「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
コト消費だってさ


実際に踊って行った例は、比較的近場らしい・・・・・・そらそやわな。江戸からだと体力が続かん(笑)。

https://jaa2100.org/より

 昔に較べたら「President」って、ちったぁマトモになったように思う。かつては劣化した権威主義なのか何なのか、毎号毎号飽きもせず、「歴史上の偉人に学ぶナンチャラ」みたいなんしかネタがなく、あまりの金太郎飴ぶりにちょっとアホではないかと思ってた。しかし流石にネタが尽きてアセッたのか、窮余の一策のようにお受験雑誌にクラ替えしたところこれが大いに当たって、今はスピンアウトして「President Family」なんて別のが生まれたりもしてる。
 それで本丸の「President」は?っちゅうたら、紙媒体の近況にについてはもぉ良く分からない。おれ自身、雑誌から得られるような情報はほぼ全てネット越しになってしまったからだ。どだい細かい活字を追おうにも目が付いて行けないんだし(笑)。

 そうしてあれこれ流し読みしてる中で、ちょっと引っ掛かる記事があった。1つはホリエモンこと堀江貴文の「家を買うな、保険に入るな、会社にしがみつくな」っての、もう1つは藤川太って誰か知らんが、財テクに関するハナシである。いやまぁ、どっちもたまたま「President」だっただけなんだけどね。ムリクリにマクラ膨らましてもザーとらしいだけでアカンっすわ、マジで。

 ・・・・・・って、ホリエモンのは?っちゅうと、しばらく前の「手取り14万円です……。何も贅沢できない生活。日本終わってますよね?」ってアラフォー女性のツィートに対して、「『お前』がおわってんだよwww」ってリツィートしたら大炎上したことについての解説記事である。
 この人って、実はかなり心根が優しくて良い人ぢゃないかとおれは思ってる。徹頭徹尾毒舌に徹してた方がパブリックイメージとしてのヒールにはプラスに作用するだろうに、ナゼかいつものパターンでついついホトケ心出して、後からゴニョゴニョ噛んで含めて言ってあげるモンだから、却ってヘンな流れになって言い訳っぽく見えちゃう(笑)。
 彼の主張はいくつかのポイントから明確に読み取ることが出来る。「贅沢なんかしなくても幸せにはなれる」、「足りないのは月給ではなく、人生を自力で生きていくためのリテラシー」、「『できない理由』を探す人は、人生を無駄にしている」、「自己犠牲は美しくない、しょせん無駄骨だ」・・・・・・どれも極めて正鵠を射てると思う。見た目あんなんだけど、やはり頭脳明晰なんだろうな。
 彼が分かってないのは、ギフテッドな人特有の理想主義の限界で、どぉ逆立ちしたって、どれだけエールを送られたって、それでもなおガレー船の漕ぎ手しかできないような不活性な人間が世の中にはゴマンと溢れており、だからこそ世界は回ってるってコトだ・・・・・・クソしょうもないツィートを上げたこの終わってるオバハン、及びそれに追随した連中のような。

 も一つの記事はまぁいささかゾッキな話なんだけど、「『お金が貯まらない人は、休日によく出かける』1億円貯まる人はめったに行かない"ある場所"」ってな見出しで、「1億円貯める人の行動パターン」みたいなことを述べたシリーズの一つだ。要はTDRとかで相手の思惑に乗せられてホイホイ散財すんな、と。
 そんなに1億円がエラいんかい?要は拝金主義の裏返しのケチな生き方ちゃうん?等のツッコミどころ満載っちゃう難点はあるとは申せ、こちらも断片的には肯首に値する点があった。例えば「本当のお金持ちは、『お金をかけずに楽しむ』スキルを身に付けています」、「レジャー施設が好きな人はお金持ちになれない」・・・・・・後半が余計な小遣いを与えないなんて子育て論になって破綻してるのは、お受験雑誌の色も出したいと欲張ったからだろうか(笑)。ともあれ「本当のお金持ちは、遣う時には信じられないくらいケタ違いにトコトン遣います」ってこともチャンと言って欲しかったけどな。

 これらの主張には一方で、「すべては本人の気の持ちよう」ってな石田梅岩の唱えた石門心学に代表される現状容認主義に堕するリスクはあるものの、自分の愉しみくらい自分で決めて自分で拵える、っちゅう点でおれは賛同できるような気がした・・・・・・そんなおれは1億円どころかその1/10も貯まってはないんだけど(笑)。

 そろそろ今日の本題だ。

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 この何年くらいだろうか、「モノ消費からコト消費へ」なんて言われるようになった。要は戦後の高度成長期に盛んにマスコミが喧伝して、アッパーミドルな生活のアイコンとなったような「モノ」の豊かさが一巡した後に、色んな体験が重要視されるようになって来た、ってなコンテクストで登場して来たように思う。

 ちなみに戦後、そうしたモノ消費で「三種の神器」と呼ばれたモノは以下のような感じである。50年代が「白黒TV・洗濯機・冷蔵庫」、60年代から70年代が「カラーTV・クーラー・自家用車」・・・・・・2000年代の急速なデジタル化の中で「デジカメ・DVDレコーダー・液晶TV」なんてのも言われたが最早かつてのようなコンセンサスを得てるとは言い難い。これらはWikipediaからの引用で、電化製品ばっかしになってるのが玉にキズのように思う。こっから先はおれの個人的な感覚で言うと、70〜80年代に掛けては「マイホーム、ブランド品、海外旅行、応接セット、ステレオ」辺りなのかなぁ〜、って気がするな。あとはガキの習い事への投資なんか含まれるかも知れない・・・・・・なぁ〜んだ!既にコト消費入って来てるやん、ってか!?

 いやまぁこうして大層に書いてはいるが、ぶっちゃけ「モノ消費からコト消費へ」なんてコトバ、ちょっと忘れかけてさえもいたのだった。それが先日、丁度コロナが一段落した時だ。どこでだったかっけなぁ〜?・・・・・・電車だったかどっかの飲食店だったかで二人連れの若いオネーチャンが話してるのを聞いて想い出したのだった。
 それはとりとめのない会話ではあった。休みになったらどこかに出掛けて、たしかラフティングだかバンジーだか何だかやろうか、ってな会話だった。あぁそうだ、その中で「モノよりコトだよね〜」ってなやり取りが聞こえて想い出したんだった。
 別段、そこまで目クジラ立てる内容ではなかったのに、何故かその時、直感的にある種苛立ちにも似た何とも名状しがたい不快感に襲われたんだった。

 まずはコトを消費する、ってのがおれにはどうにもピンと来ないのである。お金がかかったのはそら結果に過ぎんやろ?みたいな・・・・・・もちょっと言えば、コトのために対価を払った時点で、それはコトではないのではないか?あるいは、対価と引き換えで容易に得られるコトって何とも薄っぺらで寒々しいのではないか?って気がしたのだ。買うだけで手に入る「コト」なんbてしょうもないやん、と・・・・・・そらまぁラフティングやバンジーを全部自前で道具揃えてやるのはむつかしいだろうけどさ。

 多分、これってセックスに置き換えると分かりやすい。別に性を金で買うことも売ることもそれはそれでアリだとは思うけど、ソープ行って、「おれヤッたんだ!」っちゅうてウケるのは、ヤリたい盛りのせいぜい学生くらいまでっしょ?そいでもってさらに通いまくって例えば女性経験軒が豊富だ、なんてドヤ顔したらどぉか?っちゅうこっちゃね。「素人童貞」って揶揄されるだけやんか。当然ながら「お金一杯あって良いですね」なんてことも決してない。「金で女買ってるだけやん」って言われてお仕舞いだろう。その挙句に毒盛られて殺されたジジィもいた。数日前にようやっと犯人が逮捕されたって新聞に出てたな。

 「コト消費」っちゅう耳触りの良いコトバの本質はつまりそぉゆうことだが、そもそも論で「コト」って何だ?っちゅうと、体験ってコトなんだろう。
 上でちょっと触れたとおり、戦後の大衆化した「コト消費」は70年代にはあちこちで始まってたように思う。実際、概ね生活必需品的なモノがまずまずどの家にも備わるようになった時期と重なるし、この頃から急速に海外旅行が一般化しだしたことからもそれなりに納得性はあるだろう。しかしそれは所詮、戦後の僅か70数年の極めて短いスパンの中での流れの中でのミクロ史観に過ぎない。

 遅くとも江戸時代、やや都市部中心ではあったものの、既にコト消費は隆盛を極めてた。「ええぢゃないか」のお伊勢参りなんてその最たるモンだろう。もちょっと小規模なのでは富士講や大山講、御嶽講みたく先達に連れられて霊山に登る、っちゅうのんなんかも同じカテゴリーだ。当時の行楽が何らかの形で宗教入ってたのはこりゃもぉ仕方ない。
 俳諧・川柳、詩吟に都都逸、義太夫節、三味線や笛・太鼓、剣術修行・・・・・・今で言うカルチャースクールみたいなんも山のようにあった。同好会みたいなんもあったが、お師匠さんがいるのは、センセも霞食って生きてるワケぢゃないから。それなりに授業料が必要だ。これらを「コト消費」と言わずして何と言おう?
 田舎の農民にはなかったか?・・・・・・いやいや、形は違えどあった。田植え祭、盆踊り、秋祭り等々の祭がそうである。こっちは今で言うところのフェスみたいなモンだな(笑)。もちょっと小規模なのでは庚申講や念仏講、月待講、若衆講なんてのもあった。要は何だかんだ理由付けて夜通しウダウダやるワケだ。自主企画のディスコやクラブに近いかも知れない(笑)。

 ハナシがちょと逸れた。

 おれが感じた苛立ちは考えてくと、コトのための消費の是非ではなかった。コトまでがレディメイド・・・・・・つまり既製品化され、まるでカタログブックを漫然と眺めて商品を選ぶかのように体験が得られてしまう、現代のとても便利だけど空疎な状況に対してだった。
 無論、、江戸時代のコト消費だってそんなにエバれたモンぢゃないってことは良く分かってるつもりだ。何となくボヤ〜ンと富士講に付いてった人や、義太夫が流行りだからってあまり考えずミーハーに習いに行く人、孤高を気取って祭りに参加しないのもカド立つよなぁ〜、って追従してた人だって必ずいたハズだからだ。

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 かくして冒頭のハナシとコト消費は繋がって来る。極論にはなるけど結局のところ、「自分の世界は自分で考えて自分で創り出せ」っちゅうコトに尽きるんだろう。いくら高価でもくお仕着せのモノを欲しがったり、ブラ下がったり、手に入れて満足してるだけぢゃぁ人生あんまし楽しくないよ、っちゅうコトでもある。そしてそれは対象が体験であっても同じだ。パック旅行にどれだけ参加したって、アナタは旅行通でも何でもないってコトだ・・・・・・まぁ、敢えてナナメにパック旅行をディープに極める、っちゅうのはあるだろうけど。そしてそれは金額の多寡で量れるモノでもない。ただ贅沢して幸せではない。
 もちろん、そぉいった価値観の極致にあるような高級ブランド品や高級レストランでの食事なんかまですべて否定しようとは思ってない。修行僧のようにストイックに生きろと言いたいワケでもない。断捨離なんてクソ喰らえだとさえ思ってるし、おれの部屋はモノまみれで足の踏み場もない。さらにかく言うおれんちにだって数は少ないけど、高級とされる時計だのヨメのカバンや財布だの、チョロッとはあるんだし、超高級な食事だってちょっとはしたコトある。それに実際まぁ、手に入れた時は嬉しく、食って楽しかったのも事実だし。

 それはそれであって良い。問題は、買えない自分、贅沢できない自分を不幸だとしか思えない、直線的で功利的、そして浅はかな思考回路の貧困にある。そう、貧しいのは経済状態ではなくて精神構造なのだ。決して諦念からでなく、主体的に考えてそう思い至れない人は、どこまで行ったって貧しく餓えたままだろう。ヴィトンやシャネル、エルメス、グッチに囲まれながらどうにも貧乏臭さが抜けないオネーチャンを見れば良く分かるやん。

 あまり演説打っても仕方ないし、酔いも回って元々壊れかけの論旨がさらに破綻しそうなんでサラッとまとめるならば、モノ消費の後に地続きなコト消費なんかに踊らされちゃいけない、っちゅうこっちゃね。

2021.04.28

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