「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
Farewell To Television


それはかつて魔法の箱だった・・・・・・。

http://www.hello-school.net/より 
 おれはTVを観ない。だから持ってもいない。よってNHKの受信料も払ってない。それで別段これといって不自由は感じてないし、特に情報弱者になることもなく暮らせている。ノープロブレムだ。帰省先の自宅にはもちろん置いてあるけれど、自ら観ようとしてチャンネルを回す・・・・・・って古い言い方だなぁ〜(笑)、昔はガチャガチャと回したんですわ。それはともかく、自宅でも自ら観ることはない。TVの反対側に自分の机とPCがあって、殆どはそっち向いてるので音声が聞こえるのと、たまに振り返った時に画面が目に入る程度だ。
 今も会社の休憩室のTV が点いておれば何となく眺めはする。でも、特にチャンネル変えようとかは思わない。出張でホテルに泊まっても、あんまり静かだと寂しいもんだから点けるだけで、特にジックリ見入ることはない。

 昔から観ないワケではなかった。否、むしろガキの頃はTVっ子だったかも知れない。とは申せ、みょうちくりんな親父に強力に規制されてるもんだからゴールデンアワーの人気番組を見ることはなかなか叶わなかったけれど、それでも夕方のドラマやら時代劇やら新喜劇やらワイドショーやらニュースやらはまずまず普通に観てた。
 ロック、なるものに目覚めた頃も、NHKで週末にやってる「ヤングミュージックショー」なんてのを必死でチェックしてた。家にどうしても帰れないときは、TVにラジカセ繋いで録音したりもしてたのだから、熱心と言ってもいいだろう。大学に入ってからも、拾ってきたものとはいえチャンと部屋にはTVがあった。初期の「探偵ナイトスクープ」や「タモリ倶楽部」、「MTV」なんて欠かさず観てたクチである。

 何ぞ高尚・高邁な主義主張があって観なくなったのではない。ただもう要するに、番組が詰まらないから鬱陶しくも面倒で、いつの間にかだんだん観なくなってったのである。別に低俗だとかそんな理由ではない。真逆である。おれは見るに耐えないような低俗で下品なものだって滅法大好きなのだ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 これまで日本の伝家の宝刀であった家電製造、その中でもとりわけTV製造の苦境が伝えられている。大手は次々に国内生産を縮小したり打ち切ったり、あるいは外国メーカーからのOEMに切り替えるようなところまで現れている。三種の神器とまで呼ばれ、庶民の憧れであり、豊かさの象徴であった道具が見るも無残な様相を呈している。
 その原因が単に価格競争力が無くなったとか、そんなんだろうか?と思う。まぁ、おれみたいに極端なのはそう多くないだろうけど、実の所、多くの人がもはやTVっちゅう機械は元より、TV放送そのものに心の底から倦んでしまっているのではないかと。
 
 状況設定やストーリーにムリあり過ぎて全然入り込めないドラマ、キンキン声で猛烈な安さを訴える割にはちょっと型遅ればっか紹介する通販、個人のプライバシーだか何だかボカしだらけの映像に、極めて常識的なだけの平べったい原理原則の正義を叫ぶニュース番組、枯れ木も山のにぎわいとばかりに30人も40人も売れない芸人並べる毒気も何もないバラエティー、大口開けて美味い思いしてるのテメェだけぢゃねぇか!と言いたくなるグルメ・旅番組、今やちょっとした小金持ちなら出掛けて行ける程度の世界の風景、ネットで調べりゃ数秒で分かる程度の、あるいは今更そんなの設問にするな!という程度のクイズ・・・・・・言っちゃ悪いが、どれも観るだけ時間の無駄だ。無駄なら無駄でもっと過激な濃密さくらいはあって良かろうと思うけど、それもない。何もないのだ。
 読まれてる方に業界関係者がいたら申し訳ないが、おれがこの数年で食い入るように画面を見たのは、刻々伝えられる東日本大震災の映像、あれだけだった・・・・・・いや、それさえもPCのストリーミングで見たのが大半だった。何故なら、地震でTVはひっくり返って台から落っこちてローテーブルの角っこに当たり、それで画面が割れて映らなかったのである(笑)。

 かつてTVは家庭の中心にあった。ステテコ姿で夕涼みしながら巨人戦を観て、試合運びに一喜一憂しつつ枝豆にキリンの瓶ビール、あるいは子供たちが寝静まるのを待って「11PM」に鼻の下を伸ばす・・・・・・なんちゅう陳腐でステロタイプなイメージ通りの光景は、実際に多くの家庭であったのだ。力道山とジェフ・ブラッシーの流血試合を見て興奮した何人ものジジィが死んだのも事実ならば、日本で初めての衛星中継放送が偶然の結果とはいえ、戦後アメリカの最大の暗部であるJ・F・ケネディ暗殺事件であり、それを恐ろしくたくさんの人々が見たのもこれまた事実。
 学校に行けば前夜のプロレスの話題で盛り上がり、時には四の字固めだ卍固めだとワザの掛け合いをする。エキサイトしてやり過ぎて障碍残ったりするコまで現れて、それが社会問題になったことさえある。、ヒーローものをキッチリ押さえてることは男子生徒としては当然の嗜みだったし、女の子はグループサウンズだ御三家だ新御三家だと瞳をウルウルさせてTVの前で黄色い声援上げてたのは、ちびまる子ちゃん観たら分かるよね?

 最初は華奢な4本足だった白黒TVは、70年代の到来とともにカラーにシフトし、同時に家具調のひどく重厚長大なデザインへと変わって行った。それでも中は真空管で、スイッチ入れて画面が現れるまで1分くらいかかるのがご愛嬌だったけれど、それが、トランジスタになりワイヤレスになり液晶になり、と便利になる一方でどんどん存在感は薄れて行った。実際の筐体もスリムに小さくなってった。そうして一家に一台はそのうち一部屋に一台となり、時には風呂の中にまで置かれるようになって、TVは団欒の中心としての意義を完全に喪失してしまった。
 それは何だか日本から、父親の存在感が希薄になって行ったのと軌を一にしてるようにも思える。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 TVが何で一時代を築きえたかっちゅうと、要は動画メディアが他には映画くらいしかなく、ましてや動画を映画館以外で楽しむことなんてできなかったから、ってことに尽きるのではないかと思う。だから、映画の合間に挟まれていたニュースはすぐに駆逐されてしまったのだろう。しかしながら、斜陽・斜陽と言われながら、その圧倒的な大画面と、暗い部屋の中に入るっちゅう遊園地的なイベント感覚で以て、映画は今後もそれなりのマーケットを保ち得るような気がするのだけれど、これだけPCやらWebが発達してしまうと、どっか「中途半端なお仕着せ」であるTVの分がいささか悪いのは誰の目にも明らかなことであろう。
 そういえばラジオ放送についても苦境が伝えられて久しい。各地でFM 局がツブれてる実態がある。そしてその次にTVの退潮がやって来たのは、けだし当然のことであったような気がしてならない。韓流ドラマブームなんて最後の残り火の燃え上がりに見える。

 さらにもっと言うなら「公共放送」ということそのものが厳しく見直しの時期を迫られているのではないかと、おれは睨んでいる。実の所、公共放送はいくつかの点で本質的な弱点を抱えている。結論から言っちゃうとそれは、「相互性」・「再現性」・「倫理性」ってことになる。

 相互性とは最近の言い方だと「インタラクティヴ」ってことになるのだろうが、見せる側・聞かせる側と見せられる側・聞かされる側が一方通行、ってコトだ。これについてはかなり早い時期からメディア側は気付いていたようで、だからこそ「視聴者参加型」なんて言われる番組が隆盛を極めたのだ。ラジオで言うなら往年の「オールナイトニッポン」とか「ヤンタン」「ヤンリク」なんて番組がまさにそうだろう。視聴者からのハガキやら電話でプログラムの殆どが成り立つようなアレ。
 しかしながら、そこには自ずと限界もあった。クチャクチャ書いても仕方ないから端折ると、いくら視聴者を参加させても、畢竟それは視聴者が番組に参加してるだけであり、番組作りそのものに於いてはいわば作り手と受け手と言う支配/被支配に似た関係があったのだ。
 この点をネットは易々と乗り越えてしまった。大体において、その端緒は「パソ通」なのである。通信はまさにインタラクティヴであり、中身の出来/不出来はともかく誰もが発信者・製作者・表現者になれるところに、放送に対する圧倒的な優位性があった。

 「再現性」とは要は、もっかい観たり聴いたりが容易にできるか?ってコトだ。そんなん録音とか録画しときゃエエやん!って思ったアナタ、それは甘い。それらは予め、録音・録画するんだという気持ちが無いとできないコトなのだ。つまり予定に組み込んどかなくちゃいけない。あ!これいいな!と思ってそっからゴソゴソやったって間に合わないのだ。
 最近レコーダーの容量が劇的に向上する中で、1週間分の番組を全チャンネル全部録っておく、なんて〜のまで登場し始めた。その口上だけだと、まぁなんてアホな機能に血道上げてるんだ?って思っちゃうけど、実はこれ作った人は良く分かってて、放送が抱える「再現性」の弱さに応えるにはこんな手法しかなかい、って結論に至らざるを得なかったのではなかろうか。
 この点では1日に何回も上映する映画にだって優位性がある。もっかい観たけりゃ次の上映を観ればいいのである。入替制でなければ追い金も発生しない。言うまでもなくネットにはさらなる優位性がある。何せ、データである以上どっかに必ず情報はキャッシュされてるのである。何回でも観れる・聴けるのだ。

 そして「倫理性」だ。道徳性、あるいは良識性と言ってもいいだろう。分かりやすい例でいうと、「放送コード」ってヤツが最低最悪の例だ。これは放送のみならず、出版等、あらゆるメディアを覆う、くだらなくも深甚な問題なんだけど、生放送だったりすることも多いだけにもっとも毒され、骨抜きにされているのが放送の分野なのだ。そしてこのことが決定的にTVを衰退させたんぢゃないかと思う。
 おれはしばらく前に人生初めてのひどい腰痛に苦しんだ。痛くて痛くて夜もロクに眠れない。それで一旦治りかけた頃に追い打ちのようにぎっくり腰になった。運悪くたまたま休日だったので、おれは部屋の中をイザッて進むしかなかった。それがちょっと治ったと思ったら今度は痛みが大腿部から膝に来て、ズーッとチンバ引いて歩いていた。正直このまま一生ビッコでカタワになってしまうんぢゃないかと思った・・・・・・言うまでもなくここで書いた「いざり(躄)」だとか「ちんば・びっこ(跛)」、あるいは「かたわ(片端)」といった言葉は放送では使えない。勿論、チンコ・マンコ・オメコの類もご法度だ。
 今はわざと卑俗な例ばかり引いたが、かつて井上ひさしがエッセイに書いてたのにはいささか慄然とした。「漁夫」もアウトなんだそうな。だから「漁夫の利」は「漁業従事者の利」と言わねばならん、そんなアホなことやっとれっかい!ってなってTV業界からは距離を置くようになったとかなんとか、そんな話だったと思う。

 公器である以上、良識的であることが求められる。それは分かないではない。しかし良識だけが支配してしまってはどうにもやはり面白くない。行き過ぎた良識の支配する世界は、見るべきものに目を塞ぎ、耳を塞いだ、嘘の清浄さに満ち満ちて不気味だ。宗教団体や日本共産党のポスターのキモチ悪さに近い。綺麗ごとばっかし。いつの頃からかTVはまさにそんな状態だ。ものすごくキモチ悪いのである。
 「不適切な表現」とやらがあればすぐ謝罪テロップ、あるいはお断り。異常なまでの個人情報保護への配慮、ボカシ、ボイスチェンジャー。未成年は何やっても仮名。張り巡らされた配慮と自主規制と禁止・自粛事項の雁字搦めの網。どうでもいいような、口当たりのいい上滑りした笑安っぽい善意の強要と押し売り。貶され・弄られるのはなぜか芸人だけという奇妙な構図、そのクセ何かある度に起きる猛烈でヒステリックなバッシング・・・・・・結果、気付けばいつの間にか、抜け殻のような味も素っ気もない番組ばかりになっていた。こんな体たらくでTVという存在が終わらない方がむしろどうにかしてると思うのだけど、皆さんはどう思われるだろう?。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 有り体に言って、TVはもはや総合的な文化メディアとしては終わっちゃってるのだ。あんなモン、「愚者の箱」に過ぎない。

 もう、TVはあれこれ番組を用意する必要なんてない。スポンサーに穴が開いたりしたら放送の止まる時間があったっていいぢゃねぇか。ACのポポポ〜ン♪で穴埋めすることもない。砂嵐でいい。そいでもってニュースとスポーツその他ライヴなんかの生中継(それこそフジロック3日間全生中継でもやってみろ、っちゅうの!)、あとはせいぜい幼児向け番組だけ残せばいい。おれは真剣にそう思ってる。チャンネルだって2つか3つあれば十分だ。

 電機メーカーだって、映像機器全体の研究はドシドシ継続してくれたらいいけど、TVなんて道具、発展途上国向けにどっかの国で安モンを作ってくれたらいいんだよ、くらいに構えてていいんぢゃないかと思う。白熱灯やフロッピーディスクの製造に今更こだわったってしゃぁないでしょ?それと一緒だ。

 さよなら、TV。
 かつての淀川長治さん風に言えば、さよなら、さよなら、さよなら、だな(笑)。

2012.06.01

----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
Copyright(C) REWSPROV All Rights Reserved