「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
暑さ寒さも彼岸まで


咲き始めた桜の古木が印象的な鷺ノ森神社入口にて。左がN、右がM。

 ・・・・・・な〜んてゆうけど、相変わらず寒い日が多くて、寧ろ「春は名のみの風の寒さや」ってな方が似合う今日この頃である。都内の桜も三分咲きくらいのところで足踏みしちゃってる感がある。通勤のコートもちょっと前から薄手のものに替え、さらにはライナーを外してたとはいえ、未だに手放せないでいるのがいささかナサケない。

 この2ヶ月くらいバタバタしてて落ち着かない生活を送ってる。そらまぁ年度替わりが迫れば、どんな業界だって多かれ少なかれバタつくワケで仕方ないことだし、毎年のこととはいえ、どぉにもスッキリしない。もっと色んなことをやりたいんだけど、時間はいつも不足しており、何とも味気なさと物足りなさばかりが募って行く。

 そんな状況の中、1月から企画していた下宿の第二回同窓会が京都で開かれた。大学、ではない。K荘という下宿を中心に入れ代わり立ち代わり毎日のように飲んだくれの自堕落な生活を送ってた連中が集まるのだ。前回はたしか15年くらい前に開かれたんで、随分久しぶりだ。

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 激増する外国人(言うまでもなくその大半は中国人)観光客によって、土曜日の朝の京都駅前は恐ろしく混み合っていた。

 バスターミナルではバスのダイヤが全然追い付いておらず、積み残しが出まくってる。大文字や三大祭の時の混雑が毎日のように繰り返されてるようなカンジで、これぢゃ住民は堪らんやろうなぁ〜、と同情してしまった。
 ともあれ5系統、国際会館行きのバスもまた若干の積み残しを置いてスシ詰めで出発。見てると観光バスの爆買い激安パックツアーで銀座あたりをウロついてるのとは違い、個人旅行ができるくらいの経済力のあるハイブローでソフィスティケイテッドされた層が多いのか、中国人だからってゲハゲハ喧しく、マナーが悪いっちゅうイメージとは異なる。随分みなさん上品で静かだ。往年の農協の団体旅行が顰蹙を買いまくってたのと同じ構図やね。
 今回は宿泊の手配もひじょうに苦労した。まずとにかく宿泊料金の値上がりが凄まじい。足掛かりの良い旧市内になると、一時はガキの修学旅行で数をこなして何とか食い繋いでたようなトコまでが眼の飛び出すような値段になっちゃってるし、そもそもまとまった部屋数が確保できないのである。何でいいトシこいた大人がこの程度の人数で分宿せにゃならんのだ。
 ・・・・・・などと立腹しつつも個人の力では最早二進も三進も行かず、色んな仕事絡みのルートを駆使してようやく手配できた。値下げ交渉についても随分頑張ってくれたみたいだったが、旅館が強気っちゅうか思い上がってるっちゅうか最初はまったく歯牙にもかけられず、下げられなかった分は旅行屋の方で泣いてお土産現物サービスとかなんとか、クルマのディーラーみたいな条件でようやくまとまったのだった。
 近年、あまりの歩行者の増加に歩道を拡張し車道を狭くする、なんちゅう無茶をした四条通、河原町通を抜け、平安神宮、岡崎とバスはトロトロ行く。いつまでたってもバスは満員で、暑くて息苦しくなってきたおれは南禅寺・永観堂前で降りた。地理はアタマの中に今でも入ってるし、どぉしたって回ることはできる。
 思えば、個人で京都を訪ねて最初に来たのが南禅寺だった。フカしではなくとても綺麗な女性と二人、煉瓦造りの疏水のアーチを歩いたことを想い出す。いささか甘酸っぱいようなむず痒いような、もう30年以上も前の話だ。
 まだ固い蕾が殆どの桜並木を眺めながら疏水沿いに銀閣寺に上がる。銀閣寺道をちょっと上がったトコにあって、出演させてもらったこともあるCBGB(旧サーカス&サーカス)はとうの昔に無くなった。しかし炉端と饂飩・蕎麦、そして寿司、3つの業態が通りに並ぶ「ん」は今も健在だ。一時期は毎晩のように通ってた。寿司職人のMさんは元気だろうか。ああ、「貝の黒潮丸」や「ちょんがラーメン」、「白樺」とかはどうなったんだろう。
 今度は吉田山を左に見て西へダラダラ下って行く。「くれしま」も今はひじょうに立派になった。当時は元田中と一乗寺に小さなお店があっただけで、一乗寺の方のお店には大概良く入り浸ってた。特大ジョッキの酎ハイをロクヨンで・・・・・・などととんでもない飲み方してたのを想い出す。
 さらに百万遍から東大路を南下する。周囲が巨大なコンクリートの大学施設に変わってしまい、並ぶ立て看板の内容も往年の過激なモノはすっかり影を潜めて大人しいものばかりになった中、時代の変遷もどこ吹く風といった風情で今なお西部講堂は建っていた。ビークレ、コンチ、ヴァンパ、スペルマ、ローザ・・・・・・いろんな名前が思い起こされ、そして沢山の人が亡くなったり廃人になったりしてった。近衛通の突き当り、ドラムレスのまま初めてライブやったスタジオヴァリエは今もやってて、今日も何かのイベントが開かれるのか、店の前にはフライヤーが何種類か積まれた長机が置かれスタッフがウロチョロしてる。
 いい加減疲れたところで再びバスに乗り祇園へ。まだ時間が早くて悪友たちは誰も宿に到着していない。取り敢えず荷物を預け、カメラと便利ズーム1本だけ持って京極に向かう。三条を入ったトコの十字屋は無理矢理Mにベースを買わせた店だ・・・・・・って、おれもここでフェルナンデスの白いプレシジョンベースのコピーモデル買ったんだったっけ。何のこっちゃない、この店ではベースにしか縁がなかったんだ(笑)。今では「けいおん!」の聖地らしい。オマケに斜め向かいに今は競合店が進出したりしてる。
 新京極を南に曲がってすぐが詩の小路ビル。当時は古着屋や洋盤屋、ライブハウスなんかが固まってて良く出掛けてったものだった。そこで買ったツイードのコートなんて今でも箪笥にぶら下がってる。あれ!?酒の配達に行ってたいさみ寿司はどこだったっけ?ああ、配達と言えばアル中オヤヂが店番してた土産物屋は寺町京極だったかな・・・・・・?
 一時期、京極界隈は低迷し、寺町京極に至ってはシャッター街のようになってた時期もあったが、外国人の爆買いに支えられて今は随分と賑わっている・・・・・・っちゅうかすれ違うのも大変やんけ。
 人混みに噎せそうになりながら宿に戻ると、既に数人が到着して所在無げにしてた。髪は無くなったり真っ白になったりとそれぞれだが、風貌はあまりみんな変わってない。おれも含めて根っ子の部分ではドイツもコイツも飄々とマイペースで苦の無い連中なのかも知れないな。そのうち段々と残りの面子も集まり始めた。職業は各人様々だが不思議と転職したヤツはおらず、みんなそれなりに手堅くそれぞれの道を歩んでいる。

 その夜の宴会はひじょうに盛り上がったのだった。

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 翌日は朝からみんなで京阪と叡電を乗り継いで修学院に向かう。

 出町柳の駅は複雑で繊細な骨組みが特徴の天蓋はそのままだったが、緑とアイボリーのツートンカラーの重々しくモーターが唸る旧型電車は一掃され、今はモダンな新型ばかりだ。沿線風景はあまり変わっていない。
 修学院の駅もその駅前も、風景は大きくは変わっていなかった(ちなみにここも「けいおん!」の聖地らしい)。しかし、しょっちゅう昼飯喰ってた王将も、部屋呑みの食材仕入れてたスーパーも、夜中に小腹が減って立ち寄ってた吉野家やラーメン龍昇も既に全て無くなってしまっている。そぉいやいつか行ってやろうと思ってた若桜街道沿いの鯰料理の老舗も廃業して、今はマンションが建ってるらしい。
 昔から変わらず寂れて閑散とした風情の短いアーケードを抜けると白川通、そこから鷺ノ森神社へ向かう緩い上り坂が始まる。保育園があって、Tが夜中に残品で表に出されるコンビニ弁当パクッたりしてたよろず屋があって、そして入口の鳥居。参道はいつの間にか舗装されて歩きやすくなっていた。左手にあったここもまたクズな連中の溜まり場だったS荘はとうの昔に無くなり、今は一戸建てが跡地に建っている。クズ学生のみならず京都のいろんな奇人変人の溜まり場だった喫茶Uも、看板だけは残るものの廃業して久しい。スッカリ御歳は召されたものの、マスターは矍鑠たる様子でお元気そうなのにホッとする。
 そのまま神社に入って境内を左に折れ、北側の関西セミナーハウスへ向かう通りを少し下ればおれの住んでたハイツSだ・・・・・・って、えっ!?ここもいつの間にか無くなって一戸建てに代わってるやんか。思えば鉄筋コンクリートで防音性が良いってだけが取り柄の、クソ狭くて夏はジメジメと湿度が高く、冬は猛烈に冷え込むっちゅう、とんでもなく劣悪な環境の部屋だった。
 等高線に沿うように北に抜けて音羽川沿いの雲母坂に出る。途中のS湯って風呂屋も、その隣のたこ焼き屋も今はもうない。大して品揃えは良くなかったもののとにかく最寄でしょっちゅう酒買ってたI酒店も無くなってしまってるし、離宮道に突き当たったトコのFってササミカツ定食がボリューミーだった店も今は無い。ただそんな中、おれが後半の三年間を過ごしたM荘が当時と殆ど変らぬ姿で残っていたのは嬉しかった。ここは明るい南向きの2階で京間の四畳半と三畳半の二部屋の間取りで、とても暮らしやすかった。また、Nが銀閣寺界隈から移って来たシャトーSも、周囲に一戸建てが建て込んで日当たりが悪くなったものの健在だし、オムライスが大きかった喫茶Tも続いてるようだ。
 そして赤山禅院への道を左に折れればすぐに、大学入りたてだったおれたちの、自堕落で刹那的、弛緩しまくりながらも一方で焦燥感に満ちた日々の最も拠点だったK荘がある。
 実際のところ、みんながここを根城にしてた期間は意外に短かったのだった。K田は懇ろになって連れ込んでた女の子の喘ぎ声のデカさに流石に居辛くなって、おれの住んでたハイツSに転がり込んだし、真面目なK西は「これ以上ここにおったらホンマにダメになる」っと言って大学の近くに移ってった。交友関係の輪の中心人物だったMもたしか4回生になるまでには色んな活動が忙しくなったのもあって、不便な修学院に見切りをつけて西大路へと移ったハズだ。第二の拠点だったS荘もTが心を病んで国に戻り、S年が辛気臭さに耐えられず荒神口に移り、Kが舞踏が忙しくなって出て行き・・・・・・と、マトモな学生なら卒業を迎えるであろう4回生まで暮らし続けたヤツは殆どいなかった。思えば何だかんだで修学院に最後までへばりついて暮らしてたのはおれだ。そうだ、おれが一番最後まで狂躁と夢に二日酔いしたようなダメなクズだった。
 それにしても人通りが少ない。修学院は今やもう学生街ではなくなってしまってるのである。スクーターも走ってなければ、ジャージに綿入れの袢纏着たようなのも歩いてない。この時期の土日ならば町のあちこちで見かけたはずの、学生の卒業や入学に伴う引っ越しの小さな赤帽トラックも見掛けない。逆に建売の一戸建ては随分と増えた。そらそうだ。おれたちがバカやってた頃から30年余りが過ぎたのだ。

 ・・・・・・K荘の前に着いたおれたちは再び茫然とした。ここもまた綺麗サッパリ無くなってしまっていたのである。敷地内には白い壁の眩しい真新しい一戸建てが建ち、何かの墓標のように悄然と残るコンクリートの門柱だけが僅かに昔を物語る。

 昼下がりの春の陽射しが暖かい。見上げればこうした春の訪れとともに緑がムクムクと盛り上がり始める比叡山が、オッサンの感傷をよそに全く昔と変わらぬ姿で聳えていた。


殆ど遺跡と化したK荘入口の門柱。

2016.04.03

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