「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
続・産業の世紀のカテドラル・・・・・・富岡製糸場


気が遠くなるほどの数の繭がここで茹でられ、富国強兵の元手の生糸になった。

 秋の一日、富岡製糸場に出掛けてみた。世界文化遺産に指定されたとかで猛烈な人出であることは行く前から分かっており、人ごみが殊の外嫌いなおれはイマイチ気乗りしなかったんだけど、ヨメが一度行ってみようっちゅうモンで、いささか渋々ながらクルマを走らせたのだった。

 その存在についてはもちろん随分昔から知っていた。なのにこれまで無精してたのは、「管理された廃墟」っちゅうのにもひとつ興味が湧かなかったからだ。思えばもったいないことをしたモンだ。商売っ気がなく、見学者も疎らで、どこか没落貴族のお屋敷的な風情を味わうことは今となっては到底不可能だろう。

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 建て替えになったばかりの異様にモダンっちゅうかスッカラカンなデザインの上州富岡駅からすでに、田舎電車とは思えないほど沢山の人で溢れている。製糸場が世界遺産になったおかげで乗降客が激増したんだと思われる。既にこの辺で戦意喪失。ともあれ永年の乗客減少に苦しみ、廃止が囁かれる上信電鉄もこれで一息ついた、ってトコだろう。高崎からもそんなに遠くないので、帰路の渋滞を避けるんなら、いささか高くつくかもしれないが、都内から新幹線を乗り継いで来るのはローカル線の風情も味わえて、それほど悪くない手段だと思う。え!?おれ!?おれはこのどうしても日本一揺れると言われる上信電鉄に一度乗って見たかったんで、別の駅前にクルマを停めて来たのである。

 駅前広場には如何にもかつて繭とシルクの集散地として栄えた地方都市の佇まいがある。しかし今では町外れにバイパスができて交通の中心はそっちに移ってしまったから、往来にクルマの姿はほとんどない。すぐ目の前に煉瓦や大谷石でできた古めかしい倉庫が聳える。その脇を通って製糸場に向かう。市役所やNTTといった施設が駅前近くに固まってるのも地方都市らしい。
 別に製糸場に行かずとも一日を費やす価値があるのではと思ったくらい、富岡の街並みは古い廃市の雰囲気を色濃く残しており、好ましいシーナリィがテンコ盛りだ。それが世界遺産に何をトチ狂ったか、どうでもいいような「ふれあい館」だの「交流館」だの粗製濫造で、それらの古い建物にヘタな改造を施してるのがいささか見苦しい。

 そのうち製糸場に到着。どっひゃぁ〜!どっからこんなに湧いたんや!?っちゅうくらいの人の群れ!おれは専ら裏路地を抜けて駅の方から南下してやって来たんだけど、殆どの人は製糸場東方に出来た駐車場からやって来るのだった。若者は数えるほどで、ジジィババァが大半だ。年金はもっと下げていいよな〜、ってこぉゆうのを見るといつも思ってしまう。これから先の年金ではない。今の年金だ。

 思ってたよりも狭い正門の向こうにポスターなんかでも良く見かける巨大な煉瓦造りの重厚な建物が見えた。入ってすぐ左側にある守衛室や事務所もきわめて古い佇まいで好感が持てる・・・・・・が、なんだか着ぐるみのゆるキャラがウロウロしてたり、団体旅行のバッヂ付けた集団が右往左往してたり、地元ボランティアだか何だか揃いのジャンパー来たこれまた年寄りがウロウロしてたり、何だかもう喧しいことこの上ない。
 ともあれ最初に見えたのが日本初の官営工場として明治5年に出来た建物群の一つである東置繭所である。ひたすらドベーンと横に長い。説明書によれば100メートル以上あるらしい。何だかおれはかつて通った自分の大学の校舎を想い出した・・・・・・ってまぁ、ロクすっぽ通わなかったんだけどね(笑)。

 その内部はもう見物客で溢れ返らんばかり、薄暗いレンガ倉庫の中の風情を撮ろうにもままならず、おれたちは人いきれの中から早々に中庭に出たのだが、相変わらずそこも人が溢れている。
 彼方に見える同じ形をした建物が西置繭所だ。そっちは現在非公開なのでほとんど人の姿はない。二つの建物の間に直角方向に建つのが乾燥所・・・・・・のハズなんだけど、今年の大雪で押し潰されて一面瓦礫の山になってしまっていた。アチャチャ。元の姿に復元するのは大変だろう。
 引き返して、これまたベラボウにうなぎの寝床な繰糸場へ。仕組みは良く分からないけどとにかく長大な連続ラインの機械の上、シンメトリカルに屋根の梁と柱と筋交いが作る規則的で繊細なパターンが圧倒的に深いパースペクティヴで彼方まで並ぶ様は美しくも圧倒的だ。かつての京都駅0番線の優雅な飾りのついた木造屋根を想い出させるが、遥かにこちらの方が大きく、歪みもなく、そして均整が取れている。

 ・・・・・・そうしておれはこれもまたやはり産業の世紀のカテドラルなのだと思い至ったのだった。

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 どうも明治維新から太平洋戦争敗戦までの近代史は、自虐史観でもって否定的にばかりとらえられることが多い。誰とはここで言う気はないけど、そのような単純な善悪二元論的バイアスを掛けた進歩的知識人とやらの罪は極めて大きいと思う。なるほど宜しくない点も多々あったが、もっと真っ当に評価されるべき点もまた多々あったとおれは思ってる。個人はともかく、歴史の動きにおいて功と罪はいつも相半ばするものなのだ。

 少なくとも当時の欧米の列強に追い付け追い越せと、国を挙げて必死で頑張りまくったことは、様々な歪みを生んだとはいえ、全体としては相当以上の成功を生んだことは間違いなく事実だろう。戦後日本の発展と繁栄にしたって、焦土からのなりふり構わぬ努力だけで出来たものではない。やはり明治以降にとんでもないパワーで積み上げてきた様々なインフラや産業の素地があったからこそできたことである。富国強兵の「強兵」ばかり語ろうとする連中の、自分たちもまた「富国」の上に安穏と胡坐掻いてるっちゅう自覚の欠如は、空恐ろしいほどにおめでたく、罪深い。

 明治維新から僅か5年、5年でだよ、北関東の一寒村だったここ富岡に、今の感覚で見ても十分に巨大な工場を忽然と出現させたその情熱はやはりスゴい。驚くべきは同年には新橋〜横浜に鉄道が開通している。意外に知られてないけど東京〜大阪の電信だって開通している。恐るべき政策決定の速さと行動力である。百家争鳴・議論百出なだけで遅々として何一つ決まらない今とは大違いだな。オマケにプロ市民とかワケ分かんねぇのが湧いてきたりもするしねぇ・・・・・・話が逸れた。それはともかくどれも金に糸目を付けず、とんでもないジャブジャブの高給と上にも置かないおもてなしで外国人技師やら講師を招聘しまくり、採算ベース度外視・赤字大出血覚悟で人足集めてバッキバキにトバしまくりのペースで立ち上げたのだ。メチャクチャである。今の中国も驚く変化のスピードである。

 その精華がほぼ形を変えずに現存していることの価値を最も深く理解してたのは、やはり最後の所有者だったカタクラだろう。年間1億にも上ったと言われる公租公課や維持費を工場閉鎖後も20年近く黙って払い続けたその感覚は、明治の先人の豪快さや粋と同質のものだと思う。

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 敷地や現存する建物数のわりに解放されてる箇所は少なく、アッと言う間に見学は終わった。

 来た道そのまま戻るのも何なんで、正門前の通りをブラブラする。相変わらず人はウジャウジャ溢れてる。シルク石鹸に絹焼売・・・・・・元からある食堂や喫茶店はともかく、妙にケバケバしく幟なんか立ててるのは世界文化遺産に色めき立った掘っ立て商売ばかりだ。その無秩序と猥雑をおれは決して嫌いではないけれど、明治の先人のやったことに較べるとやはりまことにケチ臭くもみみっちい。大儀や理想ばかりの先にはファナティックな危うさと脆さが絶えず付きまとうとはいえ、我欲ばかりが目に付いてそれらが全く欠落してるのはやはりブサイクでみっともない。

 「ここは一つ、思い切って片倉・『シルク号』のランドナーでも復刻して売れば面白いのにな〜」・・・・・・などとワケの分からんことをボヤきつつ、それでも何だか良く分からないコンニャクの串カツなんぞを購って齧りながら、おれたちは駅に向かってったのだった。

2014.11.08

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