平凡な丘陵地帯の小さな集落には、温泉の看板はおろか、宿屋も何も見当たらない。四つ角に自動車整備工場、兼タバコ屋があるだけで、眠ったような村だ。午後の春の日差しが一層その感を強くする。
確かに地図に温泉マークは存在する。国道を曲がる時に見つけた観光案内の看板にもあった。ただし、高く伸びた雑草に埋もれかかって、錆びてボロボロだったけれど。もう既に無くなってしまったか、と不安になるが、念のためそのタバコ屋で尋ねてみた。何と「隣です」との返事。
しかしどう見たって普通の家だ。周囲を生け垣に囲まれた、田舎作りのがっしりした建物である。婆さんが一人、ひなたぼっこ状態で留守番をしていた。
--------あのー、こちら温泉と聞いて来たんですけどぉー
--------はい、150円です。
打てば響く、余りに即座のこころよい返事と、銭湯よりも安い値段に「自分の家のフロに入れっちゅーんやないやろな!?」とさらに不安になる。
とにかく150円払って浴室の場所を問うと、家の裏だと言う。これ又、ただの裏庭である。松やら槇やらツツジやらが植わった、ごくごく当たり前の民家の庭、その隅にコンクリートの物置みたいなのがひっそり建っている。
はたしてそれが、何と共同浴場なのであった。
入ってみると、中は半地下になっていて結構広い。勿論、沸かしてはいるけれども、立派に温泉である。微かにアルカリ性単純泉によくある匂いもする。うーむ、これはなかなか良いではないか。
--------どーも、お世話になりました。看板なかったんで分からんとこでしたわ。
--------看板、表に出とるんやけど、分からんかったかのう?・・・それよりこの電話、ちょっと見てもらえんやろうか?
確かにそれは、年寄りの手に負いかねそうな多機能電話だった。しかし若い私の手にも負いかねた。頼まれた手前、ムゲに断るのも気が引けてグニグニいじり倒したが、後はどうなったか知らない。
表の看板も確かにあった。小さなベニヤ板に「温泉入口」と赤いスプレーで暴走族の落書きみたいに書かれたのが、土埃にまみれて、生け垣の根元に転がっていた。これで分かる方がどうにかしてる。
山口県は下関の手前、王司という村でのハナシである。何だか最初から最後まで眠ったようなシチュエーションだったなあ、と今でも思い出す。
ちなみに、山口県の高温泉は、湯田・長門湯本・川棚等数える程しかない。しかし、驚く程無数の冷鉱泉があって、県の条例でもあるのか、どんなに小さな共同浴場でも、銭湯以下の料金で入れてくれる。又、温泉旅館も入湯だけの客を断らない上に、大変良心的な値段である。結構豪華な観光旅館にも、食券の自動販売機みたいな券売機が置かれてあって、夕方ともなると、地元民がゾロゾロやって来たりする。
もし、山口方面を旅されたら、どれか立ち寄ってみてはいかがですか? |