「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
文章作法はメッチャクチャ、それは思考がメッチャクチャ


昔の日記やHOTSpaのオリジナル。よく取ってたもんだ(笑)。

 こんなもんをバカバカ書き飛ばしてるくらいだから、おれは文章を書くのがきらいではない。最近はよる年波には勝てず、っちゅーか、昼間もほとんどPCの前で作業しているせいか、目が疲れ、肩がこるのは困りものだが、それでもまぁ、一文の儲けにもならんのに書き連ねているのだから、きらいでないどころか好きなのだろう。

 ・・・・・・で、読み返す。おれに露悪趣味がなければ、とうてい世間様に見せれる代物ではないのは百も承知だ。四つんばいになって尻の穴から揺れるタマ袋までさらすようなモンだと思う(笑)。こりゃもう、観念の露出プレイ・羞恥プレイでっせ!・・・・・・・SMは好きだが、Mの方の趣味はないんだけどなぁ。まさに、下手のヨコ好きだ。

 今日はちょっとその辺、自分の文章のことからグダグダ書いてみよう。

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 まずは一人称のこと。最近は基本的に「おれ」で通している。ところが、昔の日記を見ると、これが「僕」なんだなぁ〜。あぁ、キモチ悪い。カタカナだったら我ながらもう泣いてたな。「ボク」ってあーもー少年犯罪者かぁ!?(笑)そのうち整理してアップしてみようかな。
 これが、大学くらいから「私」に変わる。今でもよく使うので、一番使用期間としては長い。まぁまぁ丁寧で、フラットでクセがなくてよろしい。使いやすいのだが、どうも馴染めない。
 ちなみにインスタントメッセンジャーでは「わて」などと、これまたいささか露悪的な人称を用いたりしている。丁稚ぢゃあるまいし、ねぇ(笑)。そぉいや「筆者」なーんていささかペダンティックな言い方をしていた時期もあった。文章に個人の人格を出したくなかったためだが、目論見はみごとにカラ振りした。文章のアクが強すぎて、人称に力点を置いても意味がなかったのだ。
 人称にこだわることの無意味さをおれは知った。そんなもんで全体のトーンが糊塗できるワケないのだ。ならば、いっちゃんふだんの話し言葉でムリのない「おれ」が、最もシックリ馴染むのは道理というものだ。

 次が「大阪弁の混在」。これは昔からだなぁ。よく言及する町田康(町蔵)の影響ぢゃないのか?と思っておられる方も多いだろうが、実はこれはもう完全におれのオリジナル。元は日記書く時のスタイルだった。文章のリズムがこうでないと何とも書きづらい。どう言えばいいのだろう?おれは考えるときは文語で考え、話すときは大阪弁で話している。だから、それをできる限りそのまま文章にするのが最も書きやすく、言いたいことがブレない気がするのだ。
 聞くところによると、評論家の鶴見俊輔は、さすが海外帰国子女系だけあって、考えるときは英語で考え、日本語で文章に書くそうだが、いやもう大したもんだ。それで「ヤマギシ会」の提灯記事書いてりゃ世話ねぇよなぁ〜!!耄碌してんぢゃね〜ぞ〜!ジジィよぉ〜♪(笑)。話がそれた。

 さらに話はそれるが、関東に越してきて、こちらでは思いのほか大阪弁に対する風当たりが強いことを、おれは思い知らされた。転勤してきた初日、上司となるオッサンと今後のことその他、面談中の席でのことだ。

 ------キミ、その大阪弁、直した方がいいよ。
 ------(ちょっとカチンと来て)大阪弁は病気ですか!?
 ------あ、いや悪かった。だからだなぁ、その大阪弁を抜いた方がいいよ。
 ------(ますますカチンと来て)大阪弁は二日酔いの酒ですか!?
 ------いいよ!分かったよ!でもさぁ、キミそれだと損するよ。

 大阪弁ではなく、性格で損するのだろう、おれは(笑)。おれはもう何も言わなかった。そのオヤジも関西系出身で苦労させられたのだそうだが、ほんなん知るかぁ!ボケッッ!!

 席に戻ると、白木みのる一歩手前の矮人のような隣の先輩同僚がさらに追い討ちをかける。

 ------キミ、東北とか行ったら、もっと受け入れてもらえないよ。やっぱ直した方がいいよ。
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 そいつは東北出身である(笑)。「受け入れない」のは、東北人と一般化しつつ、実はそいつ個人の言語に関するコンプレックスに起因するところの閉鎖性・排他性の問題なのであって、おれの関与するところでは全くない。ハッキリ言いさらさんかい!!オメェがイヤなんやろーが!?

 閑話休題。

 3つ目は「カタカナの頻出」。ここまで書いたのを見直しても、カタカナが数多く使われている。「グダグダ」「クセ」「ジジィ」「オメェ」・・・・・・これをひらがなに直してみよう。「ぐだぐだ」「くせ」「じじぃ」「おめぇ」・・・・・・ほら!?とたんに字面が柔らかくなった気がしません?文章のアクの強さは、このカタカナによるところが大きい。
 カタカナは語感としてやはりトゲがあるのだな。・・・・・・で、ほとんど無意識にそれを使いまくる、っちゅーのはやはりおれにそのようにしたい心性があるからなので、少し今後は使用を控えるべきなのかも知れない。
 少なくとも漢字はずいぶん減らした。昔なぞ「***ということ」など、必ず「***と『云う』こと」と書いてたもんだ。笑っちゃいます。明治時代か!?っちゅーねん。
 最近のおれはすっかり変わった。漢字を減らしたい。それも動詞の漢字はなるだけひらがなにしたい、とまるで花村萬月の主張どおりになってしまっている。昔なら「成って了っている」って書いてたかな?(笑)。
  でも、よく考えると「おれ」は「オレ」でも「俺」でもなく、一貫して「おれ」と書いている。絶対に「オレ」や「俺」ではない。おれはそこまで強くはないのです。ほら、本宮ひろ志の「俺の空」にしたって、「おれの空」ぢゃ、ずいぶんショボいよね(笑)。

 4つ目は句点の多さ。

 5つ目は・・・・・・。

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 結局、おれは文章をどう書きたいのだろう?

 つまらない結論だが、書きやすいように書きたいだけなのだ。理想は考える速度、話す速度で文章を書いて行けること。だから、生産性の低い手書きなんてとてもやってられない。ワープロ上等、パソコン上等!!こいつ等のおかげで、どれだけおれは文章をまとめることが楽になったことか。感謝感激雨霰!!推敲、置き換え、段落構成、句読点・・・・・・これらの作業を手書きで行うことは至難の業どころか、どだい無理なはなしだ。

 文明の発展は、文章さえも大衆化したのだなぁ〜、とおれは思う。若者の活字離れなんてウソだ。今ほど若者が文章に触れている時代はかつてなかった。それが紙の上に印刷された活字でないというだけだ。文豪の作品だったり、時事問題や哲学でない、というだけだ。
 ひょっとしたら、ネット上に一銭五厘、二束三文の文章があふれかえることは(無論、おれの駄文も含めて、だよ)、誰もが所与のものと信じて疑わなかった、文章の話し言葉に対する最後の優位性である「権威」さえも、今後剥ぎ取っていくのではないだろうか?

 そして、おれたちはもっと大きな自由、あるいは放埓も手に入れている。

 有名な話なので知っている人も多いだろうが、一つエピソードを紹介しよう。巨匠黒沢明の映画発表の記者会見の席上のことだ。アホな新聞記者が次のようなマヌケな質問をした。

 ------監督!あなたはこの作品でどんなメッセージを伝えたかったのですか!?

 それに対し、彼はこう切り返したという。

 ------それが言えないから、私はこうして映画を撮ってるんです。

 おれの言いたいことはもうお分かりだろう。我々はすでに、「それが言えないから文章を書いてるんです」と言えるところまで到っているのだ。何だか恐ろしくもある。

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 今日の文章は終わった。次は、あなたが、書く番だ・・・・・・と「邪宗門」のラストのセリフを真似ておしまい♪お粗末さまでした〜。

2005.04.20
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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