ガチのクズ・・・・・・尾崎放哉


殆ど画像が残って無いみたいで、後は須磨寺での寺男時代のが見付かる程度。

 これまで中島らも、鴨志田穣、あるいは古いトコでは井上井月、他の私生活はワリとちゃんとはしてたもののとにかく大酒呑みだった若山牧水なんかもやや含まれるかな?・・・・・・色々と放浪型あるいは破滅型のモノ書きたちを取り上げてきたんだけど、そんな一群のナンギな人たちの中でもズバ抜けて横綱級の存在が尾崎放哉ではないかと思ってる。
 極貧生活の中、金持ちのパトロンに辛うじて縋りながら酒喰らっては俳句をヒネり(・・・・・・っちゅうか他の才能がほぼ欠落してるんでそれしかできない、笑)、そして句集を存命中に残さなかった、っちゅう点ではかなり井月に通じるトコがあるんだが、何かちょっと違う。どうにもコイツには可愛げがないんだよな〜、って昔から思ってた。いや、可愛げがないっちゅうか、そのあまりの壊れ方にぶっちゃけいささかの薄気味悪ささえ感じられるのだ。だからこれまであまり取り上げる気にはなれなかった。

 ・・・・・・では何で唐突に彼について書こうと思ったのか?

 いや〜、実はとても単純なハナシで、最近、セカンドライフを過ごすのに瀬戸内方面への移住なんかを画策してるんだけど、それであれこれあっち方面を調べてるうちに、小豆島の粗末なお堂で病苦と貧窮のうちに40そこそこで最期を遂げた放哉の存在に行き当たった・・・・・・ってそれだけだ。もちろん、そんなくたばり方、おれは真っ平御免だけどね。
 そぉいや吉村昭の彼についての評伝小説である「海も暮れきる」も未読だったよなぁ〜、なんてコトを想い出して読んでみたりもした。捲土重来を図ったはずの朝鮮から、あまりの自堕落さに仕事クビになってスゴスゴ舞い戻り、とにかく何をやってもダメダメ。そんなんで零落の果てに小豆島に渡って亡くなるまでの八ヶ月間の足取りを丹念に描いた作品だ。おらぁ吉村昭はかなり好きで、高校くらいの時にガーッと読みまくったんだけど、当時はまだこの作品、文庫化されてなかったんだっけ。
 放哉の生涯については昔からある程度知ってたとは申せ、読んでみてかなり衝撃的だった。資料考証やフィールドワークが極めて厳格かつ緻密で、小説っちゅうより殆ど高精度で信憑性の高いルポルタージュに近いとさえ言われる吉村昭だから、余分な思い入れや脚色は極力削ぎ落してて、これがほぼほぼ史実なんだろう。まぁとにかくホンマのホンマにどうしようもないクズなのである。酒癖どころか根本の性格自体がメチャクチャ悪い、尾崎放哉って。そりゃおれだって大概自分の性格が歪んでて悪い方だって自覚はあるけど、サスガにここまでヒドくはない・・・・・・恐らくは多分メイビー、パーハップス(笑)。

 まず尾崎放哉の人生がどんなんだったか?っちゅうと、これはもぉ本人が残した作品よりも没後の評伝の方が遥かに大量に存在する(作品集としては、師匠っちゅうか先輩の荻原井泉水がまとめた「大空」一冊しかない)から、そちらを見ていただいた方が手っ取り早かろう。Wikiにもページがあって10分もあれば読めると思う。まぁ、たとえ名前は知らなくても「咳をしても一人」って句なんかは、自由律俳句の代表例として種田山頭火の「分け入つても分け入つても青い山」とかと一緒に教科書に出てきたりもするんで、あ〜!って気付かれる方もいらっしゃるかもしれない。

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 そもそも彼のテリトリーであった自由律俳句が何どいや?ってトコから始めんとアカンだろう。

 「世界一短い詩」とも言われる俳句にはキマリが2つある。五・七・五の十七音であること、季節を表す季語を入れることであり、これらが最低限のレギュレーションとなってる。ルーツ自体は古いが、俳句を俳句として芸術の域に高めた元祖はご存知、松尾芭蕉と「蕉門」と呼ばれる門弟たちの一派だった。しかしぶっちゃけその後はどんどんただの花鳥風月を謳うだけのモノになり下がってった。平たく言えば俗とマンネリズム、技巧だけに堕した旦那芸になってたワケやね・・・・・・何だか今の写真の世界みたいだ(笑)。
 そこにまず現れたのが、正岡子規や高浜虚子・河東碧梧桐等の専ら「ホトトギス」を発表の舞台とする「俳句革新運動」なんて呼ばれた連中である。そうこうする内、「あらゆる様式は過激化する」って歴史の流れ通り、従来の五・七・五の音韻に拘らない新傾向俳句ってのを碧梧桐、あるいは作品はイマイチでも理屈は上手かった大須賀乙字(イヤなヤツ、っちゅう点ではかなり放哉と似てるかも)あたりが始めたのが自由律俳句の最も早い例だろう。さらに荻原井泉水がこれを一歩進めて季語も取っ払っちゃった俳句を提唱し、機関誌「層雲」を始めたりなんかして、自由律俳句の流れは出来たってコトになる。放哉は井泉水の一級下で、この同人誌のレギュラーメンバーだった。

 ゴチョゴチョ書いたけど、元々ミニマムな形式である俳句から、最低限の二つのレギュレーションさえも取っ払ったのが自由律俳句ってワケだ。

 これをパンクロックになぞらえる向きもある。なるほど「既成のスタイルへの反逆」、っちゅう点ではたしかに分からないでもない。しかしながら、パンクが要するにワリとオーソドックスでオールドスクールなパブロックの延長線にあったコトからすると、むしろ正岡子規の俳句革新運動の方がおれはパンクだったように思える。少なくともロックンロールの所作であるスリー・コードやAメロ・Bメロ・サビってな枠組みは外さなかった、っちゅう点に於いて、五・七・五や季語は守った彼のスタンスはパンク、特に初期パンクを彷彿とさせる。
 安易な比較が浅薄で虚しいことを分かった上で敢えて言うと、自由律俳句はパンクムーブメントに相前後して現れたノイズ・インダストリアル・・・・・・それもハードコアとかハーシュと呼ばれる極北の音に近い。音楽としての最低限のレギュレーションである、メロディやリズム、調性を度外視したトコに成り立つのがノイズ・インダストリアルなので、自由律俳句ってひじょうに似ているように思う。

 つまり逆立ちしたってメジャーには絶対なれないし、まぁこんなんに真面目にハマったってロクなことない、っちゅうこっちゃね。だからさすがのおれも自分でバンド始める時はノイズ・インダストリアルなんてやらんかったんですわ・・・・・・そらぁたまにはピーピーガーガーゆわせてたけどさ(笑)・・・・・・誰がおれの昔の言い訳書けってゆうた?

 閑話休題。こうしてマイナー音楽に譬えてみたのにはもう一つワケがある・・・・・・って、俳句のみならず小説でも詩でも短歌でも文芸活動全般に通じることなんだけど、同人誌作って好きな者同士がウダウダ寄り集まってる構図が、おれには往年の所謂「インディーズ・シーン」とひじょうに重なって見えるからだ。蝸牛角上の争い、っちゅうんですか、すんげぇ小っちゃくて閉鎖的な世界でお互いあーだこーだ褒めたり貶したり羨んだり妬んだりし合ってるような、偏狭でヲタク、完全に自家中毒起こしたような雰囲気がとても似てるのである。言うまでもなく、たとえそんな場でいくら頭角を現したって、所詮タカが知れてる。

 ちなみに現代の目線で見れば俳句は何だかとても古臭い。それは間違いない。しかし明治の、まだ口語体の小説さえ何も確立されてなかった時代には、表現スタイルとしての俳句はそんなに古いものではなかったどころか、むしろコトバを切り詰めて抽象化するという前衛性がちょっとインテリでスノッブな若者を熱中させるに足りるモノだったってコトは予め念頭に置いといて良いように思う。
 鳥取の片田舎に生まれ、幼少より極めて学業優秀で一高〜東大っちゅう、現代からは想像も付かないほどのスーパーエリートコースを歩んでた彼が、そんなシーンの最先端にハマッたのはナンボ先輩に荻原井泉水が居たってコトを差し引いても当然の帰結だったと思えるし、まぁ若気の至りとして十分に許せるハナシだろう。同級生にはもっとエクストリームなんがおったくらいなんだし・・・・・・何とまぁ、華厳の滝ジャンプの元祖・藤村操がその人である。

 いつの時代もこうしたキマリをブチ壊す横紙破りのトガッた分野に足を踏み入れる人に、それなりに人格の偏頗を抱えてるパターンが多いってのは間違いなかろう。

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 さて、放哉のイヤなヤツぶりが具体的にどんなだったか、自分なりの考察も含めて挙げてみることにしよう。

 まずWikiにも載ってるエピソードで、「自分は東大法学部出てるクセに他の東大法学部出てるヤツが大嫌いだった」ってぇのがある。何ともネジくれて鬱陶しいやっちゃねぇ〜。
 でもまぁ好意的に解釈すればこれは、高学歴なインテリゆえの韜晦な自虐・自嘲とも言え、要は極端にひねくれた謙遜と言えなくもない。実際インテリなのに、「おれはインテリが嫌いだ」なんてなコトを公言して憚らないややこしいカテゴリーの人間を、おれはこれまで何人も見て来たから、実はそれほど珍しいケースでもないように思う。概して中途半端な天才肌のヤツに多かった。アタマは良いから死ぬほどすんげぇ勉強しまくって努力でインテリ枠を獲得したワケではないもんだから、その場所に絶えず疎外感っちゅうか、リアリティの無さがあったりもするんだけど、大天才っちゅうほどに突き抜けてもないんでヘンな屈託と劣等感が結構多かったりするようなあたりのヤツが、得てしてこうした逆立ちしたようなセリフをほざくのだ。

 しかし放哉、そっからがいけない。そんなコトゆうてるクセに、一方では東大出てるんを事あるごとに鼻に掛けて威張ってたっちゅうのである。実にイヤミなやっちゃねぇ〜!・・・・・・とは申せ、これもまた好意的に解釈するならば、恐らくは落魄して何もかも失ってからの言動ではなかったかと想像され、俳句以外はもぉそれくらいしか他人に誇れる経歴、どころか普段の生活で自分のアイデンティティを表現する術さえ残って無かったんだろう。誰が自分の人となりや経歴を話すのに、酒で失敗して会社を一度ならずクビになりました、寺男さえもクビになったりしてます・・・・・・なんて言えるかぁ!?ってね。でも乞食みたいな風体で「実は東大出てます」なんて言われた方が余程キモいんだけどね。

 いや、本当の問題はそんな言った内容よりも、彼が相手によって言うことを変えてた、どうしようもない卑屈さや卑怯さにあるような気がする。最初の発言はどうやら、仕事の同僚や俳句で付き合いのあったような少なからずハイブローでインテリ枠な連中相手、後のはどうやら島の一般ピーポーに対してのモノらしい。行動ではなく発言で「強きを助け弱きを挫く」っちゅうのをやってたワケやね。
 彼の酒癖の悪さは途轍もないレベルだったようだが、ぢゃぁ酔えば必ず相手に重箱の隅をつつくようにネチネチ絡んで酒席は滅茶苦茶にになってたんか?っちゅうと必ずしもそうでなかったようである。金ヅルの家で御馳走になる時なんかは、かなり必死ではあったにせよチャンと自制心を働かせて、飲むのも控え目、要らんことは言わないように努めて大人しく酔ってたりするのである。さすが東大出てるだけあって、それくらいの最低限の思慮分別はあった、っちゅうこっちゃね(笑)。メッチャ小狡いやんか。

 相手によって言い方や態度を変える・・・・・・多少なりとも人間誰だってそぉいった面は持ち合わせてるだろうとは思うし、最近ハヤリの言い方するならマウンティング、っちゅうアレで、人が二人居ればそこには力関係や階級が発生するのも人間のどぉしようもない性ってモンなんだろうけど、彼の場合、何かヒドくそこに幼児性を感じてしまう。いい大人なら善くも悪くも上手くソフィスティケイトしてオブラートに包めるようなことが、このナンギな放哉には出来なかったのだ。発達障害とかだったんかもね。ガキの頃は座敷で自分の周りに屏風を並べて囲って、その中で本読んでたなんてエピソードがあるくらいだし。
 小説中にも多数引用されてる、他人の俳句評にもそんな彼のイヤな性格の一端が垣間見える気がする。高いトコ目線、って言えばそれまでなんだけど、なるほど軽妙かつ的確である一方で、何となく誠実さに欠けており、相手を少し小馬鹿にしたような冷笑が通底基調のように感じられるのだ・・・・・・まぁ、あれこれ知った後でバイアス掛かっちゃってるのもあるんだろうけどさ。

 クズっぷりっちゅう点ではこっちはこっちでムチャクチャに強烈だった石川啄木でさえ、殊勝に「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」なんて詠ってるのに、どうもこの頭脳明晰な一方で大いなる幼児性を引きずったまま大きくなったオッサンは、あらゆる世の中の人間が莫迦に見えて仕方なかったのかも知れない。ひょっとしたらパトロン連中についても、根っ子の部分では「おれみたいな天才には金出して当然だろ!?」くらいに思ってたフシさえある。
 しかし、現実社会の中では放哉の方がよっぽどバカなのは誰の目にも明らかだ。酒の失敗を重ねてエリートコースをドロップアウトし、ヨメには愛想尽かされ、肺病持ちになるわ金は一銭もないわで挙句、世の中の仕事としては多分ケッコー最底辺な寺男さえマトモに務まらないんだから。

 こうして考えて行くと、要するに彼は今で言うところの中二病の一種だったんぢゃないか?って思えてくる。ガッコでの勉強はある程度良く出来たものの、現実社会での生活能力はゼロ、俳人っちゅうよりはむしろ廃人で、事実、小豆島に渡った時は何一つ手荷物を持たず、夏の盛りとはいえ下駄履きに浴衣一枚だったっちゅうから、恐ろしいほどの素寒貧ぶりだった。言うまでもなく貧しそうだし、不審で胡乱でさえある。
 そんな惨めな状態が自分でもとことん思い知らされてる故に、達観した風は見せつつも、絶えず「おれホンマはごっつエラいねんぞ!おれが本気出したらなぁ〜!」みたいな、強がりのクセに依存心が強く、鬱屈して自己愛だらけの萎びた矜持がアタマをもたげようとしていた・・・・・・。

 そう、彼は中二病だったんだ、って考えると、矛盾・破綻しまくったその人となりもハラ落ちできる。

 でも中二病だって何だって構わない。吝嗇で守銭奴で博打が大好きなヤマ師に過ぎなかったパガニーニだって神技のような作品を残した。浪費家で奇矯な言動の多かったモーツァルトにしたって大作曲家として後世に名を遺した。その人となりと作品は無関係である。しかし、冷静に考えて本当に彼の句はどれも名句なんだろうか?と思ってしまうのも事実だ。

 いや全ての作品を否定する気は毛頭ない。優れた句は沢山ある。でも、良く知られた「墓のうらに廻る」や「いれものがない両手で受ける」なんてのにしたって、句だけ読んでもサッパリ意味分かりませんやん。分かります?いやマジで。
 気になって適当に青空文庫から拾ってみると、あまり知られてないのにも難解を通り越して意味不明なのが結構多い。特に小豆島移住以降、それは顕著になってるように思う。

 ------母の無い児の父であつたよ
 ------泉水のもとに身を寄せることになる
 ------秋風の石が子を産む話
 ------あけがたとろりとした時の夢であつたよ
 ------朝月嵐となる
 ------口開けぬ蜆死んでゐる
 ------寒ン空シヤツポがほしいな

 ・・・・・・「点取り占い」かよ!?「辻占」かよ!?(笑)。いやまぁ、そらたしかに独特の音韻のリズム感はあるよ。あるさ。だってそれさえなかったら、もぉどぉにもなりませんやんか。でも、ここから深い寂寥や赤貧の中を緩慢に死に近付いて行く心境は、おれにはどうしても読み取れない。おれに読解力が不足してるんだろうか?
 あくまでおれの勝手な推論だけど、作品だけでなく破滅的な生涯含めて、荻原井泉水がプロデューサー兼コーディネーターとして頑張った結果の名声なんぢゃないのか?って気がしてる。思えば唯一の句集・「大空」にしたって、井泉水編で刊行されたの没後僅か2ヶ月だった。ナンボ寡黙なモノローグのような文字数の少なさったって、活字にするにはあまりに早過ぎないか?

 「作者の生き様」っちゅう予備知識なしには正しく鑑賞できない作品なんて、作品としてどうなんだろうねぇ?・・・・・・それが目下のおれの結論だ。

 あぁそうだ。他人への無暗矢鱈な金の無心について触れるのを忘れてた。でももぉ割愛しても良いだろう。とにかく残ってる金を乞う手紙の顔色を窺いつつも図々しく、それでいてペダントリーだらけの文面は実に浅ましく、いやらしい。

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 話が長くなった。最後に、辞世の句と言われる「春の山のうしろから烟が出だした」について、ちょっとだけ私見を述べて終わりにしたい。

 一般的にこの句は、春の到来をワリと忠実な写生で淡々と詠ったものであり、「烟」は春霞、あるいは野焼きのことではないか?と解説されてることが多いように思う。あぁ、春が来たんだなぁ、嬉しいなぁ〜、と。そいでもって放哉は最後の最後、悟りにも似た平明で透徹した心境に至ったのだ・・・・・・みたいな。吉村もこの説に沿った記述をしてる。

 ・・・・・・って、そのまま逐語的に読むだけならメッチャ駄句やん。アホみたいやで。

 おれはこの解釈をかなり疑ってる。まず「山」。徹頭徹尾、自分の身の回りの瞬間を切り取って句の題材にしてた彼の言う「山」は、フツーに考えれば「南郷庵」っちゅうボロい大師堂の裏の、斜面に沿って一面に墓地が広がる低い山だったのは間違いなかろう(興味ある方は、GoogleMapで確認されると良い)。
 ここで「うしろ」を稜線の向こう側の裏側と解すべきなのか?、あるいは山の斜面の方の後ろの方なのか?については意見の分かれるトコだろうし、どっちかっちゅうたら前者の方が一般的であろうことも理解できるが、この句が詠まれたと思われる時点で彼は衰弱しきってほぼ寝たきりになっていた。それ故、目線の高さも見える範囲もフツーに立って眺めるのとは違ってたのではないか?って気がしてる。だから、「うしろ」は手前から見て後ろの方、ってな詠み方もなんとか可能ではないかとおれは思う。

 そして出だした「烟」だ。なるほど「烟霞」なんてコトバが存在するくらいで、両方の漢字は同義に扱われることもある。でももし霞ならどうして平明かつ分かりやすく「霞」と言わず、ワザワザ「烟」って言わねばならなかったのか?また、「出だした」って言い方も瞬間を切り取る彼の言語感覚からすると、「この数日出だした」みたいでちょっと馴染まない気がする。やっぱし見てる目の前でモワァ〜ッと烟が立ち上り始めたのを「出だした」と読んだ方がシックリ来る。しかし春霞はそこまでのスピードで現れたりはしない。
 だからって絶対に野焼きの煙でもないと思う。大体、降水量が少なくて強い季節風の続く冬の間にパリパリに乾き切った瀬戸内の島の春である。ヘタに野焼きなんざやろうもんなら山火事になって島全体が丸焼けになりかねないではないか。それにどだい野焼きするほどの耕作地が放哉の見たであろう裏山には存在してないし。

 ぢゃぁ何の烟か?・・・・・・言うまでもなくこれは、当時裏山の中腹にあったという斎場の隠坊窯で人を焼く煙だった、と解するのがベタな正解ではないかと思う。
 つまり、「霊場巡礼が賽銭や燈明代を落としてくれる待ちに待った春になったけど、裏山から斎場の煙が立ち昇り始めた。おれももぉアカンなぁ、すぐにあぁなるんだよなぁ〜、あ〜あ」ってな内容だと思う。禍々しい字面の単語は一切使わず、間延びした感さえある長閑さの中に恐るべき悲惨さと窮極の諦念を内包させた・・・・・・と読んだ方が、ガチのクズだったけど俳句だけは鬼才と呼ぶに値した彼の最期には相応しい・・・・・・と、おれは思いたい。

2020.11.17

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「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ