「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
「あるべき姿」のいかがわしさ


ローレンス・オリヴィエのハムレット

 最近、妙にあちこちで聞くようになった言葉の一つに「あるべき姿」ってーのがある。

 どうだろ?この十年くらいで急速に広まったように思う。ビジネス本とかそれに類する記事、あるいは企業PRの宣伝文中やコミットメントとかで良く見かける。後ろに「〜の追求」とか「〜を目指す」なんて文句が続くこともある。いやもぉハッキシゆうて「濫用されてる」ちゅうたかて過言ではないだろう。気になってネットで検索掛けてみたら、120万件くらいヒットした。どうやらドラッカーあたりの本の邦訳の表現が嚆矢のようで、そのリバイバルのブームも手伝って広まったようである。

 でもって曰く・・・・・・

    「社員一人一人のあるべき姿」
    「食のあるべき姿」
    「教育のあるべき姿」
    「医療のあるべき姿」
    「夫婦のあるべき姿」
    「上司のあるべき姿」
    「リーダーのあるべき姿」
    「組織のあるべき姿」
    「システムのあるべき姿」
    「事業のあるべき姿」
    「企業のあるべき姿」
    「政治のあるべき姿」
    「国のあるべき姿」・・・・・・etc

 ・・・・・・べきべきべきべきと、っともう何か骨でも折れてんのか!?と茶々入れたくなるほどに、今やこの世のあらゆる事物に対して滑稽なまでに「あるべき姿」はくっ付いて溢れ返ってやがる。ああ〜っ!ほんまイライラする。実に鬱陶しいぞ!

 笑ったのには「犬のあるべき姿」や「猫のあるべき姿」なんてーのまであったことだ。阿呆な飼い主にワケの分からん理想像を押し付けられて日々鍛錬、研鑽させられてる犬猫の姿まで想像すると何だかとても可哀想に思えてしまった。もし犬猫が話せたら「知らんがな!ボケッッ!」って叫びたいことだろう。

 ともあれ、この鬱陶しさは一体全体どこから来るのだろう?

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 大体、「あるべき」ってぇのがそもそも日本語としてとてもヘンな気がする。本来は「そうあるべきだ」とか文中の言い回しに過ぎなかったのが、いつの間にやら形容詞として独立した単語のようになっちゃってる。恐らくは英文の生硬な訳文がかくも奇妙な言葉を生んだのではあるまいか?とも思うが良く分からない・・・・・・ま、当たらずとも遠からずだとは思うが。

 ・・・・・・では訳される前の元の言葉は何なんだ?

 「べき」と言われて最初に思い付くのは助動詞の”should”だろうが、助動詞っちゅうくらいで何らかの動詞を伴わないと役には立ってくれない。次に考えたのは”ideal”だが、これはむしろ「理想的」とでもした方がシックリ収まる。事実、英和辞典を引いても「あるべき」なんてヘンな訳は出て来ない。まぁ「姿」は”form”とか”figure”だろう。う〜ん、”Ideal Form”---理想的な姿---がわりかしそれでも近いかも知れない。
 そうだ、有名なシェイクスピアの台詞に”To Be Or Not To Be ,That’s The Question”っちゅうのがあったっけ。ハムレットが大仰に「生きるべきか?死ぬべきか?それが問題だ」って嘆くアレですな。ただし、訳に対する異論はいろいろあって決定的ではない。ないのだけれども不定詞の”to”には「・・・・・すべき」って意味があるのは事実だ。ならば、逆直訳で”Form To Be”なんてのも考えられるかもしれない。ハハ、「あるべき姿」そのまんまやね。
 さらには”vision”な〜んて一言で済む言葉もある。一般的には「未来像」とか「理想像」っちゅうのが邦訳にはあてられるけど、「あるべき姿」と訳せなくもなかろう。

 嗚呼、はしなくもおれの英語力の乏しさが露呈するだけになってしまった。実に恥ずかしい。って、それはまぁ置いといてしかし、おれが「あるべき姿」に感じてるキモチ悪さは、そんな日本語のクセに日本語らしくない生硬な響きだけではない。

 「あるべき」には、どこか「主観を排除した普遍性」を無理やり押し付けてくるような感じがあるのだ。「理想」とか「目標」、あるいは「夢」なんて言ってしまうと、「それはアンタだけでしょ!?」ってたちどころに反駁される。たしかにそうだ。「理想」や「目標」や「夢」なんて個々人のエゴの産物に過ぎないことを、これだけいろんな価値が多様化した現代のおれたちは既に知ってしまってる。今やもう手垢まみれで薄汚れてんだな、「理想」その他の言葉は。

 そういった昔からある言葉と比べると、「あるべき」って言葉からは見事に主語が欠落させられてるようにおれには思える。いや、「隠蔽されてる」と言った方がより正しいか。
 まるで「あるべき」と主張してるのが神や仏といった絶対的で超越的な存在であるかのように、よくよく考えればただもう単なる個人の主張に過ぎない、あるいはグダグダとみんなで無い知恵絞った結果に過ぎないことなのをすり替えて、どこか啓示的に響かせようとする究極の権威主義の陰険な意思を看取してしまうおれがひねくれてるのだろうか?・・・・・・そらまぁ実際かなりひねくれてんだけどさ、おれ(笑)。

 まだある。

 「あるべき姿」ったってそうはカンタンに実現するワケない。今の時代、利害関係が錯綜してたり、法律の足枷も増えてたり、国際化が進んだり、優れたアイデアもアッちゅう間に世界中に拡散したりするから、段々むつかしくなってるようにも思う。
 そんな状況を踏まえて尚「あるべき姿」を語るなんてどうにも、ケツまくった開き直りのふてぶてしさしかおれには感じられないのである。「私は右顧左眄しません!ひたすら邁進します!」ってな愚直の押し売りのようである。踏まえてなかったらただのバカだし。
 百歩譲って万に一人もいないようなその道の達人が「あるべき姿」を語るのならそれなりに凄味も感じられようが、どこをどう考えてももうちょっとあちこちキョロキョロ見て勉強した方が良さそうなのが「あるべき姿」なんてアータ、暗愚と頑迷しか伝わって来ぇへんっちゅうねん。ちったぁ周囲の意見に耳を傾けろ、と言いたくなってしまうぞ。

 どうにも日本人の悪いクセで、どこかこうした求道的な言葉に当てられやすい。それで右向け右で、そうしてドイツもコイツも「あるべき姿」だ。それはあるべきどころかとても不様な姿だとおれは思う。

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 ともあれ、猫も杓子も「あるべき姿」などと軽々に口走るようになったこの国の未来をおれはとても暗いと思ってる。本当に憂慮すべき嘆かわしい状況である。こんな言葉をマトモに信じて奉じてたら、ただでさえガラパゴスで自閉的になりやすいこの国を、ますます硬直化させ変化に取り残させるだけではないのか?

 断言してもいい。「あるべき姿」なんて現実の矛盾を忌避し救いようのないエゴを糊塗するだけの幻惑の罠に過ぎない。実にいかがわしい。そろそろおれたちはそのことに気付かなくてはならない。

2016.01.06

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