「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
ある鹿の死


野生とは残酷。

 通勤から解放されて、朝夕に時間の余裕が出来た。これまで会社との往復に合計で2時間半くらいは割かれてたから、これはかなり大きい。

 今はもう目覚ましも掛けてない・・・・・・っちゅうとみなさんは気儘に惰眠を貪る日々を想像されるかも知れないが、そんなんではない。実はひじょうに規則正しい生活を送ってる。それもこれも目覚ましなんかなくても、猫がその代わりをキッチリ果たしてくれてるからだ。 その小さな身体のドコにそんな能力まで備わってるのか不思議になってしまうが、その驚異的な体内時計によって5時になれば頭の周りをフンフン鼻を鳴らしながらウロつき始め、それで起きなければ耳元で小声でニャァと囁き、それで起きなければ頭を引っ掻き、さらにこっちも意地になって頑張って起きないでいると頭に噛み付いたりする。甘噛みとは申せかなり痛い。布団の上にダイブしてくることもある。遠慮とステップと創意工夫がある。アタマ良いのである。

 朝食も30年以上なかったパターンで、シッカリとした朝ごはんを食べるようにしてる。ご飯に具沢山の味噌汁、あとは納豆やらもずく、昨日のおかずの残りとか加えればもう食卓の上は結構賑やかだ。パンの時はキャベツやらキュウリやら何やら刻んで、目玉焼き焼いて、ハムとかベーコンも焼いて、それにカップスープとチーズ・・・・・・まぁちょっとした喫茶店のモーニングよりは充実してる。たまにサラダチキン拵えたんをスライスしたり、スープとサラダの代わりにラタトゥイユにしてみたりもするかな?
 その分、昼は食わなくなった。コーヒー淹れてオヤツで煎餅とかちょっと齧る程度だ。一日ほぼ二食、っちゅうこっちゃね。

 ・・・・・・そうして、朝食が終わると今は山に出掛けるようにしてる。枕長くてスンマヘン。

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 何せこうしてユックリしても通勤時間分が丸々浮いてるのでまだまだ朝は早い。そんなんで天気が良ければ食後の運動がてらに家から少し歩いてった山のてっぺんまで登るっちゅうのが何となく日課になった。丘というにはかなり険しく、何だかんだで標高差も300mくらいあって、往復すると速足でも1時間半くらいになるからそれなりの運動量なんだろう。それが証拠にメキメキと痩せて来た。そらまぁピーク時がヤバいくらい太り過ぎてたんで、そこまでドヤ顔でダイエットを威張れるほどではないけど、軽く10キロくらいは落ちたと思う。でもサラリーマン生活で付けた余分な贅肉を元に戻すには、まだ道半ば手前な感じかな?どんなけ太っててん、オマエ?と我ながら思うな。いやホンマに不健康やで、リーマンって。

 そんな風にやり始めてもう結構な日数が立ったある日のことだ。
 下る途中に鹿がいた。山から大分下って来たところの普通の舗装路の側溝に、座り込んですっぽりハマッた鹿がいた。ぶっちゃけギョッとしましたわ。

 そりゃぁ奥は高さはないけど深さのある中国山地に繋がってんだから、山にはもちろん鹿もおれば猪もいる。朝早くに遠くで鹿の鳴く声が聞こえることもある。猿もたまに出没するらしい。やたらと広い我が家の庭に巨大な糞が落ちてたこともある。猪ではないかと言われてちょとゾッとした。海に近いこの町で熊は流石にまだ聞かないが、生息域がドンドン拡がって来てることからすると或いは数年内には出るようになるかもしれない。だから鹿がいたこと自体には驚かなかったけれど、本来とても臆病で警戒心が強く、人の姿を認めると慌てて踵を返して森の中に逃げ込むような野生の鹿が、目の前で溝でジッとしてる姿は何ともやはりシュールに思えたのだ。

 恐らく脚を怪我して動けなくなってるんだろう。

 ・・・・・・さて、どうしよう?通りかかったのも何かの縁、助けてやるか?しかし相手は大人しそうな見た目とは裏腹にリッパに害獣である。この辺の山の方の畑や果樹園は何処も、最早バリケードと呼んで良いような物々しい柵で囲まれてたりする。特に鹿は厄介で、集団行動な上にこれからの寒い季節、山に食べ物が無くなると木の皮を剥いでまでして食べてしまう。そうなると樹木ごと枯れてしまうのだ。う〜ん、市役所に電話するか?まぁそうすれば環境ナントカみたいなところが出て来て、そして「駆除」してくれるんだろう。しかしそれはそれで何だか寝覚めが悪い・・・・・・とまぁ色んな考えが頭をよぎったが、まずはもう少し近寄ってつぶさに様子を見てみることにした。急に起き上がって飛び掛かられでもしたらたまらんので後ろから慎重に一歩、二歩・・・・・・

 実に激しい拒絶だった。

 そいつは近付いて来たおれの姿を認めると首を振り、動かない筈の脚でいざって、それでもおれから逃げようとしたのだ。威嚇の唸り声さえ上げて。こんなんに触れようもんなら絶対にムチャクチャ暴れるに決まってる。それに意外なまでにデカい。ゴールデンレトリバーとかセントバーナード等の大型犬よりさらに一回りくらい大きい。こんなん持ち上げられまっかいな。自分がギックリ腰になるだけでっせ。絶対ムリや。
 おれは自分の安易なヒューマニズムっちゅうか、甘っトロさを思い知らされた気がした。それにコイツは決して溝に「落ちてた」ワケではない。ケガして歩けなくなって、それでも何とかして隠れて身を守ろうと自ら溝に入って伏せてたんだとようやく気付いた。

 黙っておれは山を下るしかなかった。

 我が家の猫を十王の竪破山の登り口で拾った時のことを想い出す。あの時、まだ片手に乗るくらい小さかった彼女は必至で助けを求めておれの足にしがみついて来た。生き延びるために後先考えず取り敢えずしがみついたんだろう。その必死さにほだされたからこそ、おらぁペットは飼わんとこうと思ってたポリシー曲げてまでして連れ帰ったのだ。生き物を飼えば生活に制約が生まれる。自分の中でのプライオリティがひじょうに高い泊まり掛けの旅行だってとても行きづらくなってしまうことも承知の上で。仕方がない。それが命を引き受けるってコトなのだから。

 鹿はこれっぽっちも命乞いなどしていなかった。大体、あらゆる人との関わりをハナッから全て拒絶してる。そういう生き物なのだし、それが野生であり自然なのだから、それをムリヤリ助けたって仕方ない。最近、熊を駆除することに対して自治体にクレーム入れる無責任かつノー天気なアホが多いらしいが、ホント好い気なモンだと思う。ムリヤリ助けるのか?理非を話して分からせるツモリか?ヴォケが。自分も含めた人間の業に少しはマトモに向き合ってから寝言はホザけ。そんならオマエ自分の甲斐性で飼ってみろ!って言いたい。

 もちろん、鹿はもぉ後は死ぬしかないんだろう。そのまま動かずジッとしてても飢えて餓えるだけだし、もし這って山に戻ったとしても自由に動けない折れた脚では十分な餌を得ることはできないだろう。引っ張り上げる人が来たとしても結局はすぐに害獣として駆除だ。大体、競走馬だって骨折すれば速やかに薬殺される。走れないコトに悩んでメンタル病んで暴れるかららしい。脚の長い動物は大体みんなそんなモンなのである。折れたらもぉ一巻の終わり、ゲームオーバーなのだ。

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 翌日、また山に登ったら、昨日とほぼ同じところに鹿はまだいた。随分と弱っているのか、首をU字溝の縁に載せて眼だけ動かしてた。その写真を撮る気にはなれなかった。

 その翌日からは雨だったり何だかんだ用事があったりして何日か空いて、久しぶりにそこを通り掛かると、秋の終わりの予算消化ってコトだろうか、一帯の道の両脇に生い茂ってた雑草はかなりの距離に亘って綺麗に刈られ、そうして刈り取られた草と共に件の鹿の姿も消えていた。後は今まで通りの特にこれといって特徴のないワインディングの風景だけが広がっている。

2023.10.31

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