「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
階級社会/幸せ曲線/隠居


こんなオッチャン、元々はお侍ぢゃありません。

 階級社会が到来しているのだという。

 階級社会っちゅうのは要は、所得格差社会のことなのだろう。一説には年齢×10万円以下の年収は「負け組」みなのだそうな。このリクツに従うと不惑のおれで言うなら400万を切るとアウトなワケだ。
 さんざ「価値観の多様化」だとか、「個性の重視」だとか、「働きすぎはダメ」だとか、「学歴や職業が人間を決めるんぢゃない」だとか、「IQよりはEQ」だとか、国を挙げて推奨し、国民を洗脳した結果がこのザマかよ!?って思うな、全く(笑)。

 階級社会の怖さとは、所得格差そのものではない、とおれは思ってる。むしろその向うの「所詮ビンボー人が何ホザいたって、一銭五厘の価値もないよ」という考え方に、富める者はもちろん、そうでない者までがなってしまうこと・・・・・・つまり金持ちの傲慢と貧乏人の卑屈が社会的コンセンサスとして成立してしまうことにある。個性を重視した果てに来たのは、味も素っ気もない平板な価値観が支配する世界だったのだ。
 「全ての歴史は階級闘争の歴史である」・・・・・・ウソだ。そんなもの、所得階級と知識階級のねじれに位置することのできた一部の寝言に過ぎない。

 そんなこんなでニートも増える。

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 さて、新聞だったかネットだったか、しばらく前に興味深い記事が出てた。

 とある大学の行ったリサーチによると、人の幸福度はおおむね年収に対してリニアに上がって行く。ところが年収1,500万円を境に、年収が上がるほど幸福度は下がって行く、というのだ。
 ちなみにこの「幸福度」に絶対性や評価基準はない。単純に「あなたは幸せですか?」と問うただけらしい。幸福とは最大公約数的に括れる要素も多い一方、多分に主観的なものでもあるので、この問い方はいい加減なようで、かなりよく練られた設問だと思う。

 「1,500万円」っちゅうのが果たして手取りなのか、言葉どおりに税金やら何やら入れた「収入」なのか、厳密なところは記事からは分からなかった。手取りだとちょっと高いかな?って気がするな。いずれにせよ、サラリーマンならまぁまぁ高い方だろう。田舎の方ならなら取締役クラスでもこれくらいもらってる人は少ないと思う。
 額自体はどうでもいい。面白いのは言うまでもなく統計学的に、「お金がある=幸せとは限らない」ってコトが立証された点にある。

 ・・・・・・さて、この結果からいくつかの推論が得られる。

 一つは当たり前すぎてツマらない結論・・・・・・「足るを知る」「過ぎたるはなお及ばざるが如し」ってコトだな。たしかに収入が増えれば心配も増えるし、泥棒除けの要らん投資も必要になる。なまじ残せばいさかいも起きるだろう、ってアレだ。モノが容易に手に入ること故の虚しさもある。そのレベルに達するまでに払った労苦や犠牲、我慢にしたものを考えるとワリがいいのか悪いのかよぉ分からん・・・・・・etc。

 もう一つはいささか皮肉な見方だ。1,500万の年収はそう誰もが実現できるものではないだろうから、1,500万円を超えた人とは、飽くことを知らぬ、一生欲と二人連れの人なのだ、と。そんなんだからこそ、そんな年収も実現できたのだし、また、幸福を感じることもないのだ、と。
 もちろん逆もある。1,500万以下で幸せになれる人は、よく言えば足ることを知った人ではあるが、この生き馬の目を抜く社会においては所詮向上心がないのだ、と。

 何が正解なのか、おれにも分からない。幸福が主観的なものであるように、幸福の分水嶺のワケも一意には求められない。

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 ここからは個人的な話だ。

 収入的にはおれは、今の物価ベースであと年収100〜200万ほどあればいいかな〜、って感じがしてる。特に小遣い制でもなく、適当に飲みに行ったりもして、本やその他も欲しけりゃ買うし、子供たちを習い事ぢゃ何ぢゃと行かせられる余裕もあるし、まぁ、ボチボチ遊びに行ってもいるし・・・・・・と、さほど窮乏してるわけではないし、それなりの幸せも感じているが、「あともう一歩の何か」のためにそれくらいあればな、ってタマに思う程度だけれども。
 それよりむしろ今はもっと時間が欲しい。旅行して、書き物して、音楽作って、それらを形にしてまとめて行くのに、今の休日はやはりあまりに少ない。いや、もっと率直に言うと、個人的にやりたいことの所要時間を合わせると、とても別途働いてる時間なんてないのだ。
 しかしこれはジレンマだ。収入がなくっちゃこんな太平楽言ってられないもんな。いつだって金と暇はマッチポンプなんだろうか?ま、ビンボー暇なし、とも言うけどね・・・・・・。

 自ずと打開策は限られてくる。何よりまずは肥大化した今の作業を整理して絞り込むこと、だ。これが現実的な解だと思う。しかし、年々歳は取っていく。不惑を越えたおれはそれこそ「統計的に言って」寿命の折り返し点は過ぎたはずだ。整理しきれずにどれも中途半端になるリスクを考えても、なお、やりたいことはやりたい。
 次の策としては、やりたいことと経済的生産活動を一致させる、つまり今の余暇活動で収入を得る、すなわちこれを職業にしちゃう、ってコトだろうが、いささかハードルが高い。それに、仕事を投げ打って創作・・・・・・聞こえはいいが実はこれは自己陶酔への逃避行動に過ぎない。

 ああ・・・・・・万策尽きた(って2つしか挙げてないが、笑)、と思ってたらあるぢゃないか。確率こそ低いが確かな方法が。
 言うまでもない。「宝くじを当てる」のだ、それもジャンボで3億円を・・・・・・何とベタな。

 ナサケないがこれが唯一にして最も確実な方法。当てて、それを取り崩しながら食うか、蓄財して利息で食うか、利殖に回してアガリで食うか・・・・・・併せ技も含めると方法はいろいろあるだろうが、とにかく数億単位の原資がないと全ての時間を気ままに使うことは不可能だろう。そのための近道は宝くじしかない。
 100万200万ぢゃどぉにもならない。これを元手に利殖するのはそれこそ不眠不休の努力が必要で、地道に働いた方がよほど時間取れる、っちゅーねん(笑)。
 ちなみにジャンボに限らずこの宝くじ、還元率はわずかに40%に過ぎないと言われ、大半は税収となっている。こんなに低い還元率は世界的に見ても例がないそうな。そんなんだから一等に当たる確率は、何と交通事故で死ぬ確率よりも低い。

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 つまるところおれは、「楽隠居」っちゅうヤツに早くになりたいのだ。

 江戸時代の人がうらやましい。元服するのがずいぶん早かったとはいえ、当時は大体45〜50歳くらいでオッサンオバハンは隠居するものと相場が決まっていた。そして一切の経済活動から身を引いて、学問も含めた「どぉでもいいコト」にウツツを抜かすのだ。あの伊能忠敬だって、今でこそ近代的な3点測量の父と崇められているが、単に趣味が昂じてひたすら測り歩いたのである。名声のためでもなんでもなく、日本中を測り倒したかったのだ。

 余談だが、彼の作った地図はその後、官製の再測量したものに順次切り替えられていったものの、実に100年以上、激動の江戸・明治・大正・昭和を生き延び、最終的に今の国土地理院系の地図への置き換えが済んだのは昭和29年のコトだという。

 おれもこんな隠居になりたいよ。

 あ〜も〜、論旨ムチャクチャになってしもたなぁ〜。ま、泥酔状態で書くとこんな調子です、ハイ。

2006.03.25
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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