「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
食えないコトのために食う!……はにわの西浦から想う


いつか売れる日を待ちわびながら並ぶ埴輪たち。

 茨城の桜川市、元の真壁町に属するあたりに「はにわの西浦」はある。加波山の麓に広がる長閑な田園地帯で、昔は関東鉄道・筑波線ってぇローカル私鉄が土浦から岩瀬まで通ってたけど、廃止になって随分と久しい。軌道敷の大半は今は「リンリンロード」っちゅうサイクリングロードになっており、結構人気が高い。

 この店はその名の通り埴輪の専門店で、おそらく日本唯一・・・・・・っちゅうか、世界唯一だろうと言われている。上の画像からもお分かりいただけるだろうが、店内は圧倒的な数の埴輪にギッシリ埋め尽くされており、その数は実に5,000体とも言われる。店内に収まり切らないモノは、店の前から駐車場にまで溢れている。長年風雨に晒されて苔生えちゃってるのまであったりする(笑)。小さいものは掌サイズ、大きいのはおれの背より大きいのまであって、値段も800円〜200万円(!?)とまちまちだ。

 取扱商品のレア度と店の佇まいの怪しさから色んなメディアに採り上げられることも多く、今一つ特徴に欠ける町の中で現在は、ちょっとB級な観光スポットにもなってたりする。
 元々、良質な陶土が産出するってコトから、店は植木鉢の窯をやってたらしい。それが高度成長期になって登場した安い樹脂製品に押されて段々と売れなくなり、それで素焼きで似てるだろ?埴輪って好きだし、ってコトで始めたのが埴輪作りだったそうな。ぶっちゃけいささか論理の飛躍があるようにも思うけどね。聞かされた家族はその時、それこそ埴輪のようにポカンと口開けたんぢゃなかろうか。それでも幾星霜、現在の店主で二代目で、何だかんだで唯一無二の埴輪専門店としてすでに60年以上の歴史があるとのコトだ。

 ・・・・・・こう聞くと、いやまぁ時下ますますご清栄のことと存じますなんかいな?って要らぬチャチャの一つも入れたくなってしまうが、実はほとんど商売になってないらしい。そらそうやわな。たしかに埴輪、殊に「踊る埴輪」って通称で知られるアレ、あれなんて何とも抽象化されたフォルムがちょっとシュールなイラストチックで何ともユーモラスで、埴輪のアイコンともなってたりする。だからってあれ買って信楽焼の狸のように庭に置こうっちゅう奇特な御仁はそうそう居るまい。そもそも副葬品なんだしさ。
 だから店内の商品?作品?の大半にしたって先代が作ったモノで、今の主人は売れた分の補充のためにボチボチと制作する程度なんだとか。つまり、膨大な数の何十年もの不良在庫に店は埋め尽くされとるワケだ。
 もちろん、だから埴輪制作だけでは食ってけるハズもなく、それで仕方なく物流倉庫かどっかでアルバイトしてるんだという。

 そして今回の話題は始まる。結局、「好きなことをやり続けるために何か別のコトして糊口を凌ぐ」ってどぉよ?っちゅうコトをウダウダ書き連ねたい。

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 「好きなことをやる」を徹底した人と言えばまず、私淑して止まない異能の才人、中島らもが想い出される。早いものでもう亡くなって20年近くが経つ。たしかに一言で言えば彼の破天荒な人生は、大阪弁で言うところの「ヤタケタ」の産物だったようにも思える。
 しかし「肩書としての職業」つまりは「カンバン」にヘンに拘ってた彼は溢れる才能で以て、その好きなことでキッチリ稼いで食ってたのである。「元を取る」とか「回収する」とでも言えば良いのだろうか、そうしたアウトサイダーとしての日々を色んな作品に昇華させてたワケだから。
 コピーライター廃業宣言に続いて、最晩年に至って今度はミュージシャンになるって作家廃業宣言とか言い出してワリとすぐに彼は急逝したんで、音楽でホンマに食えるようになってたかどうかはもう誰にも分からないけど。

 妖怪マンガの泰斗・・・・・・っちゅうよりは本人自身がほぼ妖怪だった水木しげるもまた、「好きなことをやる」だけで90なん年の生涯を全うした一人だろう。「ねぼけ人生」なんてトボけたタイトルで自伝を書いたりしてるけど、実際は好きなことをやるための強烈な意思がそこには一貫してあった。兵隊に取られて上官からビビビビーッって毎日ビンタされようが何しようが、絶対に自分のペースを崩さないんだから本当に大したモンだ。
 結果的には「悪魔くん」の大ヒットで、不惑も過ぎてようやく食えるようになったけど、もしあの作品が当たってなかったとしても、絶対にこの人はひたすら漫画を描き続けてただろう、って気がするな。

 そうだ、知の巨人・南方熊楠も「好きなことをやる」を徹底した人だった。ただ彼の場合、親や家業を継いだ弟からの仕送りに生涯頼り切ってたんで、決してそれで食えてたワケではない。生前に残したのは断片的な論文と、軽妙だけど洒脱っちゅうよりはどこか酔っ払いの与太のような随筆ばかりだった。
 水木は晩年に「猫楠」というタイトルで南方の伝記マンガを描いてるが、おそらくはそのナンギだけど愛すべき一生に深く共鳴してたんぢゃなかったかと思われる。

 物故者ではなく未だ現役で「好きなことをやる」を徹底してる人と言えば、極北の漫画家・「ねこぢるy」こと山野一も忘れちゃいけない存在だろう。自称も他称も鬼畜系な作品がそんなに一般的なポピュラリティを得られるとは思えないが、何だかんだでこの人、ちょっと大学でマンガ教えたりとかしてた時期はあるものの、デビュー以来ずっと職業的漫画家でやって来てるのだ。
 再婚されてからは「鬼畜系」の看板下ろして随分穏やかな作風に一変したものの、相変わらずの寡作ぶりは変わらず、いつまでもねこぢる時代(・・・・・・この時は一種のブームにさえなった)の印税が続くとも思えず、どうしてやってけてるのか少し不思議に思う。

 当たり前だけど「好きなことだけをやる」っちゅうのは、食ってくコトを考え合わすとかなり大変なのである。

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 ・・・・・・え!?おれ!?

 まぁおれもワリと同じような立ち位置にいるのは間違いない。おれにとって会社勤めを突き詰めて考えると、自分の好きなことをやるための方便として不承々々続けて来てるだけなんだろう。ただ、根がヘンに生真面目だからバックレてチンタラやることもなく、加えて効率の悪いコトに血道上げるのを誠実や勤勉と履き違えたような連中があまりに多いのにムカついて、ついついムキになって一生懸命やっちゃった!嗚呼しまった!・・・・・・ってなトコだろうか。
 多分、ヨメやら子供やらといった錨が無かったら、もっと違った道筋だったろう。子は鎹、かすがいの甘納豆、って上手く言ったモンだ(笑)。自分自身は貧乏暮らしだろうが何だろうがどうにかやってけるし、さほど苦にもしなかったりするんだけど、家族まで一蓮托生で巻き添えにするのはやはり躊躇われてしまう。随分と言動に平衡を欠きながらも、それでも何とか市民生活の中に埋没して平々凡々とやって来れたのは、そうした一種の常識っちゅう名の思い切りの悪さや中途半端さ、有り体に言って怯懦がいつも働いていただけなんだと思う。平たく言やぁ、ただのビビリ。まったく褒められたハナシではない。イチかバチかの大勝負には絶対出れないタイプだな(笑)。

 それでも何だかんだでヤッパシ八ッ橋、かように中途半端ではあるものの、生きてく上での力点が「自分の好きなことをやる」、にあるのは間違いなかろう。でなけりゃ睡眠時間削ってこんなサイト作成に時間費やしたり、楽器に未だ目を輝かせてたり、カメラ弄くり回したり、野宿したり、思い付いたように料理に血道上げたりはしないって。これらは決して息抜きとか労働の再生産のためにやってるワケではないのだから。

 この点で、おれのメンタリティは収入の多寡はあるだろうけど、遊園地の戦隊ショーで着ぐるみカブッてる売れない俳優や駅でティッシュ配りしてるヘビメタ連中とあんまし変わらない。しかし彼等には何より臥薪嘗胆、いつかはビッグになって連ドラ主役だぜ!映画主演だぜ!、武道館だぜ!ドームだぜ!ってな成功への野心がある。決定的におれに欠けてるのはそこで、おらぁただもう好きだからやってるのだ。
 そりゃぁ上で述べた好きでやってるアレコレでガンガン収入入って食って行けりゃあそれはそれでエエんだろうけど、対価を伴うようになったらなったで、どうせヘンなしがらみやらら周囲の雑音が出て来て面倒臭ぇだろうなぁ〜、って危惧しちゃう・・・・・・そう、面倒くさいのである。

 もちろん、代償行為として日々の会社員としての労働の中でなるだけ自分の好きなことをやって、それでまぁ何とか自分を得心させて、ってこともあったろうし、ガラにもなくやってみようと試みたこともあったし、それでまぁ一応の成果も上げ得たんだけど、やはりそれではどうにもスッキリしない。
 いつだったか会社のエラい人に鋭く見透かされたコトがある。「R***君は自分で納得せんと絶対に動かんなぁ〜。でも会社なんだから不本意なコトもやらされてナンボだぞ・・・・・・まぁ、それでも他の人がやらんコトやってくれてるからエエんだけど」・・・・・・まったくその通り、おれには返すコトバがなかった。スンマセン。

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 日本国憲法にある国民の三大義務・「教育・勤労・納税」ってのは有名だから、きっとみなさんもご存じだろう。では「勤労」って何なんだ?「勤労学生」とか「勤労感謝の日」なんて言ったりするよね?

 調べてみると「勤労」とは、「心身を労して仕事に勤めること。勤めにはげむこと。また、勤務の労苦」あるいは「経済で、直接には物の生産に従事しないが、生産に不可欠の、または、生産に多大な効果をもたらす労力をいう」となっている。後者は所謂、間接的な職業を指してるので、憲法が謳ってるのは前者の方だろう。要は「アタマでもカラダでも何でも良いから使って頑張りなさい!苦労しなさい!」ってこったな。カァ〜ッ!!ありがたくて涙が出るわ、ホンマ。そしてここで大事なのは「労働」の義務とはどこにも書いていないってコトだ。

 先日読んだ本にあったのだが、突き詰めると「仕事」とは自らの意思を持って主体的に何か役立つことをすることであり、「労働」とは雇われて賃仕事で働くのを指すんだそうな。だから「『労働』基準法」はあっても「『仕事』基準法」ではないし、憲法も「労働」の義務にはなってないんだ、と。
 ほほぉ〜!って思った・・・・・・っちゅうのも、「仕事」はともかく、おらぁ「労働」と「労役」について以前からあれこれ考えてたからだ。これらをガッチャンコすると次のようなカンジになるだろう。そしてこれらの総称が「勤労」なんだろうな。

   ●仕事・・・・・・自分のやりたいことをやる。内容には少なくとも本人にとっては意味があり、対価性は問わない。
   ●労働・・・・・・雇われて労働力を提供し、辞められる。内容には意味があり(・・・・・・あるハズ)、有形無形の対価を伴う。
   ●労役・・・・・・ムリヤリ働かされ、辞められない。内容に意味があるかないかは分からないが同じく対価を伴う。

 さて、会社勤めで毎日やってることを、おれたちの大半は特に疑うこともなく「労働」だと思ってる。実際に労働契約ってのが取り交わされ、一日8時間とか自分の時間とその間の活動を労働力として提供し、お給金を貰う、と。
 決してそうぢゃないんぢゃないか?対価を払ってるのを盾に、何の役にも立たないどぉでも良いコトばっかやらせてるケースが多いんぢゃないか?って鋭い疑義を突き付けたのが、D・グレーバーの「ブルシット・ジョブ」ではないかと思うんだけど、それは恐らく実のところおれたちの「労働」の大半が実際は「労役」であったってコトではなかろうか。

 いささか偏執狂的な考えであることは自分でも認めるが、雇われてやってる以上、そこにホンマに自分のやりたいことなんて絶対にないし、あると思えたとしたらそれは幻想か、もしくはハッピーな誤謬だろ、ってのがおれの結論だ。

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 ヘンな社会心理学実験っちゃぁ、アメリカが本場だろう。6種類のジャムと24種類のジャム、どっちが沢山売れるか?なんて有名なのから、スタンフォード監獄実験みたいな笑えないのまで、ホンマトよぉもまぁこんなクダらなくも面白いアイデアが出て来るモンだと呆れるやら感心してしまう。そんな実験の一つに、同じ作業を無報酬だけど好きにやらせる、出来高による報酬はあるけど監視監督付きでやらせたら、どっちがより高い生産性を示すか?ってのがある。残念ながら何て名前の実験だったかは忘れた。

 果たしてその結果はどうだったか?・・・・・・ここまでの流れで大体想像が付くと思うが、タダ働きの方がみんな熱中して一生懸命やった、っちゅうんである。もちろんそれが一時的な作業なのか、継続的に続くモノなのか、さらなる実験や検証が必要だろうとは思うものの、ひじょうにこれは示唆的であろう。

 たとえ与えられた内容であれ、人は対価無しで好きなようにやった方が頑張れるワケだ。では、対価有りで好きなようにやったらどうなるか?
 そのような実験が行われたことがあるかどうか、寡聞にして知らない。しかし想像は付く・・・・・・おそらくは何らかの「ズル」をやるようになるんぢゃなかろうか?。人間とは無私無欲とさもしさ、両方持ったひじょうに矛盾した生き物なのだ。

 食えないコトのために食う、の「コト」って案外、「事に仕える」って意味での本質的な仕事の「事」に相当するのかも知れない。

2022.03.17

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