「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
産業の世紀のカテドラル・・・・・・住友赤平立坑


4:3にトリミングしてシンメトリーな感じと天井の高さを強調してみました。

 こっちに来てから以前ほど温泉を訪ね歩こうって熱意が今一つ湧いて来ない。主だったところはかつて訪問しているのだし、20年も経って再訪すれば、変わってないことに安堵するよりも、変わってしまったことに落胆して凹むことの方が多いに決まってるからだ。変わったならまだしも、消えてしまったところが幾つもある。然別峡菅野、大雪中岳・天女の湯、島田、臼別・・・・・・雷電朝日も大好きな温泉だったし、それなりに有名な秘湯で順風満帆と思ってたところに、未曽有の大水害で流出したまま営業再開の目途は全然立ってない。まぁどこもかしこも惨憺たる有様なのである。

 そんなんで別の愉しみを見付けようと思って、専ら炭鉱跡を中心とする、廃墟とまでは行かないまでも産業遺物を訪ね歩くことが増えた。三笠・幾春別・万字・美唄・歌志内・・・・・・気付けば結構あちこち出掛けてってる。
 ただ、炭鉱地帯に昔日の面影を見出そうとしてもむつかしい。閉山に伴う失業対策事業に原状復帰させる決まりでもあるのか、炭鉱特有の建屋の多くは取り壊され、せいぜい残ってても解体が面倒なコンクリート造りの選炭ポケットやシックナーくらいなもので、あとはただもう茫漠と広がる草原や、猛烈な生命力で枝を伸ばした森や林が広がるばかりなのである。荒涼たる沈鬱な風景だ。

 そこにかつて人が居た。
 そこにかつて町があった。
 そこにかつて鉄道が通っていた。
 そこにかつてさまざまな生業があった。
 そこにかつて生活があった、さんざめく人の喧騒があった、喜怒哀楽があった。

 ・・・・・・全ては喪われてしまった。

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 数多くある炭鉱跡の中でも赤平は気になる存在だった。一つは小規模ながらほぼ完全な形で残る福住炭鉱の選炭ポケットと、もう一つは駅裏の、かつてヤードの線路が何本も並んでいただだっ広い空き地に取り残されたように聳える赤間炭鉱の選炭工場の基礎をいつかは見てみたいと思ってたからだ。

 行ってみた。

 どちらもイメージしてた通りの風景だった。さらにちょっと向こうには、有名な住友赤平坑の立坑が顔を出している。正直、立坑の櫓は幌内や奔別、上砂川等、どこも遠望しかできないところが多く、あまり期待はしていなかった。
 行ってみるとやはり下の建物はすべて立入禁止で、周囲をウロウロするしかない。ここは平成6年と、国内でも比較的最近まで操業していた炭鉱なので、建屋はわりと近代的な印象だ。それでも荒廃の翳は確実に忍び寄っていることが分かる。色は褪せ、窓ガラスはあちこちで割れ、鋼板には褐色の錆が一面に蔽いつつある。
 景気低迷もあってか、いくら天下の住友グループとはいえ維持する資金が苦しいのかも知れない。あるいはもう止めてしまった商売にビタ一文出す気はないのかも。繁栄の象徴であった赤いネオンも今は外されてしまっている。ともあれ、あまり真面目に保存する気はなさそうに思えるが、ここの面白いところは今でも年に1回か2回、一般公開を行っていることである。その際に撮影された画像についてはネット上で随分たくさん見ている。

 ------中見れんかったら意味ないやんけ!!

 などと悪態をひとりごちながら、周囲をいろんな角度から撮影し終え、道路の反対側に渡って巨大な浴場跡の前に立つ案内看板を撮ろうとしてたら、一人の初老の男性に声を掛けられた。

 ------東京からですか?
 ------いえいえ、札幌です。単身赴任でクルマ持って来てるんです。
 ------それで、こんなところを見に来ておられるんですか?
 ------いやまぁ、なんか好きなんですよね。
 ------他にも行かれました?
 ------はぁ、今朝から福住と赤間を見てきたところです。
 ------そうですか・・・・・・宜しければ中、御覧になられますか?
 ------え!?見れるんですか!?たしかここ、一般公開以外は入れないんぢゃ・・・・・・
 ------実は私、ボランティアでここのガイドやってまして、今日は大学の調査団が来るんで、準備しようと思って来たんですよ。
 ------見ます見ます見ます!是非とも見させてください!!
 ------迎えに行く約束があるんで、15分くらいしか時間ないですけど。
 ------全然、構いません!まさか内部が見れるなんて!

 もう一人、周囲をウロウロしてたおれと同年代のおっさんと二人がこの特別拝観に浴することができた。狭いシャッターを上げ、電灯を点けながら(電気通ってるんだ!?)、昔ここで働いてたこと、埋蔵量は実は膨大でまだ数パーセントしか採掘してないこと、決まりなんで中ではヘルメット被ってもらうこと等々、ガイド氏の話は続く。

 入ったところは長椅子の並んだ待合室みたいなところだった。おそらく昔はここで始業前の点呼や朝礼なんかが行われてたんだろう。薄緑色のペンキが随所で使われているのが何とも懐かしい。今は見学者への説明に使われているらしく、いくつかの看板が並んでいた。

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 どういう理由があるのか知らないけど、事務所から現場への通路はどんな工場であれ狭いものと相場が決まっている。ここもその例に漏れず、立坑の方に向かう渡り廊下になった通路はひどく狭いものだった。そしてそこを抜けたとき、薄暗く静まり返った中におれは見た。

 高さ50m近い、鉄骨で組まれた吹き抜けの巨大でシンメトリカルな空間。
 高い窓から射し込む光。
 その中央に聳え、屋根を突き抜けてそそり立つ立坑の太い櫓。
 さららにその真ん中にある、鉄の檻のような堅牢なエレベーターのフレーム。
 延びる何本もの鉱車の2フィートゲージの軌条。
 まるで脇侍のように両翼に配された、空色に塗られた制御室の小屋。

 ・・・・・・息を呑むほどに圧倒的な、もはや荘厳とも言える光景だった。

 限られた時間なので、ISOや絞りどころか構図さえもロクに確かめずにおれは写真を撮りまくった。もう一人のおっさんはカメラを忘れてきたことをしきりにボヤいてる。悔やむ気持ちは良く分かった。ガイドの大将の説明はさらに続く。埋蔵量は実は膨大でまだ全体の数パーセントしか採掘していないこと、エレベータは地下1,100mまで降りることができ、その速度は秒速12mとスカイツリーのそれよりも速かったこと、最盛期には坑内作業員・事務員合わせて4千人もの人が働いていたこと、人車はこのような垂直立坑では使われず、展示用に他から運んできたこと、作業員は4階建てになった72人乗りのエレベータで現場に向かっていたこと、石炭と同時に噴出するメタンガスのおかげで暖房や湯沸しには全く困らなかったこと、鉱車の仕分けはすべて操縦室からの遠隔操作で行え、バネの付いた棒のようなもので突放すると転がってってバケットから石炭を降ろして空車になるとヤードにまで勝手に戻って行ったこと、使われなくなると急速にあちこちが老朽化して痛んできていること・・・・・・等々。

 さらに隣の建物の2階に案内される。恐ろしく大きなプーリーが床に据え付けられ、天井近く、これまた巨大なホイストクレーンが走る部屋の中央にも制御室がある。ここがどうやらエレベーターの籠を動かす動力室だったらしい。ドアを開けると小さな踊り場で、先ほどの立坑の中心部を見下ろすことができる。そこだけがスポットライトが当たったように小さな陽だまりになっていた。

 ふと「カテドラル」という言葉が浮かんだ。大聖堂って意味だ。日本的に言えば伽藍とでも言おうか、いずれにせよ宗教的な巨大ホールのことである。そうだ、これは二十世紀という産業の世紀が生み出し、それが終焉を迎えて人が去り、動力が落とされ、静寂に包まれた今、その産業の世紀そのものが祀られるカテドラルとなっているのだ・・・・・・と思った。

 15分なんてアッと言う間だった。外に出ると初夏の日差しが眩しい。

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 もう一人のおっさんと相談して、固辞する大将に「将来に向けた保存資金の足しにでもしてください」と、半ば無理やり寸志の見学料を渡しておれは赤平を立ち去った。
 次の目的地である旭川に向かうクルマの中で、おれはワケも分からず、戦後の我々が何を大きく得て、何を大きく喪ったのかについてとめどもなく考えていた。その思念は勿論決してまとまることはなかったし、まとまらないままここに書いたってどうにも仕方ないのだけれど・・・・・・。

 今度は「産業の世紀の密林」とも言える室蘭の巨大工場群の夜景でも撮りに行こうかと思ってる。

 2012.06.26

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