「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
偏屈/信/孤立


幸田露伴。ヒゲがいかにも気むつかしそう〜

 
「船頭小唄」を作ったのはこの二人、野口雨情中山晋平コンビ

 「このような退廃的な歌が流行ったから大震災が起こった」

 雑学王・唐沢俊一の「ダメな人のための名言集」に採集されてた、明治の文豪・幸田露伴の言葉である。ヤリ玉に挙げられた「このような退廃的な歌」とは、当時大流行した「船頭小唄」のことだ。「ムチャクチャ言いよんなぁ、このジジイ」、ってくらい論理も自然も科学も無視したコトバで、おれはケッコー好きだ。年取ったらこーゆー偏屈ジジイになりたいなぁ、なんて思う。

 しかし、この考え方は別に露伴先生のオリジナルではなく、関東大震災後に広まった「天譴論」という考えに基づくものであって、まぁ多かれ少なかれ「今時の若者」の言動に眉を顰める老人たちに一般的に流布していたものと思われる。メソポタミアから出土した楔形文字の日記を学者が解読したら、「今時の若者はなっとらん!」っちゅー年寄りの日記だったってくらい、古くからこぉゆうジジィはいるもんだ。
 「天譴論」とは、奢侈淫逸に流れた人心を譴責するために天罰が下る、みたいな中国の古い考え方のことだ。漢籍に通じていた彼がこれを知らなかったワケがないので、分かりやすく上のような言い方をしたのだとしたら、意外にお茶目やん。そーいやオウム真理教もサリン事件の直前に起きた阪神大震災に関して似たようなことを言ってた気がするが、これは世間の失笑を買っただけだった。
 ちなみにこれまた文豪・谷崎潤一郎は関東大震災に死ぬほどビビって、「地震がなさそう」ってコトで神戸に転居した。阪神大震災が起きて、故人も草葉の陰でトホホだろうなぁ(笑)。

 関東大震災は、このような珍論がでてきてもおかしくないほどたしかに未曾有の大惨事であった。話がそれまくるが、これをお読みの方で震災に興味がおありなら、「篠山市教育委員会・まなびの情報ネット(http://edu.city.sasayama.hyogo.jp/index.html)」に、当時の被災映像があるので是非見て欲しい。凄まじく悲惨なカタストロフであったことが良く分かる。さらに脱線すると、このホームページ、他にも貴重な画像がたくさんあって見所たくさんでオススメ。国鉄・篠山線の動画なんてここしかないんぢゃないかな?

 ・・・・・・とまぁ、おれは冒頭に述べたように頑固でヘソ曲がりのジジイになりたいな、と常々思ってるのだけど、一方でこのような「天罰」って考え方はあまり好きではない。罰はいつも、自らか、あるいは社会が下すものだって思う。なもんで、年取ったら理不尽なことはいっても別のセリフを考えることにしよう。
 天罰も嫌いだから、仏罰ももちろん、それを半ば脅し文句のように持ち出す某・法華経系の新興宗教も大嫌いだ。あと、も一つ言うと「天網恢恢疎にして漏らさず」とか、見つかったヤツの敗戦の弁とちゃうんか、って気がするぞ。

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 某学会ばかりではなく、法華経系ってしかし、日本の現代仏教の中では珍しく、未だに一神教っぽくて狂信的な香りがきわめて強い気がするなぁ。井上日召の「一人一殺」とかさ、あれ、たかだか6〜70年前の話でしょ。あ〜コワ。信者の人ゴメン。
 古くは今のテロの論理と何ら変わらないリクツで朝鮮半島にはびこった「弥勒三界教」だったか、正式名称忘れたがそんなんとか、中世の一向宗の極楽往生のためなら権力に抵抗して命を捨てることなど何らいとわない活動とか、いくらでも挙げれるのだろうけど、今は上手いことあれこれ呑み込んで基本的にみんな大人しいやんか。
 ちょっと牽強付会な気もするけど多神論は神や仏の多様性、良くも悪くも「いい加減さ」が上手くそれをセーブしてきた気がする。

 一神教っちゃやっぱしでも、耶蘇教やフイフイ教にとどめをさす。何でだろーねぇ?砂漠の宗教は、絶対神を必要とするのだろうか?おれは唯一の神、って何だかおっかないがなぁ。神さんウジャウジャの方が楽しい。ギリシャに行きたいわ・・・・・・何と短絡的な(笑)。

 話はもっと飛ぶ。

 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンはどうやらギリシャ人だった母親の血を引いたか、キリスト教的一神論の世界観があまり好きではなく、日本の多神論の世界にギリシャ神話と共通のものを感じて、日本が好きになったという話を昔読んだことがある。ホントかどうかは知らないが、たしかに、いろいろな神さんが出てきては下世話なまでに入り乱れてバカなことやるギリシャ神話と、八百万の神々がこれまたドロ臭くも悲喜劇を織り成していく古事記に描かれるところの日本神話には共通点が多いから、案外この説当たってるかも知れない。
 もっとも、彼は欧米人としてはとても小柄だったので、その点で日本好きになった、って説も有力だけど・・・・・・ってベッカム夫人のヴィクトリアみたい(笑)。

 で、そんな彼の採集した話にこんなのがある。タイトル忘れた。

 とある山寺に夜な夜な金色に光る仏が出現するようになった。坊主はこの奇跡に驚き、狂喜する。うれしさのあまりこれを、よくやってくる猟師に話す。
 再び夜、坊主と猟師が見守る前に、金色の仏が現れるのだが、猟師はいきなりそれに向けて鉄砲をぶっ放す。坊主はえらいことしくれるやおまへんか、あんさん、と猟師を責め立てるのだが、猟師は落ち着き払って答えるのだった。

 --------私は殺生を生業とする罪深い狩人でございます。たくさんの修行をし徳を積まれたご住職が仏のお姿を拝めるのはともかく、私のような者にまでそれが見えるわけがない。そんなものはいずれ狐狸の類の化けたものでございましょう。」

 果たして翌日、裏山から鉄砲に撃たれて死んだ巨大な古狸が見つかったのだった。

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 「ペシミズムこそが狭義に限定された開放への進軍の思想である」とはバタイユの言葉だが、そんな晦渋な言い回ししなくとも、この話は雄弁に「アテられないことの重要性」を物語っている。
 そしてその当人が「猟師」という、いささか社会から隔絶した存在であることもまた示唆的だ。

 理性的に「アテられない」姿勢はどうやら孤立した人からでないと発せられないものらしい。墓石に「NON」と刻まれたセリーヌや、自称「孤独な穴居人」(何なんだよ?それ、笑)シオランなんかもいささかインテリ臭さが鼻につくけど、まぁその部類かも。
 そう、そして冒頭に取り上げた露伴も、当時の文壇では孤立した存在だったという。

 あ〜、論旨ムチャクチャ。珍しくシラフやっちゅーのに大漫談大会になっちゃったなぁ・・・・・・ん!?おれ?

 おれにはせいぜい「村外れの狂人」が関の山なんだろうなぁ〜(笑)。悪童どもに囃し立てられて石投げられたりとか、うう、かなりイヤぢゃぁ・・・・・・。

2005.11.13
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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