「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
凶の家


今はもう誰もご存じぢゃない(笑)EP−4のジャケット。金属バットの一柳展也宅。

 陰気な話、辛気臭い話は書きたくないものだなあぁ〜、と常々思ってるし、普遍性のない個人的な話書いたって、読まされる方は退屈でワケ分からんから鬱陶しいだけだろうとも思ってる。
 しかしながら、ここのところ振り回されてる多忙の原因がそぉゆう話なので、ネタ切れついでに書いてみることにする。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 大学に合格しておれはせいせいした。決して受験勉強から解放されたからではない。これでようやっと家から離れられる、と思ったからだ。おれは家から合法的に、文句ひとつ言わせず出たいがためだけに臥薪嘗胆、何年もせっせと勉強に励んできたのだ。実に歪んだガキもあったモンだが、本音なんだから仕方ない。したがって、ウカるだろうと思ってたとはいえ、合格発表を見たときはまことに清々しい気分になった・・・・・・ああ、「せいせい」も「すがすが」も同じ漢字なんだ。

 もう勉学なんざどうでもよかった。すぐに友人の下宿を泊まり歩いて寄り付かなくなることで事実上家を出た。1年ほどそんな生活を続けて、なし崩し的に京都の北のはずれ近い修学院に下宿を借りて移ったのが2回生の春だった。それから今に至るまで7〜8回は転居したと思う。その間にヨメができ、子供が生まれしながら人生のもう2/3近くを、親から距離を置いてやってきたことになる。

 親の何がそんなに疎ましかったのか?と問われれば、「そらもぉアンタ、全てですよ!!」とでも答えるしかない。おれにとって両親と一緒に住まう家とは、閉塞感だらけの息の詰まるような世界だった。そしてそれは今でも変わっていない。それどころか、以前よりそのような気持ちは強くなった気がしている。そのグロテスクさ、おぞましさばかりが目についてしまう。残念ながら、子供として当然持ち合わすべき肉親への感情、といったものがどうしても湧いてこないのだ。一般的にはそれはとても悲しむべきことなんだろうけど、おれだけの努力ではどうにもできない。あらゆる人間関係の改善にはお互いの譲歩みたいなもんが不可欠だと思うし、何度も何度も忠告を重ねたのだが、彼等は一切耳を貸さなかった。驢馬のように頑迷に。

 外面ばかり良く、実態は中身のないペダンティックな俗物で、家庭においては独り善がりな専横を振り回すだけの阿呆な父親についてはこれまで何度も書いた通りだ。
 一方で母親も母親で、過去のきわめて狭い範囲の体験だけを全ての世界観・価値観とし、そのクセそれらの記憶はルサンチマンだらけという元々捻じれまくった状態で、今更言ったってどぉにもならない恨み言を、壊れたテープループのように繰り返し繰り返し語るばかりで、自らは何一つ変わろうとしない、変えようとしない人だった。そして信じられないことには、父親のことを心底唾棄しつつ結局は全面的に依存していた。それを夫婦の不思議さなどとノー天気に片付ける気には到底なれない。
 そんな両親の愛情を一身に受けて(笑)、おれは育てられたのである。実に困った話だ。

 まぁ、おれもあまり社会性に富んだ方ではないからあまりエラそうには言えないとは申せ、両親の社会性の無さはさらに極端に輪をかけたものだった。

 まず父親。上にまとめた性格からおおよその見当は付くだろうが、要は他人と付き合うことを、何か自分の知的優位性を見せびらかすことと履き違えてる感じがあった。要は周囲から「あの人はスゴい人やねぇ、エエ人やねぇ」と言われたいだけなのである。コテコテの大阪人の分際で奇妙な標準語を振り回すかと思えば、今時桂米朝でも使わんような上方ことば、っちゅうんですか、死語と化した古い大阪弁を持ち出したり、と妙にスカしたよそよそしくも頓珍漢な物言いで、必死になって「何かありそうな人」に思わせようとするのである。つまりはブラフである。ハッタリである。ハッタリをかますっちゅうことは、相手に対して意識的に距離を置くことに他ならない。
 逆に権威にはものすごく弱い。「オマエ、**さんって**大学出て**に長く勤めてた人でな、その人が・・・・・・」、あるいは「オマエ、**という本知ってるか?(←当然おれは知らない、笑)それ書いた人で**さんていう方が・・・・・・」ってな調子で、近隣のどぉでもいいようなおっさんと知己になったのを得意げに話すのを何度聞かされたことだろう。冷静に考えると、これって「強きを助け弱気を挫く」を体力ではなく知力でやってるのに他ならないよね?
 一事が万事こんな調子だから、趣味とかで繋がる知り合いはいても、ハラを割ってアホ話ができるような友人は一人もいなかったと言えるだろう。

 ・・・・・・で、母親は、っちゅうと、これがもぉ社会性云々を論じる以前に、まずマトモに社会に出たことがないのである。別に深窓の令嬢で育ったとかでは勿論、ない。中学を出てからも日がな祖父の営むメダル工場や、玉造にあった親戚のブリキの玩具工場で働き、外に出たといえばおそらくお茶か何かの習い事で出たくらいのものだろう。こう書くと極めて特異なケースに見えるが、昔はそんな風に育てられる人はいくらでもいた。
 それでも小・中学校の同級生とかに仲良しの一人くらいいたっておかしくないと思うのだが、ついぞ聞いたことがない。結局、社会性が無くて誰とも付き合えなかったんだろう。したがって、その世界観や価値観がきわめて偏狭になるのはけだし当然のことであった。
 結婚して家を出て五軒長屋に移ってからは否応なしに近所付き合いが生じる。団地に引っ越してからは隣はもとより階下や階上、隣の棟にまでそれは広がる。おれが幼稚園や小学校に進めば、同級生の親との交流ができる。しかし、根がそんなんだから近所付き合いにしたってちょっとも発展性がない。しばらくは仲良くする。それもベタベタに仲良くする。そうして最後はいつも一緒のパターンだ。あの人はどぉだこぉだ、と文句言いだして付き合いが途絶えてしまう。
 畢竟、母親は他人と付き合うことを、自分の超個人的な昔語りの愚痴をウンウンと頷きながら聞いてもらうことと履き違えているのである。甘えてるワケである。そんなん無料で引き受けてくれるおめでたいヤツなんておらん、って(笑)。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、家の話だ。上に述べたとおりの二人が仲の良いワケなんてないんだけど、奇妙な共通の目標があった。それは一戸建てである。そして、今となっては幸運だか不運だか分かんないが、千載一遇のチャンスは廻って来た。バブルである。

 どうしたことか母親は、何一つ勉強したことないにもかかわらず株の売買が異常に上手い。団地も、その前の五軒長屋も株で当てて買ったのだ。そしてバブルの勃興期、散歩してたら宅地分譲の抽選会をやってたのだそうな。ダメ元で申し込んだらこれが補欠当選、当時は後先考えずに申し込む人が多かったもんだから辞退者がそれなりに出て当選は繰り上がり、アッとゆう間に家は出来上がった。支払いの一部には父親の退職金を前払いにすることも含まれてたような記憶がある。

 それは多分、おれが会社に入って2年目くらいの頃だったから、80年代の終わり近くだったと思う。当時、おれも家の名義人になるよう、散々親からの誘いがあった。「ローンはこっちで払うし、いずれどうせオマエのモンになるんやし、相続税が安くなるから」が殺し文句である。しかし、おれは家なんて家族の人数に見合った広さがあれば十分だと思ってたし、別段一戸建てに興味もないからずっと断り続けていたのであった。ハッキリ、「おれぁ一戸建てなんて別に欲しいとも思わん」と言ったこともあるが、夢の終着駅がそれしかない彼等には、無論通じるはずもなかった。

 出来上がった家は何の変哲もない2階建てだった。5LDK+納戸っちゅうんだろうか、広い洋室の居間を中心に和室や台所があって、2階には20畳近い無闇に大きな部屋と、小ぶりな寝室、さらには書庫になる小さなスペースさえあった。しかし立派は立派なのだけど、湿気が凄くて妙に底冷えのする家ではあった。親たちは「まだできたばっかりでコンクリが乾き切ってないんや」とか言って、まったく気にしようともしなかったが・・・・・・。
 一方で上屋に拘るあまり、基礎周りを惜しんだせいで、周囲になんか変なデッドスペースが出来たりして、坪数の割に敷地全体も庭もひどく小さく見えた。オマケにほとんど金を掛けなかったので妙に殺風景だ。そんなんでも両親はようやっとの思いで手に入れた一戸建てにひどく満足しているようだった。その姿に半ば呆れ、半ば苦笑しつつも、まぁエエんちゃうかな、と思った記憶がある。親とはいえ他人である。それが兎にも角にも喜んでるのである。おれが暮らすワケでもなし、そこにまでズカズカ踏み込んで干渉し、茶々を入れるほどおれも野暮ではない。

 そのうち、帰る度に家には調度類が増えて行った。それなりの器にはそれなりの物を、とでも思ったんだろう。猫脚の優雅っちゅうよりは悪趣味なロココ調の応接セット、巨大な一枚板の食卓、螺鈿細工の座卓、岩屋堂箪笥みたいなコテコテしい小物入れ、巨大なガラス棚、高そうな絨毯にラグ、鏡台、シャンデリアやらコーナーランプやらの凝った照明器具・・・・・・etcetc。
 大きな器に小さな器が揃えば今度はその中身、ってな理屈なのか、続いては夥しい数のガラス細工や壺、飾り皿といった置物類や食器が家に氾濫しはじめた。行き場をなくしたそれらは階段の途中にまで置かれている。価値があるのかないのか良く分からないタペストリーなんかもあった。馴染みの家具屋兼雑貨屋は、良い金づる見付けて、揉み手でハラの底では舌出してたに違いない。バカな両親は盛んにあの家具屋はエエ人やと言ってたけど、実際はかなり口上書きに乗せられて高値で掴まされてるとおれは睨んでいた。
 衣服や宝飾品の類もドンドン増えてった。今時着てたら杉本彩にシバかれそうな毛皮とか、指輪、ネックレス、ブローチの類・・・・・・まるで家に仕え、それをゴテゴテに飾り立てることで奉仕するようなその姿は、実に貧しくうそ寒い。
 これら一連の家をデコる作業で専らイニシアティヴを握っていたのは母親の方である。父親はゼニ勘定がサッパリ出来ない方なのと、モノに対して恬淡を気取りつつも生来の見栄坊ゆえに、直接手を下すことなはなかった。

 それでもまぁ、金にあかせてこうしてせっせと調度類を買い揃えてる時が、おれの知る限りでは彼等の夫婦仲が最も良い時だったように思う。しかし、そのうち一通りのモノが揃って、共通目標を喪ってしまうと、何せ底が浅いもんだからまた元の木阿弥、些細なことであーだこーだいがみ合う、以前の状態にたちまち戻って行った。

 ・・・・・・にしても、なんでそんなに金があったのか?理由はただもうバブルだったからである。株は転がすほどに面白いように儲かったらしい。元住んでた団地は1,000万もあればお釣りが来たのが、あれよあれよという間に5,000万近くにまで高騰していた。ナンボ駅前とはいえ築30年近い公団の3DKが、だよ。買ったばかりの家にも、不動産屋が巨大なジュラルミンケースに現金詰めて売ってくれと訪ねてくるような狂った時代だったのだ。
 ちなみにその後に訪れたバブル崩壊の影響はほとんどなかった。これまた幸か不幸か父親が大病を患ったのを機に、株券の類をすべて金に換えていたのである。結果的には最高の時期に上手く売り抜けたのだ。

 ともあれ、そんなゴテゴテになった家のすべての雨戸を朝な夕なに神経質に開け閉めする頃から、異変はもうすでに始まっていたのだ、と今になって思う。そのうち、母親が家から出たがらなくなった。理由はいくつか挙げられるだろう。先ず何より、家こそが自分の城であり、最も心地よい場所だった、ってのがある。「この家おったらわざわざ出掛けてって旅館なんか泊まる気になれへん」などと、しょっちゅう真顔で言ってた。
 次に、家を空けると空き巣その他が心配、ってーのがある。実のところ家具や置物なんて、最近の中島知子騒動でもあったけど、売ったって二束三文にしかならないモノの代表だ。泥棒ったって、彼等にしてみりゃ雨戸を締め切った家の方が仕事がしやすい、っちゅうのは有名な話なんだけど、社会に対して目を塞いで、ひたすら家の中のことに向かってるもんだから伝わる由もない。
 3つ目は元々の社会性の無さだ。バブルに浮かれるついでに、いろんな習い事に手を出してみたのは、これまでになく外向きで画期的なことで、おれとしては良いことだと見てたんだが、結局は対人関係が原因でどれ一つ長続きしなかったのである。

 少しは自分の考え方自体を見直したり、いろんな見聞を広げたりすることに金遣え、とおれは何度も忠告した。モノにまみれて家の中にズーッといることは、そのうち絶対に良くない方に行く、とハッキリ断言しさえもした。しかし、決してそぉいったことに金は遣わなかった。むしろおれの意見をアオいものとして歯牙にもかけず、時には逆に憐憫の眼差しで説教されさえもした。
 そしてさらには老境の域に入ることが、より他人の意見を受け入れたり、新しいことへの好奇心(・・・・・・元々殆ど無かったけど、笑)を疎外する方に向けて行ったと思う。

 気付けば立派な引き籠もりいっちょ出来上がりだ。母親は睡眠薬や精神薬が手放せなくなり、ますます外界は遠くなる。もう物を買おうにも置き場所もない。上で述べたとおりの狭い世界観・価値観だけで、あとは他に何もないピーマンだからすることがない。いつの間にか雨戸は締められてることの方が増え、昼とも夜とも分からんような家の中で、ひたすら鬱々と過去の記憶を反芻するだけ。そして10年くらい過ぎた。

 ではこの間父親は何をしとったのか?まぁ、甲斐々々しく一生懸命にはやってたと思う。それを否定する気はない。ないが、根本がズレてるから最もやるべきではないことをしてたと言える。即ち、外に出たがらない母親に代わって買い物に行き、何事も億劫になって動こうとしない母親に代わって家事のあれこれをし、そしてキチンとした所でキチンとした診療を受けさせればよいところを、近所のクリニックみたいなところでお茶を濁して、本人ロクに連れて行かず、代わりに薬だけ取りに行くようなことを続けたのだ。それも相変わらず些細なことに目くじら立て、ブツブツ怒って本人に当たりながら。
 要するに一番向き合うべき部分・・・・・・つまりは母親がなぜそこに至ってるのか?に少しも向き合うことのないまま、独りよがりな世話ばかり続けたワケだ。二人だけの、恐ろしく狭苦しい世界。

 オマケに止せばいいのに数年前から猫まで飼い始めた。相変わらずあーだこーだ能書き死ぬほど並べてたたものの、要はケチだから金出すのが惜しくて野良を拾ってきたのである。これは散々講釈垂れた挙句、勿体付けてホンダ・シビックの一番安いグレードを買った時と同じパターンだ。己が吝嗇を糊塗するためのペダントリーなんて最悪だ。
 コイツがどうにもダメ猫で、暴れるばかりで人にまったく懐かない。ついでに当然ながら猫とは夜行性の動物である。だから夜な夜な家の中をドタバタと音立てて駆け回るワケだ。もぉ捨ててしまえば良いようなのを、それこそ猫可愛がりで間抜けな声出して、後を追いかけて呼び戻そうとする。こんなこと毎晩やられちゃ、マトモな人間だってそらおかしなるわ。
 アッという間に襖や障子は穴だらけになり、柱や家具は傷だらけになった。あれほど調度自慢だったのが、あばら家の風情さえ出て来た(笑)。

 本当にやるべきことは違ってた。平たく言えば、もっと対等になって話を聞いてやりゃぁ良かったのだ。気むつかしく威張って否定ばかりせず、認めて感謝の声を掛けてやりゃぁ良かったのだ。無理にでも外に連れ出してやりゃぁ良かったのだ。夫婦ぐるみでいろんな関わりを持つようにすりゃぁ良かったのだ。

 無論、これらのことについてもおれは何度も大いに問題だと忠告した。しかしいつも徒労に終わるのがオチだった。「エエねん。大丈夫、分かってる。心配すんな」から始まり、結局最後は「生意気抜かすな!黙っとれ!おれがエエ言うてるからエエんだ!」となる。何の根拠もないのにどうしたらここまで自分を過大評価できるのか、自分という存在に依拠できるのか、まったくもって理解に苦しむ(笑)。ホトケ心を出したおれがアホだった、といい加減バカバカしくなって、ますますおれは実家には足が遠のいていた。端的に言うと、この数年は盆暮れも帰らず、疎遠とさえ言える状況になっていたのである。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 いずれにせよこんな状況の中で暮らして良い未来が待っていようはずがない。人は人と交わってこそ人足りうる。母親はついにというか、ミもフタもない言い方をすると要は発狂した。痴呆もやや混じって目下たいへんな状態である・・・・・・こう書くととんでもないことのように思えるが、なぁに、本来的な形質が顕在化しただけのことである。

 当然の帰結だとおれは思っている。けだしあらゆる関係がそうであるように、両親のどちらかが一方的に悪くてこうなったのではない。どっちもどっち、強いて言うなら七・三か六・四の割合くらいなモンだろう。

 2012.03.18
 
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
Copyright(C) REWSPROV All Rights Reserved