のラブホテルでヤッてるコトが、ほんと「移動しただけ」なのかも知れない。

  少々ひねくれが過ぎましたか?すみません、飛行機、嫌いなんですよ。

C 「船」

  これもかなり限定されて来る。ズバリ一言フェリーである。堀江さんや今給黎さんじゃあるまいし、そうそう個人が自分の船で旅に出る事はなかろう。それにむしろ、あーゆーのって「旅」より「冒険」でしょ!?
  小さなポンポン船で小島に渡るのは確かに情緒もあろう。渡し船も風情があってよろしい。しかし悲しいかな、余りに距離がない。到底「船旅」と呼べない。逆に、何千万も払ってQEUで世界一周は、時間の豊かさは実感できるだろうが、実行前に己の生活の貧しさが身に染みるのがオチである(腐る程カネとヒマがあればやってみたいものだけど)。現実はやっぱしフェリー辺りが妥当なトコだろう。

  ・・・・・・で、フェリーだが、ちっこいローカルフェリーはともかく、長距離の巨大な船内には、昼夜の別が溶けた様な、熱に浮かされて夢うつつの様な、そんな昏濁した陽動が満ちているのが常である。それはターミナルや繁華街の熱気にも似ている。何故だろう?大き過ぎるからか?それとも、運ばれるのが人やクルマだけでなく、何かの「縮図」みたいなもんだからだろうか?
  と、感慨はさておき、船の魅力は多い。何たって安い。身体一つなら、もうアータ、タダ同然!その代わり、滅法遅い。遅いがその分、他の乗り物が失った、或いは失いつつあるものを残している。つまりは、「時間の豊かさ」だ。不可視の領域の感覚ではない、肉体・五感で理解可能の「移動の歓び」がある。

  前編「自分で運転しないもの」編の最後に、一つこんなエピソードを紹介しよう。日本で最初の急行列車が走った時、切符売場でこんな文句を付けたオヤジが居たそうだ。曰く

 --------何でフツーより早よ着くのに高いゼニ出さなあかんねん!?ゆっくり楽しめへんやんけ!?コラ!?

  私も含めせちがらい現代人は、このオッサンの稚気を笑っては、いけない。そうなのだ。元来、移動のプロセス自体、その目的が何であれ、多少なりとも旅の諸相を内包していたのだ。私達はその感覚を喪失しているのである。




 後編は「自分で運転するもの」編である。やっぱし、これの代表選手はクルマだろう・・・・・・とゆー前フリで始めさせて頂く。

2.自分で運転するもの

D 「クルマ」

  「自家用車」より「自動車」より何より「クルマ」と書くのがコイツには似合うように思う。
  見知らぬ土地を地図を頼りに走り抜ける快感(だからオレはカーナビが嫌いなんだ!ってば)、目論見通りの時間に着いたときの充実感、逆の場合の心細さ、いずれも「自分で運転するもの」に共通する感覚だろう。それらの内で、安価であること、便利なこと、そして何よりも行為の主体性、この3者のバランスが、現代において最も取れたものがクルマであろう。
  つまりクルマは、自分で運転するものでは、結局一番、手軽で安全とゆーことだ。とはいえ、他と共通の悩みがある。当然ながら移動中にボーッと出来ない。目覚めたら白い着物着て三途の川のほとりに居た、ではしゃーないもんな。又、中で動き回れないのも共通する欠点だろう。

 ・・・・・・でここからが現代のクルマの、クルマたる欠点だ。

  先日、修理の代車でカローラに乗った。それはもう何にも付いてないヤツで、流石にエアコンはあったが、パワーウインドウも、電格ミラーも、ブロンズガラスも、パワーシートも、当然カーステも(AMラジオはあったかな?)何〜んも見事に付いとらん。おまけに1300で走らない。
  で、2・3日乗り回して思ったのだ。これでええんちゃうか、と。「所有の歓び」は全く無いけどね。そして それで思い出した。自動車評論家の舘内端が何かの本に書いていた。少々長いが引用してみよう。

  「クルマが家にある、あるいはクルマを所有しているということは、たとえそれがオンボロでも・・・(中略)・・・の人に自由への旅立ちを感じさせてくれるのである。それが、クルマなのだ。」

  そう、いつしかクルマは私達の手を離れ、飛行機と同じく利便性と快適さだけが独り歩きした、ただの「移動の道具」に成り下がっていたのである。

E 「オートバイ」

  単車はいい。大好きだ。若い頃ハマりまくって、最後はバケモノみたくデカイのに乗ってた時もある。何たって「一体になって操る歓び」がある。それも、時速200kmの世界でだ。手と足をバタバタさせるだけのクルマよりは、断然面白い。それは前回も述べたけど、死の恐怖と背中あわせの快感、つまりは皮膚感覚のリアリティ、のあるスピートが体験できるからなのだろう。
  それに自然も味わえる。雨が降りゃ濡れるし、冬はヒザが固まるし、夏はメットの中が蒸れるしで、快適なのは春秋の快晴時くらいだけれども。

  しかし、私は単車をリタイアした。理由は簡単、恐怖がスリルを遙かに凌いだからだ。換言すれば、いつしか少しづつ「老い」が自分にも忍び寄っていたのである。だから、若い諸兄は慎重にね!

F 「自転車」

  単車にハマる前は、自転車少年だった。超レアなメーカーのフレーム、カンパニョーロの変速機、チネリのペダル、TAのクランク、ウォルバーの白タイヤ、ソービッツの丸ライトetc と、所謂「世界の逸品」パーツで、自分で組み立てて何と!総額25万円!何とゆーモノへの執着!ただのバカだ。今思えば、原チャリでも買って乗り回す方が、余程健全だったよーな気がする。まるきりオタクだった。
  ともあれそれで「放浪」っちゅーのもした。約2ケ月。終わった時の我が姿は無論「乞食」に近かった・・・・・・と余談はさておき、自転車も良かった。
 ・・・・・・良かったが、今の御時世、余りにもしんどくおっかない。実際、何百キロも走れば分かるが、道路は自転車のことなんざ少しも考慮せずに作られてるのである。何度、死にかけたことか・・・あぁ〜っ!紙面が尽きたぁ〜!

  次週は最終話です。



  3話にわたって旅のプロセス、ツールについて色々書いて来た。他にも気球やら一輪車やらスケボーやら、奇特な御仁もおられるだろーが、それらは道具自体が自己目的化しすぎて、「旅」より「冒険」になってしまう。それが証拠に、青森から東京まで一輪車で行ったガキがTVに出とった。
  さて最終話は、究極の旅の手段である、ツールレス、要は「徒歩」、について書きたい。

G 「徒歩」

 「美味しんぼ」の元祖とも言える、開高健のグルメ小説「新しき天体」は、全国のありとあらゆるA級からC級までのグルメを喰い倒した主人公が、最後に「最高の水」に辿り着くストーリーだった。
  又、蕎麦通の極みは「水蕎麦」であると言う。ネギもワサビもノリもない。ツユさえない。極上の新蕎麦を極上の山の湧き水に浸して食う。蕎麦と水、それだけ。だから「水蕎麦」(何やペダンティック過ぎてマユツバだよなー)。

  ま、様々な属性を貼り付けて行った先のアザとさ、コテコテのメーキャップの空々しさ、過剰に氾濫した付加価値の虚しさ、とゆートコなんだろう。
  確かに、切り詰めに切り詰めた事柄が持つ、或る種の清洌さは否定できない。だからつまり、裸の大将は、素寒貧でロクに道具も持たず、徒歩が基本だから味わい深いのである。ま、ドラマはフィクションだけれども。
  「何故山に登るのか?」と尋ねられて「そこに山があるから」と答えた有名な登山家。カッコいいセリフだが、でもそれは違う。「歩いて」登るからだ、それもギリギリの無駄のない装備で。

  歩くこと。ここまで挙げた様々の道具は、自分で運転する/しないはともかく、程度の差こそあれ、「徒歩」より速く、楽に、快適に、と造り出されたものであった。
  その旨味を享受することは決して悪くない。欲望がハイパーになって行くことも、これはもう人間の原罪だろう。罪はそれなりに快楽であり、それはそれでいいことだ。でなきゃ文明は進歩してくれない。
  ただ「旅」なんて必要不可欠のもんじゃない。機能とか合理性の対極にあるムダの固まりだ。北米インディアンのポトラッチ(※) を近代の合理主義は野蛮!の一言に一蹴したが、考えてみれば、旅行なんて遙かにただの浪費だ。ポトラッチ!?ええやないか!スカッとするで!おもろいで!
  そんな「旅」の、その多くを占める「移動」の時間、プロセス。そこにあった筈の無限の豊かさを取り戻す為の、それこそツールとして「徒歩」はもう少しジックリとかえりみられても良いように思うのだ。現代人が「徒歩」を忘れて減退したのは、脚力だけではないように思うのだ・・・・・・

  前出の舘内端の文章から、この話の締めくくりに、もう少し引用してみよう。

  「・・・・・・文化とは過剰の処理の様式である。だから、そうしたカスミ消費もまたひとつの文化であったのだろう。だが、あんたと私の原始の情念は『そんなものはもういらねえぜ』と言ってるのだ・・・(中略)・・・人とクルマが共生できる時代は、簡単に手に入らない。400キロなどといった短い距離を歩くくらいの犠牲ではとうていやって来ないだろう。もっともっと辛い目にあわなければならないかも知れないが、それはクルマに慣れてしまった身体感覚だから辛いのであって、400キロを歩けるという自信と自由を手に入れてしまえばどうってことはないはずである。」

  そしてカレは内なるクルマを取り戻す為に、東京から鈴鹿の日本GPまで、はた目にはアホやとは思うが「歩いた」のであった。

 ・・・・・・ワタシ?色々エラソーに書いたけど、よーしませんわ、ほんなコト!

※ポトラッチ
 北米インディアンの不思議な風習。部族間での示威行為として、徹底的な浪費を行って、部族の地位向上を図ったもの。極端な場合、家財を焼き払う等の過激なこともあった、らしい。近年、大衆消費システムとして注目されているそうな。

Original 1996 Add 2004
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