「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
山窩、エエなぁ・・・・・・


三角寛はこんな人。ナカナカ魁偉な容貌。

 ずいぶん以前から心惹かれてるものに「山窩(サンカ)」っちゅう存在がある。いや、あった、と言うべきか。

 山窩、とはかつて日本にいたと言われる一群の非定住民のコトだが、詳しいこと・本当のことは何一つ分かっていないに等しい。定住せず、独特の歴史観や言葉、風習を持ち、蓑を作り、川魚を漁ってはそれらを村に売り歩くことで日々の糧を得ながら暮らしていた、と言われる。
 いわば「日本のジプシー」とでも言うべき存在で、あまりに荒唐無稽な印象を与えるためだろうか、「真っ当な」アカデミズムの世界からはほとんど黙殺されてきた経緯があるのだ。かつては何でも、この研究に手を出すことはほとんど歴史学者としての将来を棒に振るくらいの暴挙だったらしい。
 まぁ、そりゃそうだろう。常民研究の民俗学でさえ、真っ当な歴史学者からはズーッと無視されてきたのだから。巨人、宮本常一にしたって、アカデミズムの場に受け入れられたのは晩年、それもその業績からすれば不当といって良いほどのささやかなポジションに過ぎなかった。

 山窩の存在を世に知らしめたのは、三角寛、っちゅうブン屋上がりの小説家である。この人の功罪はどちらもきわめて大きいと言わねばなるまい。だから今、ちょっとバカにした書き方をした。功は、地道なフィールドワークから得られた情報を元に「サンカ小説」というジャンルを創出して山窩の存在を大いに世に知らしめたことだが、罪は、ブン屋の胡散臭さはさておき、面白くするためだか、自分の地位や名誉を欲するあまりだか知らないが、数々の根も葉も姉歯もない偽造を行ったコトだ。娘の回想によれば夜中に呻吟しながら「サンカ文字」の捏造に励んでたという。実はそのことを本人もちょっと白状してたりする(笑)。あ〜コラコラ。
 オマケに、この三角寛、かなり山師的でもあって、戦時中には山窩の野営である「瀬降(セブリ)」をもじった「セブリィ」なんて怪しげな煎じ薬を売りまくって大儲けしたともいう。スクープを逃がさないブン屋の嗅覚ならでは、とも言えるだろうが。
 そんなことはさておき、カレの濫造した「サンカ小説は戦前の一時期、大衆伝奇小説の一分野として絶大な人気を誇ったらしい。

 これが上にも書いた「荒唐無稽」のイメージをより一層助長し、史学的に事態を一層ややこしくした。

 戦後、このタブーに比較的早く触れた一人が田中勝也だろうが、本人もぉ〜三角シンパなのか何なのか、ほとんど無批判に三角を受け入れるだけ入れて最後にケツまくってるし、明らかに偽書である「上記(ウエツフミ)」あたりから、「ムー」の読者がないて喜びそうな超古代史まで突っ走っちゃった感があって、ちょっとなぁ〜、って気がする。

 最近のマトモなトコでは沖浦和光だろう。しかし、「幻の漂白民・サンカ」でモロに伺えるように、いささか広島周辺の被差別民との関係のみに収斂させ過ぎたきらいがある。山窩は広島だけに限った存在ではない。本職の学者さんだけあって、緻密な分チマチマしちゃったのか、あるいは何かの権力からの意思、っちゅうかバイアスが掛かったのか、素人のおれが読んでも違和感のある論旨だ。
 昨年、新書を出した礫川全次も、在野で粘り強く山窩関係の著作を出してるな。後は数名・・・・・・つまり、お寒い限り、ってこっちゃ。

 ・・・・・・と、まぁ歴史学的な解明はともかく、「山窩」と総称される、集団で山野を移ろっていく零細民はたしかに存在した。というのも、おれ自身がいくつか存在を裏付ける証言を得ることができたからだ。
 一時期、「昔、どこからともなく集団でやってきて、しばらくの間、川原とかで天幕暮らしして、箕やら蓑やら川魚売って、そのうちおらんようになる人っていませんでした?」などと知り合った年寄りに尋ねてた時期があるのだが、かなりの頻度で、見たと言う話を聞かされた。いくつか例を挙げてみよう。

 -------あ〜、昔はおったおった、わしら『サンガイ』ゆうて呼んでたわ・・・・・・これは会社に昔いた高知出身のおじいさんの話。

 -------何て呼んでたかは忘れましたけどな、鳥取の方から山越えてくるそげなぁ人等がおりましたじぇ・・・・・・これはヨメの祖母の話。

 ・・・・・・ね!?

 ちなみに、にわかには信じられないけれど、最後の集団生活は1970年代前半頃まで実在したと言うし、定住はしたものの、漂泊生活をかつて直接体験したことのある老人は、若干だがまだ日本に生存しているそうな。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 おれは常々、一生放浪して生きれたらこんな楽しいことはなかろう、と思ってるので、この「山窩」は放浪への憧憬のイコンである。

 今に残る山窩の暮らしぶりの写真を見ると、それは貧しくつつましいけど何だかとても長閑そうだ。最低限のナベ釜ヤカン、和式万能ナイフと言える「ウメガイ」、まるでツエルトそっくりの三角の天幕小屋、焼け石で沸かす風呂・・・・・・昭和30年代初頭に埼玉は東松山周辺で撮影されたというこれらの写真も、実はその出所は三角寛で、一説には彼があらかじめ全て演出して仕込んでた、って話もあるのだけどね(笑)。

 その真贋はもうどうだっていい。おれはさすらいたいのだ。「流離」だ。それが安易なロマンチシズムに基づく日常のストレスからの逃避衝動に過ぎないと分かっていても、だ。実態は「砂の器」の巡礼親子のように、人から不審がられ嘲られ、ときには子供たちから石投げられ、モノが無くなったりしたら真っ先に疑われるような惨めな部分も多々あったとしても、だ。
 ひどい話だが、辞書にまで昔は山窩に対する差別的な表現が載っていたのだ。「ヘーキでドロボーする」とかね。このような屈辱的な偏見の目で見られた点でもジプシーとの共通項は多い。え?今はジプシーぢゃなくロマ、って言えって!?うるせぇやい。どだい、「山窩」って漢字自体かなり差別的だ。山のアナアナアナアナ・・・・・・って古いね(笑)。

 ・・・・・・でも、と思う。

 わが身を振り返ってみれば、おれは箕作りはおろか、魚釣りさえマトモにできない。ましてやスッポンなんぞ釣った日にゃ、指が何本あっても足らないだろう。山野草の知識もなければ、観天望気の心得も皆無・・・・・・つまりあるのは幾許かの貧弱なアウトドアグッズと、一つ処にとどまっていたくないという意思、それに頭デッカチな予備知識だけなのだ。はぁ〜、これぢゃ放浪3日で野垂れ死に間違いなし!・・・・・・アカンわ。

 それに放浪が生活そのものにならない以上、いくら野宿をしたって、表面的にマネしたって、ムリだ。悲しいけど。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 話を三角寛に戻そう。

 この人、上に述べたように色々アラもあったのだけど、山窩との宿世の因縁でもあったのか、不思議なことにその終焉を見届けるかのように1971年に亡くなった。雑司ヶ谷の居宅はそのまま残っていて、今は、その名も「寛」っちゅうステーキ懐石の店になっている。値段は少々お高い。ちなみに、池袋の名映画館「文芸坐」を興したのもこの人らしい。

 数々の著作は謎を残したまま永く封印され、古書には法外な値がつけられていたが、最近になって現代書院から全集が発刊された。それはそれでジューブン強烈におめでたい値段で、おれは買おうかどうしようか迷っている。


附記:
 かなり強引に書き飛ばしているので、詳しく知りたい方は、専門に書かれた本を読むことをお勧めします。
2006.05.10
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
Copyright(C) REWSPROV All Rights Reserved